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負けるな一茶

 江戸時代の庶民文化の中でも小林一茶の俳句はすこぶる評価が高い。


 一茶は即興的に句を創作する天才であった。

 とにかく残した俳句の数が半端ではない。同時代の松尾芭蕉が1,000句、与謝蕪村は3,000句。それに比較しても小林一茶の残した句はなんと21,200句と桁違いの多さなのである。

 悪く言えば粗製乱造と言えるかもしれない。自身が詠んだ俳句の主語だけ変えた物も残っている。たとえば・・・・・・


“名月を 取ってくれろと 泣く子かな”

“あの月を 取ってくれろと 泣く子かな”


“雪とけて 村いっぱいの 子供かな”

“雪とけて 町いっぱいの 子供かな”


 といった具合である。いったい何がこんなにも一茶を俳句の創作に駆り立てていたのだろうか。


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「弥太郎。悪いが江戸に奉公に出てもらいたい」

 父、弥五兵衛が奥座敷に一茶を呼び入れて言った。一茶の幼名は弥太郎という。

「お父さん・・・・・・」

 一茶は分厚い唇を噛みしめ、切れ長の目を見開いた。

「お前の言いたいことはわかっている。なぜ長男の自分が奉公にだされなければならないのかと言いたいのだろう。それにうちは柏原(長野北部)の中でも富農とはいかないまでも大きな農家だ。食い扶持に困っているわけでもない」

「継母のせいですか」

 弥五兵衛がゆっくり頷いた。

「こらえてくれ。わしの力不足じゃ」

 一茶の実母のくには、一茶が3歳の時に亡くなってしまった。

 それから5年後に弥五兵衛は隣村から後妻のハツを娶ったのだが、継母は気が強く一茶とはすこぶる気が合わなかった。そしてハツと弥五兵衛との間に仙六という子供が産まれると、ますます険悪な仲に発展していったという。

 それでも祖母のカナが仲介に入っていた時にはまだ良かったが、一茶が14歳のときに祖母が亡くなると、もはや手のつけようがなくなってしまったのだ。

「でもわたしは長男です。この小林家を継ぐ身ですよね」

「ああその通りだ。時間が経てば、お前達の心も穏やかになっていよう。いつか戻ってきてもらいたい」

「わかりました。・・・・・・ですが家督は弟の仙六には譲りませんからね。江戸で勉強をして絶対に戻ってまいります」

 そう言うと小柄な一茶は、小鼻を膨らませて立ち上がった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 労働者のひとりとして江戸に奉公にあがった一茶を待ち受けていたものは、貧困と宿無しの生活であった。当時の奉公人は奉公先が一定ではなく、その都度宿泊先を転々としていた。いわば日雇い労働者の一団の中のひとりにすぎなかったのである。

 しだいに一茶のフラストレーションは溜まっていった。

「なぜ小林家の惣領のわたしが、こんな目にあわなければならないのか・・・・・・」


 貧困生活に喘ぎながら、ある日一茶は俳句というものを知る。

 労働者仲間に無理矢理に連れて来られた遊郭で、お夏という遊女からお遊び程度に俳句の作り方を教えてもらったのである。


“やれ打つな 蠅はえが手を擦る 足を擦る”


 一茶の句は、風景の一瞬を1葉の写真に切り取ったかのように情景が目に浮かんで来るのだった。

「面白いわね。あんたなかなか筋がいいよ。本格的に習ったらどう?」

「そうかな。ふうん・・・・・・おもしろいもんだな」

 見よう見まねで作った俳句だったが、意外にもお夏に褒められた。

 考えてみれば一茶にとって、初めて他人から褒められたのである。快感であった。それからというもの、何か辛いことがあると俳句を作ることで気を紛らわすようになったのである。


 その後一茶は『葛飾派』という俳会に入り、メキメキとその腕を上げていった。25歳になった一茶はやがて執筆の役職につき、師匠と同居することになる。執筆とは師匠が認めた実力者でい、わば葛飾派のナンバー1となったのである。


“雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る”


 一茶は当時の習わしで全国へ修行の旅に出発した。

 師匠が各地の俳人へ紹介状を書き、そこへ訪ねていきお互いの句を披露し合う。そこで腕が認められれば客人として受け入れられ、認められなければ宿を紹介されて出直さなければならない過酷な修行の旅なのであった。

 貧乏な一茶は寒空の下で野宿することさえあったのだ。

「仮にもわたしは小林家の跡取りだぞ。どうしてこのようなことに・・・・・・」


 当時の俳人は、一様に定職を持っており、俳句は趣味の延長であった。一茶のように俳句を生業なりわいにしていたのでは、金銭的な余裕がまったくなかった。

 苦肉の策で句会を開催したり、全国の俳人に通信教育をするなどして生計を立てていたが、生活が楽になることはない。

 そんなある日、父弥五兵衛が病で倒れた。

 弥五兵衛は小林家の財産を一茶と仙六が半分ずつを相続せよとの遺言を残して他界した。これには一茶も喜んだ。しかし継母と弟は難色を示した。自分たちが拡大した農地を、一茶が半分受け継ぐことを良しとしなかったのである。このことは、長期に渡って遺産相続訴訟へと発展して行く。

「なぜなのだ。わたしが小林家の惣領じゃないか!」


 この遺産分割問題の訴訟は長期にわたった。訴訟が解決したのは一茶がすでに52歳のときであった。同時に一茶の初めての結婚が決まった。相手は28歳のお菊という女性だった。

 お菊は気配りが利き、継母や仙六の農作業も積極的に手伝い、折り合いをつけた。そして待望の子宝にも恵まれた。

「跡取りもできた。お菊でかしたぞ!これで小林家も一安心だ」一茶な満足気に長男の顔をのぞき込んだ。

 ところがその第一子は生まれて28日目に突然亡くなってしまった。その後もお菊はふたりの男の子とひとりの女の子を出産したが、誰ひとりとして2歳を迎えることがなかったという。その上さらに、妻のお菊も通風を患い、37歳の若さで亡くなってしまう。

「なぜだ。なぜなのだ。小林家を継ぐ者としてあまりにも酷ではないか」


 その後一茶は武士の娘で38歳のお雪と再婚することになる。

 お雪も再婚の身であった。お雪は気位が高く、農業の経験も無かったため、お菊のように継母や仙六とうまく迎合することができなかった。

 その上、当代一の俳人である一茶には客人が絶え間なく訪れるようになっていた。お雪はとうとう孤独に耐え切れなくなり、実家に帰ってしまう。そして二度と戻って来ることがなかったのである。


 やむなく一茶は三度目の結婚をすることとなる。なんと一茶64歳のときである。

 妻の名はヤヲという。歳は32歳で2歳の連れ子倉吉を抱えていた。連れ子だから血は繋がっていないとはいえ、形なりにも跡取りにはすることができそうである。

 ただし、倉吉は私生児である。父親はある名家の三男で、若干10代の少年に過ぎない。奉公人のやをを胎ませてしまったのだ。


 翌年、小林家は大事件に巻き込まれた。柏原の大火が起きたのである。小林家はほぼ全焼。一茶たち家族三人は焼け残った暗い土蔵で生活することになった。

「なんで惣領のこのわたしが・・・・・・」


 一茶はある日急に気分が悪くなり、暗い土蔵の中で倒れ込むようにして床に着いた。そして辞世の句を詠む間も無く、そのまま息を引き取ってしまったのである。

 享年65歳の生涯であった。


 一茶の亡くなった翌年のこと、ヤヲは女の子を出産した。なんとヤヲは一茶の子を腹に宿していたのである。

 産まれた子供はヤタといい、大人に成長したやたは婿をとり、3男1女の子宝にも恵まれ、小林家を継ぐことになる。

 生前あんなにも一茶が渇望した小林家の存続は、皮肉にも一茶の死後に産まれたヤタによって現実のものとなったのであった。


 どこからか、一茶の俳句が聞こえてきそうだ。


“やせ蛙 負けるな一茶 是これにあり”

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