「おふくろさんのことは心配ない。一週間か……二週間くらいかもしれんが、しばらく経って落ち着いたら向こうから連絡があるはずだ。そしたら見舞いに行こう。ミゲルも一緒に、おふくろさんの好物を持ってな」
「うん。……サム、ありがとう」
錯乱して暴れる母親を乗せ、ドラッグリハビリテーションセンターへと走り去る白いバンを見送り、リックはこくりと頷いた。
ミッション地区にある、繁華な通りの裏手にあるアパートメント。饐えた臭いのするその路地にはサムのステーションワゴンが駐められている。開いた後部座席の窓からは、ジョンが〝待て〟の言いつけを守りつつこっちを見ていた。張り込みのあいだ寂しい思いをさせたので、今日は罪滅ぼしに連れてきたのだ。
予想していたとおり、眠っているところを急襲された母親は抵抗して暴れ、聞くに堪えない言葉で喚き散らした。一日を始める
さて、とサムは車に乗り、腕時計を見た。時刻は九時四十分を過ぎたところ。今日は予定が詰まっている。次はエミリオの家に向かう予定である。
「リック、もう行くぞ」
「うん」
サムが声をかけると、リックは小走りにやってきて助手席に乗った。ジョンが嬉しそうにシートのあいだから鼻先をだす。
「ミゲルは? ひとりで大丈夫なのか」
「うん、平気だよ。行こう」
昨日までと違い、ジャンキーの母親がいないほうが弟を心配する必要がないのだろう。ひとつの問題から解放されたリックの表情はなんだか晴れやかで、サムもよかったと心から安堵した。
リックの住むアパートメントからエミリオの家までは、2ブロックしか離れていなかった。ちょっと車を移動したというだけの距離しかないのに、その通りは裏と表、日陰と日向という感じに雰囲気が違っていた。
車を駐め、降りる前にサムは「ジョン、いい子だ。もう一度〝待て〟だぞ」と後部座席に向いて話しかけ、手を伸ばしてジョンの頭を撫でた。
平坦な道沿いにあるその家はアオカケスの羽のような色に塗られ、植込みや花壇などがきちんと手入れされていた。ガレージドアは開いていて、中にはオレンジ色のフォード・ピントが駐められている。とりあえず留守ではないようだ。
玄関前に立ってノックをすると、程無くエミリオの母親らしき女性がドアを開けた。髪はセミロングのボブ、襟が大きめのシャツにセンタープレスされたパンツという、マニッシュだがきちんとした身なりだ。サムは「突然すみません」と一言詫び、自分はサム・マクニール、私立探偵だと名乗った。
「実は、彼がもう三週間もエミリオの姿を見ていないと心配していましてね。なにかあったのではないかと、ちょっとお話を伺いにきたんですが」
「なにかって、なにもないですよ。――リック、なんなの? いきなり探偵さんを連れてくるなんて、いったいなんのつもりなの」
なにも云わず、リックは拗ねたように顔を逸らした。サムはその様子をちら、と見やり、彼を睨みつけている夫人の表情を窺った。どうも長年の親友の母親にしては、リックに対する目つきや物の言い方がぞんざいだ。
サムは尋ねた。
「なにもないということは、エミリオは家に?」
「いいえ、いないのはいないんですけどね。あの子はいつも好き勝手して、何日か帰らないのもこれが初めてじゃないの。夏休みが終わるまでには帰ってくるでしょ。……放任だとお思いかもしれませんが、我が子ながらお恥ずかしいくらい困った子で。今もどうせお友達の家に泊まってるんでしょうけど、ろくな子と付き合ってないみたいなの。――リック、あなた本当に知らないの?」
「知らないから捜してる」
訊いておいて、その答えを信用なんかできないといった訝しげな目でリックを見、夫人は眉間に皺を寄せた。
なるほど。どうやらリックは嫌われているようだとサムは察した。おそらくリックの家庭環境が理由だろう。サムは、
「しかし、今回は友達と一緒とは限らないのでは? リックはエミリオともう三週間も会っていない。遊びに行って戻らないというには長すぎる日数だ。ひょっとして家出とか、なにかあった可能性もある。心当たりを訪ねて、そこにいなかったら捜索願いを出したほうがいいと思いますが」
サムがそう云うと、夫人はあからさまに迷惑そうな顔をした。
「夫は警官で、私は教師なんです。捜索願いなんてとんでもない。自分の息子の管理も指導もできないなんて思われたら恥です。……もう帰ってください。私、そろそろ出かけますんで」
本当に教師だった。サムがさて、どうするかと考えていると、夫人は構わずドアを閉めようとした。
そのとき。「待って」とリックが前にでた。
「あのさ、俺、前にエミリオにカセットテープを貸したんだ。それを返してほしいんだけど……」
「今じゃなくていいでしょ、カセットテープなんて」
「そう云わないで、頼むよ。好きな曲、ずっと聴いてないから返してほしいんだ。……エミリオの部屋に入らせてよ。きっとブームボックス*の中か、傍に置いてあると思う。みつけたらすぐに帰るから」
夫人はしぶしぶドアを大きく開き、脇に避けた。リックは勝手知ったるという様子で奥へと進み、一分と経たないうちにカセットテープのケースを手に戻ってきた。
「あったよ。ありがとう」
リックと肩を並べて車へと戻ると、サムはシートにもたれながらふむ、と隣にあるすました顔を見つめた。
「カセットテープねえ。部屋でいったいなにを?」
そう尋ねると、リックは得意げにこう答えた。
「窓の鍵を開けてきた。おばさんが出かけたら裏にまわって、エミリオの部屋に直接入ろう」
サムはにやりと笑みを浮かべた。
「そりゃたすかった。おかげさんで、おまえの前でヘアピンを二本使わずに済む」
エミリオの部屋はごくありふれた十代の若者の部屋らしく、雑然としていた。
壁にはロックスターたちのピンナップが貼ってあり、デスクの上や棚にはマーベルコミックスやトールキンの〈ザ・ロード・オブ・ザ・リングス〉など本が何冊か並んでいて、その棚の上にはブームボックスがデスクに向けて斜めに置かれていた。傍らにはカセットテープのケースがいくつも積まれている。リックはこのなかから適当に持ちだしたのだろう。それとも、本当に以前貸したか、プレゼントしたものだったのかもしれない。自分の好みの曲を集めたカセットテープを友人に聴かせるのは、この年頃なら誰もがやっていることだ。
他にはクマやうさぎのぬいぐるみや、ラガディ・アン&アンディの人形が飾られていた。リックの話ではエミリオは子供の頃からよく男らしくしなさいと親に云われていたそうだが、なるほど一般的に女の子向けとされるようなものも好んでいたようだ。ピンク色のうさぎを手にして眺めながら、サムは苦い笑みを浮かべた。――父親をやっていた頃の自分も、ショーンがこれを抱いているのを見たなら、同じことを云っただろう。
かたかたという音に振り返る。見ると、リックがチェストの抽斗を次々と開けていた。サムもそこへと近づき、「どうだ」と手許を覗きこんだ。
「着替えとか、まとめて持っていった感じはしないよ。家を出るなら絶対持っていったはずの、お気に入りのT・レックスのTシャツもあるし。やっぱり家出なんかじゃないよ、なにかあったんだ」
「家出じゃないのはわかったが、さっきおふくろさんが云ったように誰か友達のところへ行って帰ってこないだけでは?」
サムは、部屋からごっそりと物が持ちだされていないことに、ひとまず安堵していた。帰ってこないのは心配だが、自分のものを置きっぱなしなのならいずれ帰る気があるということだ。ショーンのように、二度と家に戻らないつもりなどではない――
「……トカゲが死んでる」
リックの声に、サムははっと振り向いた。リックは窓に向いて左側、部屋の片隅のオープンラックの上にある、ガラスケージをじっと見ていた。そろそろと近づいたリックに並び、ガラス越しに中を確かめる。水槽のような大きなケージには空洞を作るように積みあげられた石と木の枝、シダのような植物が入っている。隅には水皿らしきものも置かれていたが空っぽで、6インチほどもあるその緑色のトカゲは、その脇で仰向けになっていた。うっすらと赤い喉袋が、まるで萎んだ風船のようだ。
サムは眉をひそめ、「このトカゲは、エミリオの?」とリックに尋ねた。
「うん、エミリオのペットだよ。……すごく可愛がってたのに、死んじゃったなんて」
サムは考えた。トカゲがいったい、どのくらいの期間、世話をしなければ死んでしまうのかは知らないが、大切にしているペットであれば、何日も餌も水も与えずに放置するなど考え難い。
「親や姉さんは、餌をやったりは?」
そう訊いてみると、リックは首を横に振った。
「おばさんもサンドラも爬虫類とかは苦手で、この部屋には入ることもなかったよ。おじさんは苦手でも好きでもないみたいだけど、生き物の世話をするのは想像できないな」
「つまり、何日も帰らなきゃこうなるのを、エミリオは予想できた? 以前にも何日か帰らなかったことがあったんだろう? そのときは?」
リックは少し考えるように小首を傾げた。
「さあ……誰かに頼んだか、多めに水や餌を置いていったのかもしれないけど……、一度だけ、家に電話がかかってきたことはあるよ。窓の鍵を開けておいたから、フローレンスに餌をやってくれって。あ、トカゲ、フローレンスって名前なんだ」
「それは、何日帰らなかったときだ?」
「……二日……」
リックも気づいたらしい。大きな目に不安の色を湛え、リックはサムの顔を見た。「まさか、エミリオは電話もできない……自分の意思で動けない状態ってこと?」
サムは頷いた。
「どうやら本腰入れて捜索を始めなきゃならんらしい。エミリオはなにか厄介なことに巻きこまれて、どこかに連れ去られた可能性がある」
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※ ブームボックス・・・Boombox。ポータブルミュージックプレイヤー、いわゆるラジカセ。持ち運び可能なハンドル、立てて長く伸ばすアンテナとラジオチューナー、カセットデッキとその両脇にスピーカーというタイプのものが多く見られた。