「生瀬さん、俺に任せてください。蜘蛛は無傷で退かせてみせます!」
生瀬さんを救うため、俺は蜘蛛の前に立ちはだかった。蜘蛛の大きさは、人間の俺と比べてとてつもないほど小さいはず。それなのに。
(デ、デカい……! 今朝の不良の化け物よりも、何故か大きく感じる……)
この蜘蛛には、人間を傷付けるような攻撃能力も備わっていないだろう。それなのに、何故こんなに恐ろしいのか……。触ることはおろか、近寄ることすら出来ない……!
「北極くん、よろしく、お願いします……!」
(生瀬さんが俺に託している! 北極氷河、しっかりしろ! 相手はただの虫だぞ!)
そうだ。何も恐れることはない。大きく見えるのも、恐ろしく感じるのも、全てまやかし! 俺が勝手に作り出している幻覚だ!
「蜘蛛を傷付けないように、この木の枝に乗せて運べば……!」
俺は、足元に落ちていた木の枝を拾った。この上なく頼りない細さだが、選り好みしている場合じゃない。このまま慎重に、蜘蛛を枝の先へと誘導すれば……。そう思っていた時。
「な、なにィ!? 蜘蛛の周辺に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣に、枝がくっついただとォ!?」
まさか、この俺が蜘蛛の巣に引っ掛かるとは! これでは、蜘蛛を枝に乗せるのは困難! 万事休すか……!
「ほ、北極くん……。無理しなくて良いから……!」
生瀬さんの表情が、一気に曇り始める。俺の不甲斐なさに、不安の色を隠し切れない様子だ。生瀬さんを困らせたくない。俺がやらなきゃいけないんだ!
「いえ、このまま蜘蛛を放っておいたら、校舎裏を綺麗にすることが出来ません……! 俺は、学校のためにも、蜘蛛を退かせてみせますから!」
「ほ……北極くん……!」
精一杯の強がりを言い放ち、俺は蜘蛛へと視線を戻す。ワシワシと足を動かして、俺の恐怖心を煽り続ける。負けるな。俺は、絶対に負ける訳にはいかない!
「うおおおおおおっ!! やってやるぅ!! 俺が蜘蛛を退かすんだあああああ!!」
俺の気合が伝わったのか、蜘蛛はすんなりと枝の先端に乗った。そして、俺はそのまま茂みの中へと枝を放り投げた……!
「はぁ……はぁ……。や、やった……! はは、ははは……。生瀬さん、もう大丈夫ですよ……。蜘蛛は向こうへ逃がしましたから!」
「ほ、北極くん……」
蜘蛛を退かすという目的は果たした。それなのに、生瀬さんの顔は依然として曇ったままだ。一体、何故? 俺、何かやらかしたか!?
「あ、あれ……」
「…………え?」
生瀬さんが指差す先。そこには、驚愕の光景が広がっていた。今まで蜘蛛の巣に気を取られて気付かなかったが、その後方の木の根元には、巨大な蜂の巣が作られていた。周囲を飛行する警告色があしらわれたその姿は、見た者を一瞬で戦慄させる。
「ス、スズメバチだと……」
さすがに無理だ。蜘蛛とは訳が違う。スズメバチには、人間を死に至らしめる攻撃能力が十二分に備わっている。勇気や気合で立ち向かえる相手じゃない。
「北極くん、せ、先生に、知らせよう……?」
「そ、そうですね……」
やはり、俺は生瀬さんの役に立つことなど出来なかった。……良い機会じゃないか。無力な自分を思い知ることが出来た。この先も、俺は恐怖に打ち勝つことなんて出来ない。生瀬さんが抱いている理想に、届くことなんてないんだ。
「氷河くんっ!!」
全てを諦めようとしていた時。俺を呼ぶ生瀬さんの声が響いた。俺は、驚いて生瀬さんを凝視した。だが、声を発した生瀬さんは、きょとんとした表情を浮かべていた。
「生瀬さん、今、俺のことを呼びましたか……?」
「えっ、私は何も……?」
困惑している生瀬さんの上空に、暖かいオーラを感じた。俺を見守るその存在は、さらに大きな声を俺に送っていた。
「氷河くんっ! 頑張ってくださいっ! 氷河くんは、ゲームでも蜘蛛をやっつけてくれました! 氷河くんなら、やれますっ!」
(生瀬さんの生き霊さん……!)
生き霊さんだった。たかがゲームの話。それなのに、生き霊さんは、そのことを心に刻んでくれていた。
(ゲームと現実は違う。無茶苦茶だ。でも、何故だろう……。なんだか、出来そうな気がしてくる……)
俺の背後に、ふたりの生瀬さんが並んだ。本体の生瀬さんと、生き霊の生瀬さん。ふたりが熱い視線を送っている。
(好きな女の子が、ふたりも見守ってくれているんだ……。今の俺に、出来ないことなんてない!!)
「はあああああ……!!」
拳に力を込める。今まで無意識に手加減していた分を、全て解放するイメージを膨らませる。テレビを壊した時よりも、不良の化け物を倒した時よりも、さらに強く!
「あっちへ……行けえええええッ!!」
俺は、思いっきり拳を突き出した。拳が生み出した風圧は、周囲の茂みを激しく揺らしている。その風圧は、木の根元に陣取っていた蜂の巣を粉砕した。中に潜んでいたスズメバチの軍勢も、俺の風圧に臆したのか、どこか遠くへと飛び去っていった。
「す、凄い……」
「さすが、常識外れで規格外の氷河くんです〜!」
生瀬さんと生き霊さんの称賛の声を聞き、俺は我に返った。自分でも信じられないことをしてしまった。これが、火事場の馬鹿力という奴なのだろうか……。一気に、身体が脱力していくのを感じた。
「生瀬さん、すみません……。手間取りました……! これで、心置きなく掃除が出来ますね。良かったら、俺も手伝いますよ!」
「う、うん……。あ、あの、あ、あり……ありが……」
「涼子〜!」
なんとなく、良い雰囲気が漂い始めた時。遠くから女子の声が聞こえてきた。絶妙のタイミングで、職員室に呼ばれた矢田玲奈さんが帰ってきたところだった。
「いや〜、職員室行ったらさ〜。呼んだのは山田麗奈で、矢田玲奈じゃないんだって言われてさー。完全に呼び間違いしてたのに、マジふざんなって感じよね〜」
どうやら、矢田さんは、同じクラスの山田麗奈さんと間違えられて呼び出されたらしい。確かに、このふたりの名前はよく似ている気がする……。
「あれ? 涼子まさか、まだ蜘蛛にビビってたの……?」
「蜘蛛なら北極くんが追い払ってくれて……」
「はぁ……?」
矢田さんが、目を細めて俺の顔を睨んだ。不良の俺が、生瀬さんを助けたのが信じられないのだろうか……。何もやましいことはしていないが、俺はなんとなく矢田さんに会釈をした。
「ど、どうも……」
「ふん。何を蜘蛛ぐらいでイキってるのよ。ダッサ」
「ガーン!!」
凄まじいカウンターを喰らい、俺の心は一瞬にして砕け散った。不良や蜘蛛、蜂よりも、矢田さんの方が遥かに恐ろしい……。
「まぁ、蜘蛛がいなくなったんなら、早く掃除終わらせちゃいましょう。ほら、北極氷河もゴミとまとめて掃除されたくなかったら、さっさとどこかへ行きなさいよ!」
「れ、玲奈、そんな言い方しなくても……」
キツい言い方をする矢田さんを、生瀬さんは窘めようとしていた。俺はこんな扱いを受けるのは慣れている。生瀬さんと矢田さんの仲を拗せたくはない。
「いえ、生瀬さん。いいんです。いろいろとお騒がせしました……」
「北極くん……」
矢田さんをこれ以上刺激しないために、俺はそのまま校舎裏から立ち去った。生瀬さんが、俺にどんな印象を抱いたかは分からない。でも、困っていた彼女を救えたのなら、もうそれだけで十分だった。
◇
「クソ! 北極氷河め! 女子と良い雰囲気なんかになりやがって……!」
俺は南條風馬。番長をやっている男だ。俺は3年間、この学校を牛耳っていた。誰もが俺を恐れていた。他校のグループさえも、俺に一目を置いていたんだ。あの男、北極氷河が現れるまでは……!
「気に入らねぇ! あいつさえいなければ、俺はこの学校のトップになれるのに!」
俺は陰から様子を窺っていた。北極氷河が、蜂の巣を粉砕する一部始終を見ていた。あいつは本物の化け物だ。今まであらゆる策を講じてきたが、正直、もう奴に太刀打ち出来る気がしない。
「俺にもっと力があれば……」
そう願っていた時。腹の底に響くような、禍々しい笑い声が聞こえてきた。空耳かと思った。でも、その声は、俺の頭の中に響いていた。
「フフフ……。北極氷河が憎いか……?」
「だ、誰だ……!? どこから声が聞こえてるんだ……!」
「お前に力を与えてやる……。そして、北極氷河を排除しろ」
なんなんだ、一体? 訳が分からない。姿の見えない声は、俺の考えを全て見透かしているようだった。気味が悪い。こんな奴の言葉に、耳を貸して良いはずがない。……だが、それ以上に、俺はそいつの言葉が気に入った。
「誰だか知らねぇが……。気が合うじゃねぇか」