「おい聞いたか。おれっちも、苗字をつけなくてはならねえんじゃってよ」
農夫の
「え!なんでじゃ」文吉は目を丸くする。
1875年(明治8年)、政府は『
「ぼっけえ(たいへん)参ったなこりゃあ」
文吉が、
「なんか、考えたんか?」
喜助が尋ねる。
「いや、なーんも。途方に暮れとっただけじゃ。学のねえ俺たちが、いくら頭ひねったってもよぉ。いきなり苗字なんて思い浮かばんよ」
「そりゃそうだ。文吉、それじゃあここはやっぱり、寺の住職にお願げえするしかあんめえ」
「おお。それじゃ。それで行こう」
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「なあ、珍念や」
「はい和尚さま」
「なにやら、表が騒がしいようじゃが」
「はい和尚さま。今日も苗字をいただきに、ぼっけえ大勢のみなさんが境内に集まっておりまする」
「まだ来るのか。ここ一週間、そればかりではないか。いささかもう疲れ果てたぞ。苗字など、田んぼだの、川だの、山だの、谷だの、適当につけとけばいいではないか」
「和尚さま、苗字なんぞはそんなものでいいのでございますか」
「いいとも。だれも文句を言わんし、意味とて分かっておらんだろうよ」
和尚としては今日こそ、越後屋の主人と碁の決着をつけに行くつもりだったのである。
「おお、そうじゃ」和尚が手を打つ。「今日は珍念、お前に任せる」
「わたくしが・・・でございますか。それはいくらなんでも」
「できる。お前ならできる。よいか、わしは奥で終日写経をしていることにしなさい。お前が名前を訊いて、奥に引っ込む。わしが苗字をつけたことにして、半紙にそれを書いて、なんと読むのか教えて渡せばよいのじゃ」
「それって、詐欺じゃ」
「詐欺ではない。お前とて、御仏にささげる身じゃ。まったく問題にならない。ではそういうことで、頼んだぞ」
そそくさと和尚は裏木戸から出て行ってしまった。小坊主の珍念は頭をかかえてしまった。
「和尚さまはあんなことをおっしゃっていたが、わたしにそんな力などありゃせんのに・・・・・・」
ふと足元を見ると、何やら古い本が積み重ねられている。和尚が時どき読んでいる本であった。
「『
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数日後、岡山の役所から和尚に連絡が入った。市原の農民たちが申請してきた苗字について、聴き
「珍念。おまえ先日、百姓たちにちゃんとした名前をつけたであろうな」
「もちろんでございます和尚さま。由緒正しい苗字でございます」
珍念はちらりとあの『真神皇正総禄』に目を向けた。和尚がその視線を見逃すわけがない。
「・・・・・・まさかその本にある苗字を使ったのではあるまいな」
「良くおわかりで」
和尚はめまいがして、手で眉間を覆った。
「いけなかったでしょうか」さすがに珍念も生きた心地がしない。
「いや悪くは・・・・・・ないのだが・・・・・・しかしその本は、公家の苗字集だぞ」
「へ?」
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公家というのは貴族のことである。鎌倉時代であろうとも、貴族は貴族。いくら自由に苗字を作って良いとはいえ、気軽に農民が名乗っていいというものではない。
まさか、坊主の首をはねるなどということにはならないとは思うが・・・・・・。和尚と珍念は、高原地帯を牛馬のような重い足取りでゆっくり歩くのであった。珍念はぐるりと農地を見渡す。
「広かねえ」
そこには茫漠と畑が広がっているのであった。
沈痛な面持ちで和尚は役所の門をたたいた。脇には珍念もかしこまっている。
「和尚どの」役人が神妙な顔をして和尚たちと対峙した。「先日百姓たちが、こぞって苗字の登録にこられたのですが・・・・・・」
「はあ」
「それがですね。松本、中山、河野、石山まあここまでならなんとなく分かるのですが・・・・・・続いて大原、入江、桜井、藪、高倉、堀河、樋口、四条、岩倉、久世そして
「え、いかがなさったと申されましても」
和尚は途方に暮れてしまった。
「申しあげます!」
その時珍念が素早く頭を机にすりつけた。
「なんしょん(なにしてるんだ)?」
とっさのことに役人はたじろいだ。和尚は放心状態のまま呆けた顔で珍念を見つめた。
「百姓たちの願望でございます!」小坊主が叫んだ。
「願望?なんの」
「ご存じのとおり、井原高原の名産物は“ごんぼう(牛蒡)”にございます。羽林家様の羽は“羽のごとく速く”、そして林は“林のごとく多い”と、常日頃から和尚が農民に説いていたのでございます。それで農民たちの憧れ・・・・・・つまり、いつかは羽林様のようになりたいという願望を抱きつつ、ごんぼうを早く多く栽培してお国のためになりたいという健気な気持ちの現れなのでございますのじゃ」
「ほう、なるほどそういうことであったか!」
役人は膝を打った。
和尚は大口を開けて珍念をただ見つめるしかなかった。
この話とは無関係であるが、現在、岡山県井原市芳井町には、実際に『明治ごんぼう村』がある。