無事に事件が解決し、ひととおりのことを終えたある日の昼下がり。
やや湿り気を帯びた生温い空気に汗を浮かべ、サムは探偵事務所兼自宅の掃除に精をだしていた。リックが留守番をしていたとき、ドライモップをかけるくらいのことはしてくれていたようだが、事件に
もう不要なものはゴミ袋に、その他のものは整理整頓して元の場所に仕舞いながらサムは、やはり助手が欲しいなと溜息をついた。ひょっとして留守中に間借り希望の電話があったかもしれないが、もう募集広告を掲載してからけっこう経っている。またあらためて新聞に載せたほうがいいかもしれない。
今度は
そんなことを考えていると、ふとネッドの顔が頭に浮かんだ。
いやいや、と首を振り、サムは出しっぱなしだったピンボードに貼ってあるものを剥がした。プッシュピンもすべて外し、ジャムの空き瓶に片付ける。そして古新聞も縛り直すと、サムは棚に戻そうとして――その上の箱に目を留めた。
新聞を仕舞うと、サムは箱を運びだし、デスクに置いた。
中の古新聞やシングル盤を丁寧に取りだし、箱の底から一枚の写真を取りだす。写っているのはまだ四十代だった頃の自分とアイリーン、そして十四歳のショーンだ。サムはその写真を出したまま除けたものをまた仕舞って、箱を元の場所に戻した。
「いやあ、でもほんとによかったっすね。エミリオも無事だったし、エイブラムスも意識が戻って、回復に向かってるそうで。ちゃんと生きて罪を償わせなきゃっすよね」
オフィスの奥の応接室で、おまえも帰ってこれてよかったなとネッドはジョンの頭を撫で、三本めのバドワイザーをぐいと呷った。サムはテーブルに並べられたチャイニーズカートンの中から
外はもうとっぷりと日が暮れている。ノックもなしにドアが開いたのは、やればやるほど手が止まらず家中を徹底的に磨きあげ、ようやく気が済んでシャワーを浴び、ほっと一息ついた頃だった。電話の一本もなしに四人分はあろうかという中華料理とバドワイザー十二本を持って「おー、なんか綺麗になってる。メシ、まだですよね?」とやってきたネッドに、サムは呆れた。――こいつ、本気でここに住み着く気じゃないだろうな?
そして当然のように、いつものソファで食べ始めてから四十分後。
「おまえ……今日も泊まるつもりか?」
「え? いやー、どうしようかなって思ってたんすけどね。でももうこんなに飲んじまったしぃ、運転するのはやばいかなーって」
「確信犯だろ」
「まあまあ」
逮捕後、ジェイコブズは素直に聴取に応じていると、サムはネッドから報告を受けた。
事の起こりからエミリオの拉致まで、ほぼすべてがサムたちが推測したとおりであった。エイブラムスはまだ入院中だが、三件めまでの犯行は自分ひとりで、四件めからジェイコブズと共謀していたことを病室で認めたという。
そしてジェイコブズは、婚約者のメラニーを喪ったあと、ふたりにとって出逢いのきっかけであった鉄道博物館巡りだけが楽しみだったと聴取で話した。
一週間の休暇をとり、ロサンゼルスの南東、リバーサイド郡ペリスにあるオレンジエンパイア鉄道博物館*を訪れたジェイコブズは、滅多にない機会だからとMLB観戦の予定を組んでいた。アナハイムスタジアムでエンゼルス対オリオールズのナイトゲームを堪能したあと、ジェイコブズはホテルに戻る前にバーに寄った。
そこで
何度もナイフで刺しているそのシルエットから目が離せなかったジェイコブズは、メラニーが刺されているその現場を目撃している錯覚に陥ったという。はっと現実に還り、咄嗟に身を隠すと、ジェイコブズはそのまま殺人者の様子を窺った。
あのジョニー・ソガードがまた現れて殺人を始めたのだと、ジェイコブズはそう思った――当然だろう。しかし殺人者の跡を尾け、街灯でようやく見えたその顔がソガードではないとわかると、ジェイコブズは落胆したそうだ。
通報しようかと迷ったが、もしもこれがソガードであったなら、自分はどうしたのだろう。自分はなぜがっかりしているのだろうとジェイコブズは考え――殺人者を利用してソガードを誘きだし、復讐することを思いついたのだという。
名も知らぬ殺人者を尾行して接触を図り、エイブラムスが精神的に追いつめられ、〝
しかし、そうそう巧くはいかなかった。
エイブラムスにとっては四人め、ジェイコブズには初めての殺人のとき。みつけた獲物を刺そうとしたその瞬間、エイブラムスがナイフを取り落としてしまった。慌てふためきながらエイブラムスがナイフを拾う隙に、被害者は逃げようとした。ふたりとも顔を晒している。逃げられたら終わりだ――ジェイコブズは咄嗟に獲物を捕らえ、持っていたバタフライナイフで喉を切り裂いた。そう、まるでソガードがやるように。
その場に事切れようとしている被害者を仰向けに横たえると、ジェイコブズは血に濡れたバタフライナイフをエイブラムスに渡した。ひとりに対し途中で凶器を変えるとまずいような気がしたのだという。エイブラムスはジェイコブズの指示どおり、渡されたナイフでそれまでと同じように何度も刺した。
そして、その次の犯行でも予期せぬ出来事があった。
殺人を終えた瞬間。死体の傍にいるところを、エミリオに目撃されたのだ。血の滴るナイフを握ったままエイブラムスはエミリオを追い、ジェイコブズは殺すなと止めてエミリオを捕らえた。そしてダクトテープで口を塞ぎ、両手の自由も奪って車のトランクに放りこんだ。
監禁場所に困り、数日は森のなかに車を駐めて過ごしたという。エイブラムスは殺して海に棄ててしまおうと云ったが、ジェイコブズはいざというとき役に立つからと、殺さないよう説得した。所持金が尽きかけていたこともあり、ジェイコブズは――これもサムの推理したとおり――新聞の求人広告で日払いの仕事を探した。金の心配がなくなり、空き家の工事を任されたことで監禁場所と隠れ家の問題も解決した。
その後、ふたりはさらに三人を殺害したがソガードが現れることはなく、ジェイコブズは復讐を果たすことができないまま逮捕されるに至った、というわけだ。
「――エイブラムスは『カジノ産業の発展と地域経済の相関関係』とかなんとかいうテーマでレポートを書くためにラスベガスに行ってたらしいんですが、そこで妙な女に付き纏われて一悶着あったんだそうです。それで揉みあった末に相手が頭を打って、エイブラムスは殺してしまったとすっかり慌てた。ラスベガスは初めてで、ナイフは護身用に持っていたんだそうですが、〝魅惑の殺人鬼〟の仕業に見せかけようと思いついて何度も刺したのは、直前にカジノのバーで黒いマスタングの噂を聞いたからだって云ってました」
「そこから絡んでたのか」
事件のあいだ、ずっとちらつき続けていた噂話。ソガード本人はとうとう現れなかったが、黒いマスタングの噂など広まっていなければ、今回の連続殺人はなかったのかもしれない。
「見えないなにかに踊らされてた……って感じだな。ジェイコブズも、噂話がなければなんの関係もない女たちをメラニーと同じ目に遭わせるなんて、思いつきもしなかったろうに」
重い沈黙が落ちる。ネッドがそれを振り払うかのように、四本めのバドワイザーを開けた。テーブルの上にはまだ
「そういえば、そっちは?」
「こっち?」
「リックの」
「ああ」
サムはバドワイザーをオレンジの香りとともに喉に流しこみ、答えた。「息子が無事に救けだされたのはリックのおかげだって、エミリオの両親がころっと態度を変えてな。リックの母親もいま職業訓練を受けていて、グループセラピーに通うことを条件に、来週には家に帰ってこれるそうだ。で、それまでリックとミゲルはエミリオの家で世話になることになった。ぜひそうしろって大歓迎さ」
「……なんかもやっとするのは俺だけっすか? だって、捜索願いすら出さなかったんでしょう? 勝手なもんだな」
「俺もそう思わなくもないが……まあ、親なんてそういうもんなのさ。とことん放任してたのも、あれである意味、あそこの両親はエミリオを信用してたとも云える。だから殺人犯に拉致監禁されてて、そこから救けられたと聞いてひっくり返るほど反省したのかも」
「そんなもんなんですかねえ」
「そうさ」
まだなにか納得いかないという表情を見て、サムはふと、そういえばネッドの両親について話を聞いたことはなかったなと思いついた。
「おまえは? 両親とはどんな感じだ」
「どんなって……ふつうっすよ。あ、でも、ちょっとばかり厳しいかな」
「なにをやってる人だ?」
「うちは曽祖父、祖父、親父に伯父と兄貴に姉貴の旦那と、代々みんな保安官か警官です。で、俺は親の言いなりになるのが厭で、どうせならって」
サムは吹きだした。
「どうせならで
ネッドはにっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ええ、為て遣ったりです」
サムは笑いながら、ネッドは見かけによらず優秀で、骨のある男なのだとあらためて思った。こんな言い方をしているが、FBIの捜査官になど、ちょっと試験を受けて合格して、といった調子でなれるものではない。
「おまえはいい捜査官で、俺にとって最高の相棒だよ。……云うのが今頃で悪いが」
そう云ってやると、ネッドは口に運ぼうとしていたチキンを、箸からぽろりと落とした。ころんと転がったチキンの前で、ジョンがむくりと起きあがっておすわりをする。
「……酔いました?」
「かもな」
ネッドは箸を置き、ジョンに食べていいと云うと、少し困ったような顔で視線を彷徨わせた。
「……あの、サム。俺……ちょっと、考えてたんですけど」
サムは目を閉じ、ゆっくりと二度頷いた。
「ああ、わかってる。……ヴァーノンは信頼できる相棒だ。あいつとなら、これからうまくやっていけるだろ」
「……そうっすね。俺も、そう思います。……それと、もうひとつ」
美味しそうに頭を振りながらチキンを食べるジョンをみつめ、ネッドは云った。「俺、射撃の腕をもっとあげます。自分で瞬時に判断して、自信を持って撃てるように……
正しい銃の使い方ができるようになります――俺が尊敬する、元相棒のように。そう独り言のように呟くネッドに、サムはなにも云わず、ただ微笑んだ。ネッドもそんなサムの表情を見て、照れくさそうな顔をする。
思いついたように、あとひとつっすよとオレンジチキンのカートンを差しだしたネッドに、サムはもう腹が限界だと両手を上げた。
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※ オレンジエンパイア鉄道博物館・・・現在の名称は南カリフォルニア鉄道博物館(Southern California Railway Museum)。
歴史的な鉄道車輌や機関車が多数、展示されていて、週末には一部の車輌を実際に動かし、乗車することも可能。鉄道車輌のみならずトロリーバスもコレクションされていたり、京都市電の古い車輌まであったりする。