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scene 31. もうひとつの再会

 事件解決から、二ヶ月半と少しが経ったある日のこと。

 もう九月も残すところあと三日というその日は、朝から霧のような雨が視界を曇らせていた。だが外に出たら濡れるというほどではない。サムは窓を開けて空模様を確かめると、ジョンを散歩に連れていこうと上着を羽織った。

 リードを手に、ジョンを連れて探偵事務所を出たとき。どこからか、あの特徴的な排気音が聴こえた気がした。まさかまたネッドが来たのか? と、サムはエントランスから通りを見渡した。だがあの白いストライプと赤のボディはどこにも見当たらず、エンジン音もなにも、もう聴こえなかった。

 気の所為だったのだろうか、と耳を澄ましていると、代わりに室内なかで電話の呼出音リングトーンが鳴っていることに気がついた。サムは慌てて戻りはせず、ジョンの首輪にリードを取りつけた。すると。

「――父さん、電話だよ」

 ショーンがドアを開け、サムを呼んだ。ということは仕事だろうか。サムは期待を込めて「依頼人か?」と訊いた。

「ヴァーノンからだよ」

 仕事の依頼ではなかったか。少しがっかりしながらサムは、そういえばそろそろだったかと、電話に出るためジョンのリードを離してしゃがみこんだ。

「ジョン、悪いがここでおすわりして待っててくれ。いいな、〝待て〟だぞ」

 室内に入ろうとするサムをじっと見あげ、ジョンは云われたとおりその場でおすわりをした。オフィスに戻り、サムは外されたままの受話器をとった。

「――サムだ」

『悪い。取り込み中だったか?』

「いや、ぜんぜん。ジョンの散歩に行くところだった」

 用件はわかっていた。サムはデスクの上の小さなカレンダーを確認し、「明日だったな」と云った。ジェイコブズとエイブラムスの公判である。

『忘れてなかったならいい。俺とネッドも久しぶりにそっちへ行くんで、あんたに会えるのを楽しみにしてる。また旨い店を考えておいてくれ』

「なんだ、裁判じゃなくメシがメインなのか」

『どうせネッドはまたそこに泊まるんじゃないか?』

 ヴァーノンがそう云い、サムはふっと笑ったが。

「残念だが、もうベッドは空いてないしな。ビュロウの仮眠室の硬いベッドが嫌なら、ホテルに行ってもらわないと。……ところでネッドは?」

『それなんだが、今日は姿を見てないんだ。ひょっとすると、もうそっちに向かったのかもしれんぞ』

「ええ?」

 サムは眉をひそめたが、ネッドならやりかねないと思った。まさか、さっき聴こえたのは本当にオールズモビルのエンジン音だったのか? などと一瞬思い、そんなわけはないなとゆるゆると首を振る。

 ネッドは帰るとき、車はトランスポートサービスに任せて、自分は飛行機に乗っていったのだ。なのに車でわざわざ来るわけがない。

「あいつはいつもいきなりだからな。まったく、来るなら来るで電話くらい……まあいい、もしこっちに来たら連絡させる」

『頼む』

 電話を切り、奥で音楽を聴いているショーンにあらためて声をかける。程よい音量で流れているその曲は、サムももうすっかり憶えてしまったイーグルスの〝New Kid in Townニュー キッド イン タウン〟だ。

 ここで暮らし始めるとき、ショーンは立派なコンポーネントステレオと、レコードコレクションを持ってきた。箱の中にしまってあった二枚のシングル盤も、今ではコレクションと一緒に並べられている。

 ショーンは相変わらずフォークロックやソフトロックが好きらしい。今かけられている〈Hotel Californiaホテル カリフォルニア〉はリリースされてすぐに購入、以来ずっといちばんの愛聴盤だそうだ。流行りのロックなどまったく聴かないサムの耳にも馴染む、名曲揃いのアルバムである。

 そして再びエントランスの外へ出ると――ついさっき待たせた場所から、ジョンの姿が消えていた。

「ジョン?」

 〝待て〟と云ったのにジョンが動くなんてどうしたんだ? と、サムは眉をひそめて周囲を見た。ジョンは利口な犬だ。言いつけを破って勝手にいなくなるなど考えられない。まさか、誰かに連れていかれたなんてことは――

 きょろきょろとジョンの姿を探しながら階段を下りかけると、手摺の陰から黒い帽子が現れた。立ちあがった男の後ろ姿を見やり、誰だ? と一瞬思ったが、その足許にはジョンがいて嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振っていた。どうやら犬好きが撫でるなどして相手をしていたようだ。

 声をかけようかと迷ったが、男は挨拶をするように帽子のつばをくいと抓むと、そのまま歩み去っていった。サムはそこへ近づくと「よーしよし、すまんな。待たせた」と、ほっとしてジョンの頭を撫でた。

 霧のような雨はもうやんでいて、空は灰色から水色に変わろうとしていた。

「さあジョン、散歩だぞ。行こう」

 しかし、いつもなら尻尾がちぎれんばかりに喜んで歩きだすのに、ジョンは動こうとしなかった。

 さっきの男が去っていった方向をじっと見つめ、きゅうん、くおぉーんと寂しげな声で鳴く。ジョンのその様子に、サムは眉根を寄せ――はっとして振り向いた。

「まさか――」

 ジョンがこれほど人恋しそうに鳴く相手。思い浮かぶのはたったひとりだ。サムはリードを放りだし、全力で駆けだした。

 走りながら、何故もっと早く気づかなかったのかと己を責める。習慣のように目に焼きつけたその姿を思い起こし、帽子から金髪がはみだしていたじゃないかとサムは唇を噛みしめた。晴れていたならきらきらと光を弾き返していたであろう、黄色みの強い、あのバターブロンド。

 だらだらと続く上り坂に息を切らして足を止め、サムは辺りを見まわした。だが、男の姿はもうどこにも見えなかった。――逃げ足が速いのは相変わらずか。

「……ソガード……、ジョニー・ソガードーー!!」

 サムは思いきりその名を叫んだ。ちくしょう、いったいなにをしに来やがったと、腰に手をやりながら深呼吸して息を整える。

 そのとき、さっきよりもはっきりと、あの音が聴こえた。地響きのように足許から這いあがってくる、独特で小気味好いマッスルカーの排気音。音だけで、車は見えなかった――そして、その音も瞬く間にフェイドアウトして消えてゆく。

 張り巡らされた電線の下、波のようにうねる坂道を黒いマスタングが走っていくのが、まるで実際に見たように目の裏に映った。今度こんなふうに現れたら必ず捕まえてやるぞとサムは思い――たぶん、もう二度と此処へ来ることはないのだろうなと踵を返す。

 事務所前に戻り、小首を傾げているジョンの頭を撫でてやると、サムは「ジョン」と名前を呼び、リードを引いた。

 サムについて坂道を歩きだしたジョンは一瞬あしを止めて振り返り――もう一度、長い長い遠吠えをした。









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♪ Eagles "New Kid in Town"

≫ https://youtu.be/-Pa5nqYXEnY





- THE END -



𝖩/𝖲&𝖭 𝗌𝖾𝗋𝗂𝖾𝗌 #𝟤 "𝖬𝖨𝖲𝖲𝖨𝖭𝖦 : 𝖳𝗁𝖾 𝖢𝖺𝗌𝖾 𝖥𝗂𝗅𝖾𝗌 𝗈𝖿 𝖣𝖾𝗍𝖾𝖼𝗍𝗂𝗏𝖾 𝖲𝖺𝗆 𝖬𝖼𝖭𝖾𝗂𝗅"

© 𝟤𝟢𝟤𝟧 𝖪𝖠𝖱𝖠𝖲𝖴𝖬𝖠 𝖢𝗁𝗂𝗓𝗎𝗋𝗎

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