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55年8ヶ月6日5時間32分20秒

 日本が初めてオリンピックに参加したのは、1912年(大正元年)の第五回ストックホルム大会である。

 このときのマラソンランナーとして参加したのが、当時21歳の金栗四三かなくりしそうだ。父親が43才の時の子供だったから四三と名付けられた。8人兄弟の7番目である。


「三島さん。もう日本に帰りたいよ」

 旅の途中で、さすがの金栗も短距離走の三島弥彦みしまやひこにそうぼやいたという。なにしろ当時日本からスウェーデンに移動するには、船とシベリア鉄道で20日間もかかったというから長旅である。

 しかも到着したストックホルムは季節的に白夜にあたり、ほとんど夜も眠れなかったというから悲惨である。


「・・・・・・どうなっているのだ」

 大会当日、三島と金栗は唖然として立ち尽くした。なんと迎えに来るはずの車が現れなかったのである。

 彼らは仕方なく競技会場まで走るしかなかった。「もう帰りたい」今度は三島がぼやいた。

「いやそうはいかないよ。送り出してくれた皆に合わす顔がないじゃないか」

 汗をかきながら金栗が言った。


 競技の最中はさらにひどいものだった。

 日中40度を超える記録的な暑さが選手たちを襲ったのである。マラソンに参加した選手68人のうちの半数が棄権し、そのうちの一人は命を失った。

 金栗はそんな中、給水も受けられないまま走り続けたのである。

 しかし、金栗の踏ん張りも26.7km地点で終わってしまう。日射病で倒れてしまったのだ。ふらふらになって倒れ込んだところを、幸いなことに、沿道でみていた親切な農夫が、自宅に寝かせて介抱してくれた。

 翌朝、金栗の目が覚めたときには、競技はすでに終了した後であった。おかげで棄権手続きもできておらず、金栗四三は行方不明者扱いとなってしまったのだった。


 失意のまま帰国した金栗がコメントを綴っている。以下はその時のコメントを短縮して現在の言葉に直したものである。

「(前略)失敗は成功のもとだ。後日この恥を挽回するときもあると思う。雨降って、地固まる日を待つのみだ。笑いたいやつは笑え。(中略)この屈辱は死んでもまだ足りないが、死ぬのは楽だが生きるのはもっとつらい。この借りを跳ね返すため、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、これをもって日本の威厳を高めて行きたい」

 この言葉通り、金栗四三は日本のオリンピック発展に身骨を注いだ。


 そして1967年に2度目のストックホルム大会が開催された。オリンピックは開催55周年を迎えていた。金栗はすでに76歳になっていた。

 このときオリンピック委員会は金栗に対して、粋な計らいをしてくれた。前回不幸にもゴールできなかった金栗四三のために、特別ゴールを用意してくれたのだ。

 金栗は55年ぶりに笑顔でテープを切ることができた。会場は満場の拍手で包まれた。このときの金栗のコメントが残っている。

「長い道のりでした。この間に嫁をめとり、子供6人と孫10人ができました」

 金栗四三の走行タイムは55年8ケ月6日5時間32分20秒というものであった。この記録は今でもギネスブックに最長走破記録として残っている。

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