その空き家は以前エイブラムスを見失った――つまり、ネッドが頭を殴られた――場所から
七月の午前九時。爽やかな空気のなかで、そこだけが物々しい雰囲気に包まれていた。一定間隔をおいて住宅が立ち並ぶその一角には今、逃げ道を塞ぐように警察車両と
外観、内装ともに修繕するため、先ずは給排水管の引き直しをしているはずのヴィクトリアンハウス。その周囲で、FBIの捜査官たちは防弾ベストを着用してあらゆる事態に備え、
「マクニール、あなたはなるべく後方にいて」
「足は引っ張らんさ。それより、くれぐれも慎重に頼む。奴らはエミリオを生かしたままここに監禁してる。いざというとき、人質にするつもりかもしれない」
「生きてるのは確かなのね?」
「ああ、間違いない」
無線で家の裏手も含め、すべて配置についたとの確認がとれると、ボズウェルは玄関先で身を低くしている警官に合図を送った。
――ジェイコブズが未払いの給料について電話をかけた、五月二十九日以降の新聞広告から配管工の求人を出していた会社を順に確かめた結果。サムが推測したとおり、六月に入ってすぐデイヴィッド・ジェイコブズという男を雇ったというところがみつかった。
偽名を使っていなかったのは、おそらく運転免許証や身分証明書などの提示が必要であったからだろう。自分が殺人犯――今の段階では殺人教唆のみである可能性も考えられるが――だと身許から特定されるなど、思いもしなかったに違いない。
そうして仕事を得たジェイコブズは、先ずは数件の水漏れ修理を熟して有能さを見込まれ、フルリフォーム前の給排水管工事を任されていた。だが雇い主は、まったく期待外れだったと苛立ちを隠さない口調で云った。修理のときと違って仕事が遅すぎる。人手がないのでしょうがなくやらせているが、いったいいつまでかける気なのか、と。
ジェイコブズは仕事の速さに定評があったはずだ。話を聞いて、サムはその空き家の所在地を確認し、近くにあるグローサリーストアに立ち寄った。ポールモールとドクターペッパーを買い、サムは「ちょっと尋ねたいんだが」とエイブラムスとジェイコブズの写真を胸ポケットから取りだした。
「最近、このふたりを見かけなかったかな」
「この人は知らないね。……こっちの顔は知ってるよ。最近よく来るんだ、けっこうたくさん買ってくれる、いい客さ」
店員が指したのはエイブラムスのほうだった。小銭はあったが札を数えて出し、サムは「釣りはいい」と云って質問を続けた。
「買うのはどんなものが多いかな。インスタントヌードルとか、シリアル?」
「そうそう、マグ・オー・ランチをよく買っていくよ。あとはまあ、パンとか缶詰とか、ふつうにいろいろだね」
「飲み物もたくさん買うだろ? あと、他になにか気づいたことはないかな」
「そうだね、水とジュースと……気づいたことといえば、いつもストローをつけてくれって云うんだよ。いや、若い女の子には偶に頼まれるけど、男のくせにずいぶん上品だなって思ってさ」
礼を云ってサムは店を出ると――まだだ、まだ喜ぶのは早いと、叫びだしたい興奮を抑え両手で顔を覆った。
「――FBIだ!! その場を動くな! 両手をあげて、ゆっくりと跪け!!」
一気に突入しリビングに警官隊が踏み込むと、エイブラムスは背中を小さくまるめ、どこに隠れようかと迷っている様子だった。どたどたと足音を響くなか、慌てふためいた様子で奥の部屋へと逃げこむ。そして再び姿を見せたとき、エイブラムスの右手にはナイフが握られていた。
「来るな、来るなーーっ!!」
「ばかなことを考えるな! サイモン・エイブラムス、もうここはすっかり囲まれてる。おまえが〝
ヴァーノンが銃を片手にじりじりと距離を詰めていく。ボズウェルもその傍に立ち、銃口をエイブラムスに向けていた。その背後を囲む警官たちも銃を構え、皆エイブラムスにぴたりと狙いをつけている。もうエイブラムスに逃げ場はなかった。
サムはその場を離れ、銃を構えながら空き家の他の部屋へ向かった。そのあとをネッドがついてくる。エイブラムスのいたリビングの隣には資材が置かれ、一部の壁が剥がされているなど人のいた様子はない。
――グローサリーストアで、飲み物にストローと聞いたとき。サムはエミリオがまだ生きていると確信した。おそらくエミリオは椅子に縛りつけるかどうかされ、声が出せないよう口も塞がれている。ストローはダクトテープの端だけを剥がして、水分を摂らせるのに使っているのだと、サムにはすぐにわかった――過去に同じ事例があったからだ。
一階は既に警官たちが隈なくチェックしていた。階段を見やると、二階から下りてきた警官が上の階は
なら、あとは地下室かとサムが足を止めたとき。乾いた銃声が二度、立て続けに響いた。ネッドと同時にはっと振り返り、リビングに戻る。緊張が残る空気に硝煙の匂いが漂っていた。そこに立っているボズウェルに「なにがあった」と尋ねながら、サムは視線を落とした。
「いま救急車を呼ばせてる。……ナイフを持って向かってきたの。撃つしかなかった」
「死んだのか」
「急所は外れてる。息はある」
血を流し、床に倒れているエイブラムスの頸に指先を当てながらヴァーノンが答えた。サムはやりきれない思いで〝魅惑の殺人鬼〟になりきろうと金髪に染めた若者を見つめたが、すぐに頭を切り替えた。
「ジェイコブズとエミリオをみつけないと」
ヴァーノンは頷き、無線で確認をとった。
「裏手には出てきていない。ここにはいないんじゃ?」
「いや、少なくともエミリオはいるはずだ」
「地下かも」
サムは頷いた。
「ボズウェル、外の警官たちにまだ包囲網を緩めるなと」
「了解」
サムは銃を構え警戒の態勢をとったまま、地下室へ続くドアを探した。
この家もサムの探偵事務所兼自宅と同じヴィクトリアンハウスで、間口は狭いが天井が高く、奥行きがある。構造も似たようなものだろうと、サムは注意しながら奥へと進んでいった。
思ったとおり、いちばん奥はキッチンだった。さっと見まわし、床板らしきものが何枚か立て掛けてある陰に、サムは探しているドアをみつけた。後をついてきていたネッドに合図をし、サムはその板を除け、そっとドアを開けた。
現れた階段を、サムとネッドはゆっくりと下りていった。一歩進むごとにキッチンに射しこんでいた光が遠ざかり、足許が暗くなっていく。階段を下りきると同時に、ネッドが真っ暗な空間にフラッシュライトの光を向けた。左から右へと横切った光のなかで一瞬、ふたりの人影が浮かびあがった。サムが銃口を向けるのと同時に、白い光がそこに戻ってぴたりと止まる。
「……デヴィッド・ジェイコブズだな。もう観念しろ、エミリオを離すんだ」
エミリオは口にダクトテープを貼られ、後ろ手に縛られてジェイコブズにナイフを突きつけられている。やっと救けが来た安堵と殺されるかもしれない恐怖が綯い交ぜになった表情のエミリオは、写真よりもずっと稚く見えた。
「もうエイブラムスも確保した。可哀想に、抵抗したから撃たれてしまったが……たぶん命は救かる。ジェイコブズ、おまえももうこんなことはやめるんだ。ソガードに復讐したいっていう気持ちはわかる。だが恨むなら奴じゃなく、俺たちを恨め。……俺らがもっと早く奴に辿り着いて捕まえることができていたら、おまえがメラニーを喪うことはなかったんだ」
その言葉に、ジェイコブズは驚いたように目を見開いた。
「あんた……あのとき事件を担当してたFBIか」
サムは頷いた。
「そうだ。今は探偵をやってるが、どうやら縁があったようで……俺はその子の捜索を依頼されたんだ。その子にも、喪えば泣く親や友達がいる。どのみちおまえにもう逃げ場はない……ここはすっかり包囲されてる。もう諦めて、その子を離せ」
一瞬、その顔に迷いの色が浮かんだように見えたが、ジェイコブズはエミリオをますますきつく抱えて一歩下がり、バタフライナイフの刃を頸に触れさせた。エミリオがきゅっと目を閉じ、頸から一筋の血が流れる。サムは再び銃口をジェイコブズに向けた。
「ジェイコブズ! ゆっくりとナイフを棄てて人質を解放しろ! 妙な動きをしたら撃つ!」
ネッドも銃を構え警告する。しかしサムはその前に出て、銃を持った手をゆっくりとおろした。
「ジェイコブズ。その子にはなんの罪もない。離すんだ。おまえにその子を刺せるとは、俺は思わない」
ジェイコブズの表情が一瞬、途惑うように曇った。
「エミリオを拉致したのは、二十四番街での殺しを目撃されたからだな。殺せるものならとっくに殺していたはずだ……だがおまえは、生かしたままここに監禁していた。殺す気なんてなかったんだ。ソガードが現れて、復讐を果たしたら解放してやるつもりだったんだ。そうだろ?」
ジェイコブズはなにも答えないまま、まだエミリオにナイフを突きつけている。サムは続けた。
「おまえの家で写真を見たよ。キャビネットの上の写真、おまえと弟のロビーだろ? 歳は少し離れてるようだが、よく似た兄弟だと思ったよ。写真のなかのロビーは、ちょうどその子と同じくらいの年恰好だった。……なんとなく面差しが似てる気がするのは、俺だけかね?」
ジェイコブズの表情が崩れた。ナイフを持った手ががたがたと震えだす。
「ジェイコブズ、頼む。その子を無事に家に帰らせてやってくれ。……おまえと同じ思いをする人間を、これ以上増やすな」
ナイフを持った手がエミリオの肩へと動いた――と思ったらジェイコブズは、サムに向かってエミリオを思いきり突き飛ばした。
両手を戒められたままのエミリオが、つんのめるように膝から崩れる。床に顔面を強打する寸前でサムが受けとめたその一瞬後――「ジェイコブズ!! よせ!!」というネッドの鋭い声に視線を戻すと、ジェイコブズがナイフの刃を自分の頸に当てていた。
床に転がったエミリオの傍らで、サムは低い姿勢から銃口をジェイコブズに向けた。覚悟を決めたようにジェイコブズがきゅっと目を閉じる。同時に地下室内に銃声が轟き、ジェイコブズの手からナイフが弾け飛んだ。
呻き声をあげ、蹌踉けたジェイコブズは奥へと向かって逃げだした。
「ジェイコブズ!! 待て!」
ネッドがライトの光を揺らしながら後を追う。脚立や棚を引き倒し、ジェイコブズが足止めする。行く手を阻んだスチールの棚をネッドが跨いでいるあいだに、ジェイコブズは地上へ出ようとビルコドア*を開いた。外の光が地下室内に溢れる。
そしてその数十秒後。サムの耳に「ジェイコブズ確保!」という声が届いた。
――終わった。サムはほっとして、光のなかできらきらと舞う埃を見上げ、息をついた。エミリオの躰を起こして楽な姿勢で坐らせ、サムは口を塞いでいるダクトテープを剥がしてやった。
「もう大丈夫だ。無事でよかった、リックが待ってる」
子供のように泣きじゃくるエミリオの肩をぽんぽんと叩き、サムは両手のロープを解こうとしながらエミリオに云った。戻ってきたネッドがその傍に屈みこみ、「このほうが早いっす」と小さな折りたたみナイフでロープを切る。
エミリオの背中を支え、三人で外に出るとそこには自分たちを待っていたらしいボズウェルと、ヴァーノンの姿があった。その背後には、後ろ手に手錠をかけられたジェイコブズを、チームのふたりが連行していくのが見える。
「途中から、あなたが探偵だってこと忘れてたわ」
ボズウェルがそう云って、サムに向かって右手を差しだした。
エミリオを警官に任せ、待機している救急車へと向かうのを見送ると、サムは握手に応え――ふっと笑みを浮かべた。
「奇遇だな。俺もだ」
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※ ビルコドア・・・Bilco door。アメリカの家によく見られる、地下室と外を直接行き来できる出入り口のドアのこと。大きな物を運び入れられる両開きであることがほとんど。
ビルコ社製のものが一般的なため「ビルコドア」、または「バルクヘッドドア(Bulkhead door)」と呼ばれる。