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悩めるゴッホ

“みなさんのために、南フランスのアルルに黄色い家を借りました。ここはフランスの日本です。さあ、一緒に真の芸術を探求しようではありませんか”


 ゴッホから送られてきた手紙の内容である。ところが受け取った画家たちは、一様に厭な顔をした。

「いい人なんだけど・・・・・・一緒に住むとなるとちょっとね」

「おれ達が彼をそんなに好いていると思っているのかな・・・思い込みが過ぎるよ」

「いままで一枚だって自分の絵が売れたことなんかないじゃないか。よくそれで画家を気取れるよな」

「ところで、なんでアルルがフランスの日本なんだ?」


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 当時ゴッホはパリで浮世絵を観て、すっかり日本に陶酔してしまっていた。そして、日本の画家はひとつ屋根の下で共同生活を送りながら絵を描いていると思い込んでいた。

 漫画家の手塚治虫が、トキワ荘というアパートで赤塚不二夫や石ノ森章太郎、藤子不二雄などと共同生活をしていたのを誰かに聞き、間違えて覚えてしまったのかもしれない。


「今、みなさんのために、食堂にひまわりの絵を描いて飾ろうと思っています。ひまわりは、太陽に向かって顔を向け続ける。ぼくらもひとつの目標に向かって芸術を昇華させましょう」

 ゴッホは12枚のひまわりの絵を描く計画を立てていた。しかし彼の招集に応える者はひとりとしていなかった。

「・・・・・・おかしいな。誰も引っ越して来ない。いったいどうなっているんだろう」

 すっかり落ち込んだゴッホは、弟でスポンサーのテオに泣きついた。この黄色い家も、テオが出資して借りた家だったのだ。

「兄さん。ちょっと待っててよ。ゴーギャンに掛け合ってみるからさ」


 当時ゴーギャンは娼家通いで金を使い果たしていた。

「ゴーギャンさん、お願いですから」

「いや・・・・・・ゴッホは悪いやつではないよ。もちろん絵の才能も認める。でも一緒に住むのだけは勘弁してくれ」

「必要な資金は援助させていただきます」

「知ってるだろう。あいつは一度癇癪を起すと手がつけられない奴なんだ」

「そこをなんとか・・・・・・ゴーギャンさんの描いた絵はすべてこちらで購入させていただきますから」

 画商に勤めていたテオはゴーギャンを口説き落とすのに必死だった。

「本当かね。そこまで言うのなら」

 ゴーギャンは渋々オーケーしたのであった。


 ところが同居して1ケ月もすると、大喜びしていたゴッホとゴーギャンの仲がギクシャクしはじめる。ゴッホの部屋があまりにも汚かったことと、料理がまずすぎたこと、ストーカーの様に常にゴーギャンの生活をゴッホが見張っていることが原因だった。

 そして二人の共同生活は2ケ月後のクリスマスイブにとうとう破綻をきたしたのである。

 いざこざは、ゴーギャンが描いた『ひまわりを描くファン・ゴッホの肖像』が発端になった。

「ぼくはこんな耳をしているかな」とゴッホが難癖をつけた。

「なんで。こんな耳じゃないか」

「いや、ぼくはこんな耳をしていないよ」

「どこがおかしいのだ。この絵の通りじゃないか」

「ゴーギャン。目はちゃんとついているのか」

「ゴッホ。お前の頭は正常なのか」

 口論の末、ゴーギャンは憤然として黄色い家を飛び出した。ゴーギャンはムシャクシャしたときには、いつも娼家に娼婦を買いに行くのだ。

「行くのか?」

 ゴッホはゴーギャンに対して、この家を出ていくつもりなのかと訊いたつもりだった。

「行くよ」

 ゴーギャンは娼婦に会いに行くと答えたつもりであった。

 ゴッホはひとり部屋にこもり、相変わらずひまわりの絵の続きを描こうとした。だが絵を描くにはいささか感情がたかぶりすぎていた。ゴッホは洗面台からカミソリを持ち出すと、鏡に向かって自分の左耳にカミソリの刃を当てた。


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「こんばんは」

「はい。どちらさま」

 娼家の玄関に大きなベレー帽を被ったゴッホが立っていた。

「これをゴーギャンに届けにきました。ぼくのことを忘れないで欲しいと伝えてください」

 そう言うと、ドア越しに出て来た娼婦に紙包みを渡して去ってしまった。

「なあに、クリスマスプレゼントかしら?」娼婦が包みを開けると、そこにはゴッホの血だらけの左耳が入っていた。

 クリスマスイブの夜空におぞましい悲鳴が轟いた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 ゴッホは精神病院に送られた。

 その後も入退院を繰り返しながら、ゴッホは絵を描き続けた。空が渦巻状だったり、壁が折れ曲がったり、木が曲がりくねって描かれたゴッホの絵を評価するものは誰もいなかった。

 ゴッホの生涯で売れた絵は『赤い葡萄畑』一枚きりである。彼の絵が1枚数億単位の値がついたのは彼の死後、だいぶ経ってからなのだ。


 そんなある日、草原で写生をしているゴッホのデッサンをひとりの少年が背後からのぞき込んでいた。都会から避暑に来ていた金持ちのドラ息子だった。

「おじさん。それなに?」

「これかい?あの風景だよ」

 ゴッホは草原の木々を指さした。

「ふうん。スゲー」

「だろう」ゴッホは笑顔を作った。

「ヘタクソ」

「クソガキ。あっちへ行け!」

 少年はゲラゲラ笑いながら逃げていった。そして振り向くとこう言った。

「でも面白い絵だ。パパが買いたがるかも」

「え、本当かい?」

「ウソだよ」

 少年は舌を出して走っり去って行ってしまった。

 それから少年は毎日のようにゴッホをからかいに来た。ゴッホは馬鹿にされながらもこの少年に友情すら感じはじめていたのだった。

「ほら凄いだろう。拳銃だぜ。おれはガンマンなんだ」

 その日も少年はゴッホをからかっていた。

「ふん。どうせ子供の玩具だろ」

 ゴッホは相手にしない素振りをして、描きかけの絵に筆を動かしていた。

「ふふん」少年はおどけて早撃ちのポーズを取ったり、ひとさし指で拳銃をグルグル回したりしてゴッホの気を引こうとした。とその時、銃が暴発してしまったのである。

 パンという乾いた音がすると、ゴッホの腹部に弾丸が命中してしまった。見る見るうちにゴッホの腹に花のような赤い染みが広がりだした。ゴッホは何が起こったのかまったくわからなかった。ただ熱いという感覚だけが鮮明に頭の中に駆けめぐった。

「あ、あ・・・・・・」

 少年は青くなって後ずさりした。「ぼ・・・・・・ぼく」

「だ・・・・・・だいじょうぶだ。なんともないよ」

 ゴッホは無理に笑顔を作って少年を安心させようとした。せっかくできた友達をこんな形で失いたくなかったのだ。でも少年は走って行ってしまった。そしてその報を少年から受けた少年の家族は、脱兎のごとく荷物をまとめて故郷に帰ってしまったのである。


 その夜、腹部に銃弾を受けて帰ってきたゴッホを見て宿舎は騒然となった。医者が来てもゴッホは最後まで自分が誤って撃ってしまったと証言した。もちろんその銃は今でも見つかっていない。

 その夜、ゴッホは帰らぬ人となった。


 天国からゴッホの声が聞こえてきそうである。「ぼくの絵が時代を先取りした前衛的な絵画だって?馬鹿を言ってはいけない。ぼくはただありのまま描いただけさ。だってぼくの目には風景があの絵の通りにしか見えなかったのだから」

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