「もしも一生で一度だけ願いが叶う日があったとしたら、あなたは何をお願いしますか」
週末の夜である。深山雄三は行きつけの御食事処『
「そうだなあ、子供の頃に戻ってみたいものだなあ」
「子供の頃に?」
『雅』はカウンターしかなく、5人も座れば満席になってしまう小さな店だった。ちょうど同年代ということもあり、偶然隣り合わせになった50代の男と旧知の仲のようになり、久しぶりに話しが弾んでいたのだ。
「そう。この雅という店の名前はね、実はわたしの生き別れた母親の名前と同じなのですよ」
「へえそうなんですか。どんなお母さんだったんですか?」
「いや、まだ幼かったんでおぼろげにしか記憶に残っていないのです」
「なるほど・・・・・・。どうです、ぼくに1時間だけ時間をいただけませんか。その願い叶えてあげられますよ」
「え。あなたも相当酔っぱらっているようだね」
わたしは破顔した。
「もしそんなことができるのなら、是非お願いしたいものだ。満たされなかった思いのまま死んで行くのは寂しいからなあ。ね、お母さん」
雄三は雅の女主人に話を振った。女主人は萎れたお婆さんだったが、いつも静かに微笑んで客の話しを聞いているのだった。
「では明日会社の方にお伺いさせていただきます」
男はわたしの名刺をポケットにしまうと、勘定を済ませて店を出て行った。
「ふふ。酔っぱらいの友達が増えたみたいだ」
雄三は徳利のお酒を盃に注いだ。
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翌日雄三は子供の日で祝日だったが、会社の残務を片付けるために少しだけ出勤することにした。
午前中に手際よく仕事を片付けた。そして会社の門を出る。するとそこに昨晩の男が待ち受けていた。
「こんにちは」
男は快活に笑顔で挨拶をしてきた。昨夜とは違って、薄いブルゾンにジーンズというラフな格好をしている。
「あ、あなたは昨夜の」
「吉田です」
「まさか、あの話で?」
雄三は狼狽うろたえた。まさか本当にわたしに会いに来るとは思ってもいなかったのである。
「さあ、ご案内します」吉田と名乗った男が歩き出した。「すぐ近くですので」
もしも車に乗せられそうになったならば、猛ダッシュで逃げていたかもしれない。
一軒の洋館に到着した。アンティークな家具が置かれた居間に通されると、吉田は上等なカップにコーヒーを淹れて出してくれた。
「ここにおひとりで住まわれているのですか?」
「そうですね。賃貸ですけど、なかなかいい雰囲気でしょう」
「まあ、そうですね。ところで吉田さんはどんなお仕事をされているんです?」
「大手の製薬会社に勤めています。そこで新薬の研究なんかをしているんですが、ぼくの開発した新薬があまりにも効きすぎるので、一般発売は延期になってしまったんですよ」
「それはまたどんな・・・・・・」
「あなたの願いを叶えることができる薬です」
「どういうことですか」
「お母上を幼い頃に亡くされたあなたは、母親の愛情を受けることなく今まで過ごしてこられたのですよね」
「・・・・・・そうです。重い病いだったと聞いています」
「あなたはこのままだと母親の愛情を知ることなく死んでいくことになってしまう。でもわたしの薬を使えば、たった1時間だけですがあなたを幸せにすることができるのです」
「言っていることがよくわかりません」
「これからあなたに1時間だけ3歳の子供になっていただきます」
「ほんとうですか。でもわたしがひとりで子供になったからと言って何が変わるというのです」
「母親役はご用意してあります」
「しかし・・・・・・」
「実はすでにあなたは薬を服用しています。先ほどのコーヒーに混ぜてあったのです」
「そんな・・・・・・」
「変体したところで、こちらの洋服に着替えてください。3才児の洋服です」
「しかし君、お代は・・・・・・」
「お金はいただきません。お近づきの印ということで。ただ、この薬は一人の人間に対して1回しか作用しませんのでご承知おきください。要するにこれが最初で最後のチャンスになります。ではのちほど」
そう言い残すと吉田は奥の部屋に引っ込んでしまった。するとどうだろう。雄三の身体がみるみる縮んでいくではないか。
「おい、マジか」
気が付くと雄三は大人の服をかぶった3歳児に変貌していた。
雄三は急いで子供の服に着替えた。そして、そばにあった鏡に自分の姿を写してみた。そこにはたしかに子供の雄三がこちらを向いて立っていたのである。
背後の扉が開き、女性が入ってきた。鏡越しに雄三と目と目が合った。雄三は振り向いた。そこに亡き母が立っているではないか。
雄三はしばらく動けないでいた。長い年月、雄三はひとりぼっちだったのである。足が動かない。
「ゆうちゃん」母が優しく話かけてくれた。「ゆうちゃん元気だった?」
母の声が雄三を突き動かした。雄三は思い切り母に抱きついた。
「おかあちゃん!おかあちゃん!おかあちゃん!」
雄三の眼から涙がとめどなく溢れた。母役の女は雄三を優しく抱きしめてくれた。女優なのだろうか、母も両目から綺麗な涙を流していた。
「ゆうちゃんごめんね。寂しかったね。本当にごめんね」
雄三は母の胸に顔をうずめて泣き続けた。そして母の胸の内で、安心しきった雄三はそのまま眠りに落ちていった。
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「よかったですね。息子さんを抱きしめることができて」
「ありがとうございます。吉田さんのおかげです」
雅の女主人が頭を下げた。顔を上げると、老婆の目にはまだ涙の跡がくっきりと残っている。
「わたしはあの子を産んだ後、人を殺めて刑に服していました。親族はそれを雄三に隠すためにわたしを病死したことにしたのです。わたしもそれで良かったと思っています。でもこの歳になりますと、どうしても我が子をこの手に抱いてみたいという想いが日に日につのってきましてね」
「分かりますよ。ただご承知のように、あの薬はひとりにつき1回だけしか効力がありませんからね」
「だいじょうぶです。これでいつ死んでも後悔しないで済みます」
「それでは約束通り、雅さんが亡くなるまで呑み代は無料ということで」
吉田は店を出て、空を見上げた。
遠くで鯉のぼりが、まるで母と子供のように元気にはためいていた。