「な、なんだここは……!? 俺たちは、観覧車に乗っていたはずなのに……!」
生き霊さんの身体から、黒いオーラが発生した。そのオーラがゴンドラ内を包み込んだ瞬間、俺は、夜の古民家の中に立っていた。訳が分からない。だが、この感覚。以前にも味わったことがある……!
「赤い通路の時と、同じだ……」
膝が震える。あの時の恐怖を思い出すだけでも、絶望的な恐怖に襲われる。しかし、現状の風景も、とてつもなく怖い。薄暗い中、行燈の明かりだけが室内を照らしている。古びた夜の和室というこの独特の雰囲気、ホラー映画のイメージそのものだった。
「ふふ……」
女の笑い声が聞こえた。一気に背筋が凍る。ただでさえもう限界だ。畳み掛けるように、不気味なことが起こる。生き霊さん、お願いだ。助けてくれ……!
「な、生瀬……さん……?」
声の方を振り返った。生瀬さんだった。生き霊さんじゃない。ピンクのオーラを纏っていない。半透明の姿でもない。なんだこれは?
「何故、生瀬さんがこんな所に……? 俺と一緒にいたのは、生き霊さんのはず……」
「ふふふ……氷河くん……。やっぱり、“生き霊さん”って、呼ぶんですね……」
「……!! その喋り方は……!?」
生き霊さんだった。そうか。ここは、現実の世界じゃない。生き霊さんが作り出した空間。だから、あんなに姿がくっきりしているんだ。
「私は、生瀬涼子……。生き霊でも、生瀬涼子なんです……! そこに違いなんて、ないんですよッ!!」
「うわあッ!?」
生き霊さんの口から、鮮血が飛び散った。恐ろしい目で俺を睨みながら、口元は笑っていた。怖い。怖すぎる!
「氷河くん……。私は、あなたを愛している……。怖がりだって、そんなのどうでも良くなるくらい……。私は、あなたのことが好きなのにッ!!」
「ひぃっ……!!」
生き霊さんが絶叫する。その瞬間、部屋中に目玉が現れた。全部の目が、俺のことを睨んでいる! 生き霊さんの負の感情が、俺に突き刺さっている!!
「私はもう、我慢しない。あなたは、私が連れて行く。本体の、手の届かない所へ……」
「い、生き霊さん……。や、やめてください……!」
「……氷河くん。心配しなくて良いですよ? 霊体になって、一緒に仲良く暮らしましょう♡」
生き霊さんは、完全に暴走していた。そうだ。忘れていたけど、生き霊さんは、人間じゃない。今まで、仲良く過ごせていたのが奇跡だったんだ。本当は、俺に危害を加えたくて、しょうがなかったんだ! あまりの恐怖と悲しさで、涙が溢れて止まらなくなった。
「ふふふ、本当に氷河くんは怖がりですねぇ〜。情けなくて、頼りなくて、私がいないと何も出来ない」
「くぅ……! うぅ……!」
「でもね、そんなあなたが愛おしい。私が、あなたの全てを手に入れる」
生き霊さんが、両手を前に突き出しながら迫ってくる。俺の首を、絞めようとしている。このままじゃ、殺される!
「く……苦しい……」
その声は、生き霊さんから聞こえた。でも、生き霊さんの表情は、不気味に笑ったまま。口も動いていない。なんだ、この声は……?
「嫌だ、私は……こんなことしたくない……。氷河くん、お願い……助けて……!!」
「…………ッ!!」
この声は、目の前の“あいつ”の声じゃない。分かったんだ。俺だけに聞こえている。目を覚ませ、北極氷河! 生き霊さんは、こんな人じゃないだろ!!
「聞こえた……。生き霊さんの声が……!」
「あらあら、何を言ってるんですか? 私なら、さっきからずっと喋ってるじゃないですか♡」
「違う……。お前は、生瀬さんじゃない! 俺には分かる!」
「ふ、ふふ……。フフふ……」
生瀬さんの姿をしたそいつは、身体を震わせながら笑い出した。怒りと憎しみ。言葉では表せられない程の負の感情が、溢れ出していくのが感じた。
「ふフフ……フハハハハハハッ!! 本人と生き霊の区別も付かないお前が、何を言っている!?」
今まで聞いたことのない、生瀬さんの恐ろしい声が響いた。だが、分かっている。これは、奴が生瀬さんに言わせているだけだ。動じることはない。
「北極氷河! 怖いのが苦手なんだろ!? だったら、最大の恐怖でショック死させてやるよ!!」
床を突き破り、巨大な肉の塊が現れた。ぶよぶよで、紫色のそれは、奇妙な音を発しながら、不気味に全身を震わせている。
「こ、こいつは……!?」
「それは人間の恐怖心によって、姿と声を変える……。規則性なんてない。不確定な物ほど、人は恐怖するんだ……」
肉の塊は、痙攣しながら姿を変えていく。巨大な昆虫の姿をした化け物へと、変貌していく。二足歩行のそいつは、ギチギチと音を立てながら粘液を撒き散らしている。今まで見たどんな物よりも、おぞましい姿をしていた。
「アソボ……アソボ……」
見た目とは不釣り合いな、幼い子供の声を発している。そのミスマッチな光景が、さらに嫌悪感を掻き立てていた。
「どうした? 恐ろしくて、声も出ないか? まだまだこんなもんじゃない。いくらでも、お前の苦手な物へ姿を変えてやるぞ! フフフ……フハハハハハッ!!」
「…………ふっ」
可笑しくて、つい笑いが出た。昆虫の化け物も、生瀬さんの姿で虚勢を張るそいつの姿も、あまりにも滑稽に見えた。俺の笑い声を聞いたそいつは、憎しみを込めて俺のことを睨み始めた。
「な、何がおかしい……!?」
「いや……。以前の俺なら、泡を吹きながら白目を剥いて、失禁していただろうな、と思って……」
「はぁ……!?」
「本当に怖いのは、こんな物じゃない……。ジェットコースターでも、お化け屋敷でも、虫でも、心霊現象でもない……。本当に怖いのは……」
そうだ。やっと分かった。こんな物、怖くもなんともない。それよりも、それよりも。もっと怖い物がある。
「本当に怖いのは……大切な人を、失うことだァッ!!」
拳に想いの全てを込める。流れ込む感情の波を乗せて、虫の化け物の腹へと、渾身の一撃をお見舞いしてやった。
「グッ……!! ひハ……ひへへへへへッ!!」
奇妙な笑い声を発した直後、化け物はバラバラに吹き飛んでいた。弱い。俺の想いを受け止めるには、あまりにも弱すぎる。
「そ……そんな……馬鹿な……」
「生瀬さんを、解放しろ……」
「北極、氷河ァ……ッ!!」
生瀬さんの身体を借りている、そいつのことを睨む。化け物を呼び出した影響からか、息が荒い。かなり力を消耗しているようだった。
「許さない……お前が憎い……。次は必ず、殺してやる……!!」
恨みを吐き捨てながら、黒い影が生き霊さんの中から出て行くのが見えた。俺は、倒れそうになる生き霊さんを受け止めた。
「景色が戻った……」
ゴンドラの中だった。俺に寄りかかるように、生き霊さんは眠っていた。外の景色を見ると、ちょうど地上が近付いているのが見えた。
◇
あれ……? 私は、何をしていたんだっけ? 私は観覧車に乗って……。でも、感情が暴走して……。身体が温かい……。変ですね、霊体のはずなのに……。
「生瀬さん。大丈夫ですか?」
「氷河……くん……?」
目を覚ますと、私の前に氷河くんがいた。なんだか、妙に顔が近い。よく見ると、私は、彼に抱きかかえられていた。嘘、これって……。
(ちょっと待って……!? 私、お姫様だっこされてる!?)
あまりにも、夢のようなシチュエーション。ワイルドでたくましい男の子の腕の中に、今、私は抱かれている。凄く安心する……。氷河くんが、あまりにもカッコ良すぎる。そのまま身を委ね続けそうになるのを堪え、私は我に返った。
「あ、あの、氷河くん……! 身体が、密着してますよ……!? これって、良いんですか……!?」
「…………」
氷河くんは黙ったまま、優しく微笑んでいた。……あぁ、そうか。この夢のような時間は、今だけなんですね。彼の表情だけで、それが伝わってきた。
「ズルいですね……。氷河くんは……。こういう時に、黙るなんて……」
私と彼は、結ばれてはいけない。最初に、言われたじゃないですか。直接、生瀬涼子本人に、気持ちを伝えたいと。それは今も、変わっていないんですね。
「でも、もう少しだけ……。このままでも、良いですか?」
「……はい」
「ありがとう。氷河くん……」
私、本当は分かっているんです。生き霊は本来、この世界に存在してはいけない物だから。
(生瀬涼子の幸せを、心から願います……。私は、彼女そのものなんですから……)