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神はわたしに試練を与え給うた

「なぜ神はわたしに試練を与えるのか」

 山田右衛門作やまだえもさくはひとり呟いていた。

 右衛門作は幼少の頃にポルトガル人に西洋画を習い、今は藩のおかかえの絵師であった。キリスト教の洗礼を受けたのも単なる成り行きである。


 1637年、長崎で日本最大の百姓一揆が勃発する。徳川幕府が課した重税と、キリスト教徒弾圧が発端であった。

 できれば右衛門作はこういうことには極力加担したくない性格であった。ところが首謀者たちによって妻子を人質に取られてしまい、仕方なく参加することになってしまったのである。

 しかも、人望が厚く、絵がうまく、才知に富んでいたから幕府との交渉役として一揆の副将に抜擢されてしまったのだ。

 一揆の総大将となったのが、16歳の少年、天草四郎あまくさしろうであった。彼は生まれながらにしてカリスマ性を持っていたといわれる。

 彼が手をあげると掌から鳩が出てきた。盲目の娘に掌をかざすと見えるようになった。また海面を歩くことができたという逸話が残されている。・・・・・・そんなことあるかい。右衛門作は天草四郎をはなはだ疑っていた。聖書に出てくる救世主を真似た話なのだろう。

 ところが天草四郎の方は右衛門作をまるで師匠のように慕っていた。彼の風貌と知識が、四郎の眼には尊敬すべき人間に映っていたのに違いない。

「先生は西洋画家だそうですね」顔の白い天草四郎が、それよりもさらに白い歯をみせる。「わたしのために旗印を描いていただけませんか?」

「旗印ですか」

「そうです。百姓が崇拝するイエスをモチーフにした旗を掲げたいのです」

「承知しました。描いてみましょう」

 このとき作成されたのが、金のグラスに浮かぶ十字架を拝む、二人の天使の絵が描かれた旗印なのである。

 当初優勢であった一揆軍は、次第に劣勢になり、最後には旧島原領主の址城『原城』に籠城することになった。

「しょせん百姓と浪人の寄せ集めだ。幕府軍に勝てるわけがない。なんとか妻子だけでも生き延びさせる方法はないものだろうか」

 右衛門作は幕府の内通者になることを決心したのであった。


 幕府とのやりとりはもっぱら矢文やぶみを使って行われていた。その矢文に、城内の人数、武器の種類と数、軍の配置、食料の残などの情報を書いて送っていたのだ。もちろんその見返りとして、自分と家族の命の保証を要求することを忘れなかった。

 幕府から返信の矢文が放たれた。

「こりゃ何だ?」

 城外から飛んできた矢文を兵のひとりが拾ってしまった。

「なになに・・・・・・これは!」

 矢文には、総攻撃の手順と山田一家の命の保証をする旨が書かれていたのだ。報を受けた天草四郎は真っ赤になって激怒した。

「おのれ山田右衛門作、裏切ったな!妻子をここに引っ捕らえて連れて来い」


「よせ、やめろ!」

 右衛門作は後ろでに縛られたまま血を吐くように叫んだ。その右衛門作の眼前で、泣き叫ぶ妻子がまるで藁人形の首でも刎ねるかのように処刑されてしまった。

 手足を縛られたまま牢に閉じ込められてしまった右衛門作の眼に後悔の涙がこぼれ落ちた。

「神よ・・・・・・神よ・・・・・・これはなんということだ・・・・・・神よ!」

 幕府軍の総攻撃が始まった。城内にいた人間はその前に投降した1万人を除いて女子供も含め文字通りの2万人以上が皆殺しとなった。


 その後抜け殻のようになった66歳の右衛門作は江戸に送られる。

 右衛門作はキリスト教の信仰を捨て、キリシタン狩り専門の岡っ引きとなった。鮮やかな油絵で踏み絵を描き、多くのキリスト教徒を処刑に追い込んだ。さらにその処刑の風景も生々しく油絵にして公表し、庶民へのキリスト教の布教を徹底的に抑圧したのだった。

 もはや右衛門作の生きている意味は、神に対する復讐心しかなかったのだ。


 晩年83歳。山田右衛門作は信じられない行動に出る。またもとのキリシタンに戻り、こともあろうに故郷の島原に帰郷したという。彼が故郷の人々からどのような扱いを受けたのかは知る由もない。

 腰の折れ曲がった右衛門作は、砂を咬むように呟いた。

「神はなぜわたしにこんな試練を与えるのだろう・・・・・・」

 足を引きずりながら歩くその姿は、まるで十字架を背負ってゴルゴダの丘を行くイエス・キリストのようであったという。

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