「…………静かだな」
日曜の午後。俺はひとり、部屋の中でボーっと過ごしていた。今まで唐突に部屋に侵入してきた生瀬さんの生き霊さんは、あれから全く現れなくなった。
「はぁ……。やっぱり、嫌われたのか……。いや、北極氷河、何を今さら落ち込んでいるんだ? 元より叶わぬ恋だって、悟っていたんだろ?」
生き霊は、本人の強い想いによって飛ばされる。そして、生き霊の受けた心の影響は、本人にも変化を与える可能性がある。生き霊さんはそう言っていた。ということは、生瀬さんはもう、俺に対する想いが消え失せたということだ。
生瀬さんに嫌われたことは、まだイマイチ実感出来ていない部分がある。……そうだ。俺は、生き霊さんに会えなくなったことが悲しいんだ。
「はははは……。あれだけ怖がっていたのに、いなくなったら寂しくなるのか……。本当に俺は、どうしようもない男だ……!」
次の日、俺はいつも通り登校した。いつもと違うのは、不良が襲って来なくなったこと。それと、生き霊さんが現れなくなったことだ。
(なんだか急に、独りぼっちになったみたいだな……。いや、それは元からか……)
今までがおかしかったんだ。不良でもないのに喧嘩に明け暮れて。何故か生き霊と仲良く過ごしていた。この冴えない現状こそが、俺の本当の姿なんだ。
いつもの下駄箱に、いつも通りに靴をしまう。そんな何気ない瞬間に、いつもと違う光景が飛び込んできた。
「なんだこれは……」
白い封筒だった。アニメや漫画でよく見る、下駄箱に手紙が入れてあるシーン。まさにそれと同じ光景が目に入った。その下駄箱は当然、俺の使っている場所だ。
「ラブレター……な訳ないよな……」
その手紙は差出人も書いてない。本当にただ真っ白な封筒だった。見るからに怪しい空気を放っている。何かの罠か……? 考えていても仕方がない。とりあえず、中身を確認しよう。
「北極氷河様。この手紙を読んだら屋上に来てください。大切なお話があります。……怪しい。不良の新しい罠か?」
綺麗な字で書かれているが、それだけで判断するのは早計だ。不良たちの姿が見えないと思ったら、またくだらない作戦でも考えたんだろう。あれだけ派手にやっつけたのに、懲りない奴らだ。でも、黒いオーラを纏ったリーダーの様子は、今までと明らかに違っていた。用心するべきだ。
「無視するか……。いや、放っておいたら、逆に何をされるか分からないな……」
いつどこで襲って来るか分からない相手よりも、そこにいるのが分かっているのなら、出向いてやった方がむしろ対処しやすいんじゃないか?
「よし、行こう……」
屋上に隠れられる場所なんてない。まず様子を窺って、何か怪しい動きを感じたら、一目散に逃げれば良いだけだ。そう決心して、俺は屋上を目指して階段を登った。
屋上に向かう途中、何度も後ろを振り返った。誰かに尾行されている気配もなかった。不気味なほど静かな階段を、恐る恐る登り続けた。
「女子生徒……?」
最上階まで辿り着いた俺は、ドアの隙間からこっそりと屋上の様子を窺った。屋上の中央には、黒くて長い髪をなびかせている女子生徒の姿があった。まさか、本当にラブレターだったのか?
「北極氷河くん、ですね?」
「うっ……!」
バレないように覗いたつもりだったが、気付かれたか。まず俺は、慎重に周囲の様子を確認する。人の気配はない。女子を使った巧妙な罠の可能性は、まだ否定出来ないが……。
「あ、あなたは誰ですか……?」
屋上で佇んでいた女子に尋ねる。ここで待っているということは、手紙の差出人であることは間違いないと思うが……。
「わたくしは1年1組、木ノ瀬和良と申します。以後、お見知りおきを」
「きのせ、わら……?」
知らない名前だ。顔も見覚えがない。俺との接点が感じられない。強いて言えば、ほんの少しだけ、名字が生瀬さんと似ているくらいか。
「ここに来たということは、手紙を読んでくれたということですね。ありがとうございます」
木ノ瀬さんは、うっすらと笑みを浮かべながら、僅かに会釈した。真っ直ぐに切り揃えた前髪は、日本人形のようなミステリアスな雰囲気を漂わせている。
「やっぱり、あの手紙は木ノ瀬さんが……。誰かに頼まれたんですか……?」
「いえ、あなたに会いたかったから手紙を書いた。ただ、それだけのことです」
「俺に会いたかった……?」
淡々と、冷静な態度なのに、表情は常に微笑を浮かべている。彼女の奇妙な空気感に、引き込まれるような感覚になる。
「北極氷河くんは、オカルトに興味はありませんか?」
「オ、オカルト……!?」
「わたくし、オカルト研究会に所属していまして。もし良かったら、入部していただけると嬉しいです」
「ちょ、ちょっと待ってください! 勧誘ですか!?」
「えぇ。勧誘です」
オカルト研究会!? なんだこの唐突な展開は。オカルトなんて、俺の苦手分野のトップに君臨するジャンルだぞ!
「いや、俺、そういうの興味ありませんから……! なんで俺なんですか!?」
それだけのために、わざわざ手紙を書いたのか? よりにもよって、同じクラスでも、知り合いでもない俺に目を付ける意味が分からない。
「生き霊。……見えてるんですよね?」
「えっ……!?」
穏やかな笑顔を浮かべる木ノ瀬さんとは対照的に、ピリッと、空気が張り詰めるのを感じた。生き霊は、俺だけが知る狭い世界の話だと思っていた。秘密の扉を開かれるような感覚に、ゾワゾワと気持ちの悪さが込み上げていた。
「生き霊です。あなたと同じクラスの生瀬涼子さん。彼女の生き霊とあなたが会話しているのを見ました。今日、彼女はいないんですか?」
「な、何を言ってるんですか……?」
生瀬さんの生き霊さんのことまで、木ノ瀬さんは知っているのか……! 落ち着け。余計なことは言わない方が良い。俺と生瀬さんはもう、関わることはないのだから。
「俺には、生き霊なんて見えませんよ……」
「まぁ、確かに。今は生き霊の気配は感じませんね。……あなたの近くには、ですが」
「……話はそれだけですか?」
木ノ瀬さんの目的は分からないが、オカルトに関わるつもりはないんだ。なら、これ以上付き合う必要はないだろう……。俺は踵を返して、屋上の扉を掴んだ。
「待って」
「うわっ!? ちょ、ちょっと!!」
突然、木ノ瀬さんが背後から抱き着いてきた。……なんだ!? 俺に今、何が起きている!? き、木ノ瀬さんの胸の感触が、背中から伝わってくる。それに、なんだか良い匂いが。
「行っては駄目。お願い。ここにいて」
「な、何を言ってるんですか……!?」
女性とこんなに密着したのは、生まれて初めてだ……。霊体なら、生瀬さんの生き霊さんが、これくらいくっついてきていたが……。いや、そんなこと考えてる場合か!?
「や、やめてくださいっ! 俺は、そんなつもりないですからっ!」
異様な状況に耐えられなくなり、木ノ瀬さんを振り払うようにして、俺はそのまま屋上から立ち去ってしまった。怖かった。まさか、いきなり抱き着かれるとは……。なんなんだ、あの人は?
「はぁ……。クソ、頭がボーッとする……」
情けないことに、女性に不慣れな俺は、木ノ瀬さんに密着されてすっかりのぼせてしまっていた。柔らかい感触、甘い匂い。あんなの、反則だろうが……。
(俺には、生瀬さんがいるんだ……)
そう思いかけて、笑いが込み上げてきた。忘れたのか。生瀬さんにはもう嫌われたんだぞ? 自分が何をやってるのか分からなくなり、乾いた笑いを吐き出した。
「ふっ、教室に行くか……」
もうホームルームの時間ギリギリになっている。とりあえず妙なことは忘れて、学生としての本文を果たそう。
「……どこだ、ここは?」
ふと周囲を見る。赤い。壁も天井も、何もかも赤かった。俺はいつの間にか、見たことのない、薄黒くて不気味な通路に立っていた。