透き通った空気の、天気のいい日だった。
三保の松原にひとりの天女が空から舞い降りた。それは鶴の羽ばたきのように軽やかな動きだった。
松林が遠く海の果てにまで続くかと思うほどに伸び、その先に富士の霊峰がたおやかな雄姿をのぞかせていた。青い海から白い波頭が浮かび上がり、キラキラと目映い光を反射している。
「なんて気持ちがいいのかしら」
天女はおもわず海で水遊びをしたくて、着ていた柔らかくて透き通ったピンクの羽衣を松の枝に掛けた。季節は秋であったが、その日は妙に蒸し暑かったのだ。
そこへ漁夫の
「おりょ。これはなんずら」
手に取ると、それは雪のように軽い着物であった。
「いい匂いだ」
清吉は着物を鼻に当てがうと、松の木の隙間から裸の女体が目に入った。「なんて美しい女性だろう。まるで人魚みてえだ・・・・・・」
清吉の目は、水しぶきを上げて踊る天女に釘付けになってしまった。
どのぐらい時間が経っただろう。天女が一糸まとわぬ姿で清吉に近づいて来た。思わず清吉は後ずさりしたが、天女と目が合ってしまった。
「いや!」
天女が恥ずかしさのあまり、その場にうずくまる。「どこのどなたか存じませんが、わたしの羽衣を返してくださいませぬか」
そう言われて清吉は、自分の両掌に天女の羽衣が握られていることにようやく気がついた。
「だめだ!」
思わずそう口にしていた。
「堪忍してください。それがないと帰れないのです」
天女は眉をひそめて清吉を睨んだ。
「睨んだってだめだ。おれはあんたに惚れちまった。一緒になってくれたら返してやる。そうでなければ、これは破り捨ててしまうぞ」
「そんな・・・・・・」
「おい、そんな格好だと人目につく。とりあえずこれを羽織っとけ」
清吉は自分の来ていた半纏を脱いで天女に向かって放り投げた。天女は言われたまま、清吉の半纏を肩に掛けてゆっくり立ち上がった。
「本当にあなたと一緒になれば羽衣を返してくれるのですね」
「あ、ああ」ふんどし一丁の清吉は自分でも驚くほど動揺して答えた。「お、おれの名前は清吉だ。あんたの名前は?」
「名前。人間の名前はありません」
「そ、そうか。それじゃあ・・・・・・」清吉の耳には静かな波の音が届いていた。「お
「お静・・・・・・」
「そうだ。お静は今日からおれの嫁さんだ」
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清吉はひとり暮らしだった。
天女は清吉が漁に出ている隙を見て羽衣を奪い返し、天に舞い戻るつもりでいた。ところがどこを探しても清吉が隠した羽衣が見当たらない。
天女は清吉の家を飛び出して、交番に駆け込んだ。以前だれかに警察の出張所が交番だと訊いたことがあったのだ。
「すみません」
天女が交番に入ると、デスクで事務仕事をしている警察官が顔を上げた。
「はい。どうしました」
天女は水浴びをしているところをある男性にのぞき見されたあげく、脅迫されて内縁の妻にされている旨を手早く説明した。
「それは犯罪です。で、あなたの住所と氏名は」
「名前はありません。住所は天の川です」
「なんですと」
「わたしは天女なんです」
警察官はまじまじと女の顔を見た。
「はは。困りましたな。いくら別嬪さんでもそんなご冗談を・・・・・・」
「いえ、本当です。わたし天女なんです!」
「ああそうですか。それじゃあ、その男を逮捕することは無理ですな」
「どうしてですか。ひどいじゃありませんか。こんなに困っているのに・・・・・・」
「あのね。人が人に対して犯した罪は法律で裁けますけど、人が天女になにをしてもそれは法律違反にならんのですよ。虫を殺しても罪にならんようにね。お分かりですか」
「・・・・・・そうですか。よく分かりました。それではもう結構です」
天女は重い足取りで交番を後にしたのだった。
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「お静。いま帰ったよ」
清吉は漁を早々に終え、走って家に帰ってきた。そのときは、玄関の
「?」
次の瞬間、輪がギュッと締まり清吉の体が宙に浮いた。清吉は釣り上げられた魚のように手足をバタバタさせたが、そのうちぴくりとも動かなくなった。
天女はテコのように張り巡らせた縄を近くの柱に縛りつけた。そして天女は無言で清吉の着物を剥いだ。
「やっぱり」
清吉は着物の下に、天女の羽衣を身につけていたのである。天女はふわりと羽衣を羽織ると表に出た。
ちょうどそこに、先ほどの警察官が自転車で通りかかったところであった。
「おや、さきほどのご婦人」
警察官がにこやかに挨拶すると、天女の肩越しにゆらゆら揺れる清吉の変わり果てた姿を見て目を剥いた。
天女は微笑んだ。
「わたしは人間ではありませんから、こんなことをしても罪にはならないんでしょう?」
そう言うと、天女は空高く舞い上がると、みるみるうちに姿を消してしまった。