「よくも俺たちからあの娘を奪ってくれたな」
覆面をした4人の男達はルイ・ルプラーをアパートのベッドに縛り付けていた。
「よせ」
第一次世界大戦で片足が不自由になったルプラーは、思うように逃げ出すことができなかったのだ。
「あんたの惚れた“小さな雀”を返してもらおうか」銃口がルプラーの頭部を狙っていた。
「誰が渡すものか。彼女はおれのものでもお前達のものでもない。この世界と彼女自身のものなのだ」
「じゃあ死ね」
銃口から銃弾が発射された。
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ジャズが黒人発祥の音楽なら、シャンソンは白人発祥の音楽である。共通点としては、どちらも労働者階級や下町の人々の生活から生まれた音楽というところだろうか。愛や社会的メッセージを込めた歌が多い。もともとシャンソンとはフランス語で“歌謡”を意味する言葉である。豊かな声量で情景や感情を表現する音楽だ。
シャンソンの代表的な歌手といえば、なんといってもエディット・ピアフになるだろう。
彼女は大道芸人の父とカフェの歌手だった母の間に生まれた。当時から貧しい家庭だったので、父方の祖母の売春宿に預けられて幼少時期を過ごす。3歳から7歳の間、角膜炎を発症して盲目になってしまった。ところがピアフを可愛がってくれた娼婦が、聖テレーズに巡礼に行って祈ると奇跡的にピアフの視力は回復したという。
ピアフが20歳のある日のことである。日銭を稼ぐため路上で歌っているところに、偶然ナイトクラブの経営者ルイ・ルプラーが通りかかった。ピアフは142cmと小柄ながら、その豊かな声量とハスキーな声は聴く者の心を鷲づかみにして離さなかった。
ルプラーは人垣をかき分けて前に進み出た。
「お嬢さん。わたしの店で歌ってみませんか?」
ルプラーはどこか女らしさを感じさせる優しそうな男だった。丸顔で眉が細く、二重の大きなたれ目が印象的で、薄い唇は片方が上がっており、常に微笑みをたたえているように見える。
「あの・・・・・・わたしにはそんな大勢の人前で歌うなんて無理です」
「なにをおっしゃっているのですか。あなたの歌声を聞いたら誰だってうっとりしてしまう。わたしの店は上流階級も大勢きますが、ここにいらっしゃる下流・・・いや、大衆のみなさんも毎晩聴きにきてくれている。レコード会社のお偉方の目にとまればプロの歌手としてデビューすることだってあり得るのです」
引っ込み思案のピアフを、豪腕のルプラーは“小さな雀”というニックネームをつけて、半なかば強引に舞台に上がらせてしまった。そこで人気が沸騰し、翌年にはレコード・デビューが決まったのだった。
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「ピアフさん。あなた、ルプラーさんを殺害した犯人の共犯者ではありませんか?」
ピアフは警察署の取調室で尋問を受けていた。
「どうしてそんなことを・・・・・・」ピアフは涙ながらに訴えた。「ルプラーお父さんをなぜわたしが殺さなければならないの」
「家政婦の話ではね。その4人組は街のギャングじゃないかと言っているんだよ。犯行のとき、彼女も縛られて猿ぐつわをされたそうでね。どうも裏口の鍵を誰かが開けて手引きしたのではないかと言ってるのさ」
「だからって・・・・・・」
「ピアフさんのボーイフレンドは、あのあたりの不良グループのひとりだっていうじゃないですか」
「彼はそんなことをするような人じゃありません」
「ただねえ・・・盗まれたものがないのが腑に落ちない。引き出しにあった現金にも手をつけた形跡がない。つまり、ルプラーとピアフさんとの仲を引き裂くために・・・・・・」
「ルプラーお父さんは同性愛者だったのです。そんなわけないじゃありませんか」
その時、ピアフの後ろのドアが開いて別の刑事がなにやら耳打ちをした。
「わかりました」刑事はため息をついて言った。「あなたのボーイフレンドのアリバイが成立しました。疑ったりして申し訳ない。これも商売なんでね。許してください」
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ルプラーを殺したのはいったい誰なのだろう。きっとピアフの熱狂的なファンが、自分たちだけの小さな世界にいた彼女を、ルプラーに奪われたことに腹を立てて犯した犯罪だったのではないだろうか。ところがピアフ本人が警察に捕まってしまったことに驚いて、身を隠してしまったのに違いない。
警察署を出たピアフは、『ばら色の人生』『愛の賛歌』『パリの空の下』など、立て続けに名曲を発表した。
それはまるで一羽の雀が、鳥籠から世界という大空に羽ばたいたかのようだ。もはや誰の手にも届かないくらい高いところへと。