「臨床試験というのです」外科医である
対峙しているのは母の
「それは青洲。あなたのお仕事のために必要なことなのですね」
於継は年齢を思わせないつるりとした顔で息子を見た。
「このあたりのご近所では、野良犬や野良猫が一匹もいなくなったと評判ですが、あれもすべてその『
妻の加恵が眉根を寄せて夫を見る。
「そうだ。『通仙散』の原料には朝鮮アサガオやトリカブトなどの毒物を使う。犬、猫、ねずみのおかげで効果の検証はできた。しかし、こと人体に投与したときの影響は分からない」
「よござんす」於継が青洲ににじり寄る。「そのお薬、わたしが飲みましょう」
「いけませんお義母さま」加恵が胸を押さえる。「それは妻であるわたしの役目です」
「ちょっとお待ちなさい」青洲が両掌を差し出す。「いいですかお二人とも。命にかかわることですよ。よくよく考えてご返答くださればいいのです」
「でも」加恵が訴えるような眼差しを青洲に向ける。
「何人も弟子達が志願してくれています」青洲は膝の上で両手のこぶしを強く握った。
「しかし、わたしには彼らに命の保証ができない・・・・・・」
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それから数日、青洲の母と妻は一歩も譲らず、結局ふたりに臨床試験を行うこととなった。
「本当によろしいのですか?」
青洲が夜着の白い着物に身を包んだふたりに言った。
「あなたの憧れ、華佗(かだ)に近づくチャンスなのでしょう」と、加恵が言う。
「華佗とは誰のことです?」
於継が加恵の顔を見る。
「中国のお医者ですよ、母上」
青洲が静かに微笑む。
「華佗は麻酔を駆使して多くの患者を治療なさったそうです。日本にはまだ麻酔薬がありません。これからの医学では必ず必要になってきます。わたしはそれを作ろうと思っている」
「その華佗に負けないお医者におなりなさい」と於継が言う。
「わたしなど足元にも・・・・・・それではこちらが母上、これが加恵の薬です」
青洲は油紙に包まれた粉薬を二人に渡した。
実はふたつの包みの中身は違う。母の包みには弱い薬、妻の加恵には『通仙散』が入れてあったのだ。高齢の母を気遣ってのことだったが、多分に青洲の胸中にはマザーコンプレックスが潜んでいた。
「これで目が覚めなかったら、これが今生のお別れになるのですね」
於継と妻の加恵が青洲の手を握った。青洲の目が涙で潤んだ。
「それではよろしくお願いします」
青洲は深々と頭を下げた。
母と妻は、粉薬を水で流し込むと同時に床とこに着いた。
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母の於継は一端は目を覚ますが、その後帰らぬ人となった。
妻の加恵はなかなか目を覚まさず、1週間後にようやく意識を取り戻した。ところが加恵は視力を失っていた。
ふたりの犠牲により麻酔薬『通仙散』は完成し、華岡青洲は世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術に成功する。これは他国の医療より40年も早い快挙であった。
「加恵。きみと母上のおかげだ」
青洲は目の見えぬ加恵の手を握って言った。「自らの命も顧みず、わたしに協力してくれた家族の勇気には
加恵は見えぬ
「それはそうでしょうとも。だって、わたし達の飲んだのは“獲り兜”なんですもの」