目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報
隻眼のパフォーマー

 仙台藩初代藩主の伊達政宗は言った。「馳走とは、旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」

 政宗は厨房で料理に励んでいた。今日も客人をご馳走でもてなすためである。白身魚やエビをすり鉢ですり身にし、それに溶き卵とだし汁を擦りこみ、砂糖とみりんで味付けをする。それを今度は焼き上げて巻き簾(すだれ)で筒型に整える。政宗の生涯の好物がこの卵焼きであった。


 政宗は幼少の時に天然痘を患い、右目が白濁して失明してしまった。それゆえ母の義姫よしひめは、長男の梵天丸ぼんてんまる(元服前の政宗)に対して、腫れ物を扱うように接していた。後年母が長男には目を向けず、次男の小次郎ばかりを寵愛したと伝えられたのはそのせいであろう。


 織田信長亡きあと、天下は豊臣秀吉の時代になろうとしていた。しかし小田原の北条氏は、頑かたくなに秀吉の傘下に入ろうとしなかった。

 北条氏は言い放った。「猿を紐で引くことがあっても、北条が猿に引かれるということはない」

 それに対して、秀吉から伊達家にも小田原攻めの命令が下った。北条氏は一大勢力を誇る戦国大名である。それに対し秀吉は未知数とはいえ、織田信長を引き継ぐ智将と言われている。どちらにつくかで、伊達家の存亡が決まる事態であった。


 前代未聞の事件は、そんな最中に起きたのである。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 小田原攻め参陣に向けて、母の義姫が激励会を催した。

「さあ。今宵は精を存分につけて、明日からの戦に備えるのです」

 政宗は、母の義姫に言われるまま、卵巻などの料理に手をつけた。ただし、極端に酒の弱い政宗は、酒は口にしなかった。

「んぐっ」その時政宗が腹を抱えて座布団から崩れ落ちた。「毒じゃ。毒を盛られた・・・・・・」

 政宗はそう言うと嘔吐して倒れた。その夜、政宗は医師により処方された解毒剤により一命だけは取りとめた。

 なんと実の母による謀反が起きたのだ。家督を小次郎に継がせるのが目的だったという。さすがの政宗も、実の母親を処刑するわけにもいかず、結局のところ弟の小次郎を手討ちにしてしまう。


 その事件の4ケ月後、母の義姫は山形の実家に逃げたという。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 伊達政宗と手討ちにされたはずの小次郎は、東京都あきる野市の大悲願寺山門にいた。

「小次郎よ。お主はこれより秀雄しゅうゆうと名乗り、この寺の住職になるのだ」

「兄じゃは?」

「秀吉に仕えるが、この世の中、いつ何時、命を狙われるか分かったものではない。もしものときにはお前が伊達家に戻って当主になればよい。一緒に戦場に出たのでは、いざというときに伊達家が滅んでしまう。われらには男の子がいないのだからな」

 そうなのだ。すべて政宗の演出した芝居だったのである。さらに政宗は続けた。

「これだけの騒動であれば、小田原攻めに遅れて参陣しても責められることはなかろう。その間に豊臣と北条のどちらかにつけばよいのだから」

 政宗の計算は当たった。政宗は形勢不利な北条氏を見限り、遅ればせながら豊臣軍に参陣したのである。そしてその時、わざと真っ白な死に装束を身にまとい、秀吉に対して遅参の詫びを入れて許されたのだった。

「伊達政宗よ。あと少しでも遅かったら、お主の首もつながっていなかったと思え」

 秀吉はそう言って破顔した。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 人生は芝居とパフォーマンスである。


 信長が本能寺の変を隠れ蓑にして、ヨーロッパに渡ったのち、伝令から後を引き継いだ秀吉に対し、信長からの密命が下された。

「自分がローマ法王になりヨーロッパを掌握するから、猿は中国を手中にせよ」というのである。

 要するに秀吉の日本における天下取りは、信長の世界征服の足掛かりに過ぎなかったのだ。豊臣秀吉は、中国(明)征服の基盤づくりとして、まず朝鮮に出兵することにした。1593年「文禄の役」である。


 徴収された兵の数は15万人にもおよんだという。軍勢を引き連れた大名たちは、一旦京都に集結した。そこから隊列を組み直し、秀吉の待つ名古屋城に参上するのである。

 出兵する軍隊の姿を一目見ようと、京都中の民衆が沿道に集まってきていた。

 仙台から馳せ参じたものの、残念ながら伊達軍は朝鮮出兵の主力部隊には選ばれていなかった。伊達家が謀反を企てているという噂が流れていたからである。そこで政宗は、秀吉への忠誠心をアピールするために、一世一代のパフォーマンスを演じることにした。

 伊達政宗の軍団が現れると、京都の人々は目を見張った。天から舞い降りたかと思わせるほど、世にも美しい兵士たちが行進してきたのである。

 紺色に日の丸をあしらった軍旗。黒で統一された具足。全員が朱色の脇差を差しており、そこには銀の装飾がほどこされていた。馬に乗った武者達の鎧には、金色の半月を描いた黒のマントがひるがえっている。

 そして大将の政宗は、背中に大きな金の家紋を描いた羽織を着ており、黒い袴に金糸模様の装飾が施されている。兜にはキラキラと輝く三日月の前立てが悠然と揺れていた。

 それらは決して派手になり過ぎない、上品でいて豪華な秀吉の不評を買わないように計算し尽つくされた装いなのであった。それはまるで絵巻物をみているようであったという。

 これを観覧した秀吉は大いに喜び、豊臣家に対する伊達家の忠義が確固なものになったのだった。


 この装いは後に、さらに意外な効果が表れることになる。

 この美麗な伊達軍の姿が後々、「おしゃれ」「いき」「カッコいい」ことを「伊達」と言うようになったのである。

 おせち料理を豪華に装う、伊達政宗の好物の卵巻きが「伊達巻き」と呼ばれるようになったのもこれに由来する。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 秋になると大悲願寺の境内は、みごとな白萩で覆いつくされていた。

 弟の秀雄和尚しゅうゆうおしょうと兄の政宗は白萩の中にひっそりと対峙していた。和尚の掌には、例の卵巻きを乗せた小皿が乗せられていた。秀雄は白萩を仰ぎ見ながら政宗にしみじみ語った。

「兄じゃ。この世に伊達巻きがある限り、伊達家の名前が、末代まで滅びることはござりませぬな」

「うむ」

 秀雄には兄がにウィンクしたように見えた。もっとも政宗がもともと片目を瞑っているので、そう見えただけなのかもしれない。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?