「学生さん。熱心に勉強しているねぇ」
掃除をしていたおじさんが、モップの手を休めてぼくに話しかけて来た。
「ええ。今日のモスクワ中央図書館はやけに空いてますね」
ぼくはだだっ広い閲覧室を見回した。
「なにを調べているんだね?」
おじさんは白髪の混じった眉毛を八の字にしてぼくに微笑みかけてきた。ものもらいでも出来たのだろう、左目に眼帯をしている。
「日本の軍人、
「そう。乃木大将ならわたしでも知っているよ。東洋の英雄と言われた男だろう?」
「ええ。でも祖父があんなに称賛していた人物なのに、当の日本では評価が分かれているらしいのです。彼のことを軍神という人がいるかと思えば、ただの愚将だとか無能な軍人だと言う知識人もいるのだそうです」
「それは気の毒になあ。どうしてそんなことを言われるのかね」
「相手は鉄壁な敵陣の要塞なのに、真っ向からただ突撃を繰り返して大勢の兵士を無駄に死なせたからだと・・・・・・」
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乃木希典は10歳までの名を乃木
そんな希典は1878年(明治11年)に歩兵第一連隊長になり、他の隊と合同演習を行ったことがある。その際、希典の隊はいつも正面攻撃しか行わず、第二連隊長の
乃木は生涯で4回も休職しては、農業に従事している。しかし、農業をしていない時にはもっぱら古今の兵書を紐解き、軍事研究を怠ることがなかったという。また、どこかで演習があると知れば、できるかぎり出向いて行って子細に見学してはメモを取り続けていた。
そんな彼が、軍事戦略に疎いとは考えられない。
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「ステッセルくんと言ったね」おじさんは優しい目をぼくに向けて言った。「城や要塞を攻めるのに必要なことは何だと思う?」
ぼくは祖父から聞いた知識を思い起こした。
「人数ですね。要塞側の人数の3倍以上の人数で攻めることです」
「なぜ?」
「要塞は鉄筋コンクリートで作られたトーチカで守られているからです。普通に攻めたのでは勝ち目はありません」
「それじゃあ乃木希典が闘った、旅順攻囲戦のときのロシアと日本の戦力の違いを知ってるかい?」
「それはこれから調べるところです」
「ロシア兵6万人に対して、日本兵5万人だったそうだ」
「え、そんな兵力で要塞を攻めたのでは、誰が戦っても勝てるわけないじゃないですか」
「そうだ。もともと日本が把握していた情報に誤りがあったのさ。ロシアはせいぜい2万の兵力しか持っていないと大本営は踏んでいたんだ」
さすがは図書館で働いてるおじさんだけあって、日露戦争にずいぶん詳しいようだ。
「それでどうやって日本は勝つことができたのですか?」
「ステッセルくんはさきほど、日本兵は無駄に突撃して死んだと言ったね。日本兵の戦死者は5万人だったけど、ロシアの戦死者はもっと多くて6万人だよ」
「意外ですね」ぼくは素直に驚いた。「要塞側のロシアの戦死者の方が突撃した日本兵よりも多かったのですか?」
「乃木大将の闘い方は、進撃する拠点に塹壕を掘るために兵が突撃し、その塹壕から援護射撃をして次の拠点に塹壕を掘って行くという戦法だった。それが一番兵士の消耗を防げると思ったんだろうな」
「攻めあぐねて、最後には児玉大将の助言で203高地を攻略して勝利したと訊きましたけど」
「それは児玉が合流して間もなく203高地が陥落したからそう見えただけの話しで、あくまでも乃木希典が決めたことだ。もともと大本営は203高地を攻めるのに否定的だったからな」おじさんが遠くを見つめるような目をした。「日本が奇跡的に勝利を収めたのは彼の人望によるものとしかいいようがないよ。兵士の誰もが、乃木のためなら死んでも構わないと思っていたんだ。その証拠に、乃木の軍隊は最後まで士気が衰えることがなかったのだそうだ」
興奮したおじさんの眼に光るものが見えた。
「乃木大将はよほどの人格者だったようですね。あっそうだ、これを見てほしいんです」
ぼくは鞄の中から祖父からもらった物を探した。「祖父が乃木に降伏した時の写真・・・・・・一緒に酒を
ようやく古い写真をみつけておじさんに差し出した。
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日本に帰国した乃木希典は、戦勝報告のために明治天皇に
「乃木くん、この世にわたしの命がある限り生き続けよ。これからは学習院の院長になって生徒の育成をしてもらいたい」
明治天皇はのちに昭和天皇となる孫の教育を乃木希典に
乃木は学習院を全寮制にして、ダジャレ好きの陽気なおやじとなって生徒と寝食を共にした。そして約束どおり、明治天皇の崩御と共にこの世を去ったのである。
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「あれ?」
そこにはもう誰も立っていなかった。ぼくは写真を手にしたままあたりを見回した。そしてあることに気がついたのだ。祖父の隣に写っている人物が、あのおじさんにそっくりだということを。