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scene 10. 家庭の裏側

 スモークダック樟茶鴨を食べたときと同じ位置に坐り、リックは訊いたこと以上にいろいろ話をしてくれた。

 リックは母親と、八歳下の弟ミゲルとの三人暮らしだそうだ。父親は刑務所で服役中で、もしも仮出所して帰ってきたなら喜ぶのではなく、怯えなければならない存在だという。

 そして母親はサムが想像したとおり毎日ヘロイン漬けで、働くどころか家のことも、自分のことさえももう満足にできないらしい。弟と母親の面倒をみながら、夜は通りに立って客をとり、家賃や食事のための金を稼ぐ。そうすればとりあえずなんとかなったから、とリックは話した。

「先に、エミリオがやってたんだ。エミリオは……その、俺もだけど、よくカストロ地区で遊んでて……どうせ行き摺りの相手と寝るんなら、小遣いも貰えばいいって感じで始めた。工場とかで働ければって思うけど、それだと朝から晩まで家を空けなくちゃいけないだろ。そうなったら、いま俺がやらされてることをミゲルがやらされる。あんたの云うとおり、売人と繋がりなんて弟にもってほしくない」

「そうだな。しかしリック……おまえもわかってるだろうが、そんな暮らしは続けてちゃいけない。おふくろさんには助けが必要だ。幸い、俺には伝手がある。知り合いに頼んで、おふくろさんを更生施設リハブ センターに入れてもらおう。……そのときは、おふくろさんはきっとおまえに酷いことを云うだろう。裏切り者だとか、おまえなんか息子じゃないとかなんとかな。でも、それは正気じゃない頭が云わせてることで、おふくろさんの本当の気持ちじゃあない。薬を断って健康になればきっと、おふくろさんはおまえに助けられたって感謝するはずだ。……これまでよくがんばったな、リック。大丈夫だ、ちゃんとした生活を取り戻すんだ」

 リックは泣いていた。泣きながらサムの話に何度も頷き、涙の落ちた手をジョンが舐める。擽ったかったのか、リックが笑ってジョンを撫でると、ジョンは嬉しそうに尻尾を振って前肢をリックの膝にあげ、伸びあがって頬を舐めた。

「こいつ可愛いな。仔犬の頃から飼ってるの?」

「……ああ、まあな」

 サムは曖昧に頷いた。――あの〝魅惑の殺人鬼The Fascinating Killer〟が飼っていた犬だと云ったら、リックはどんな顔をするだろう。

 時計を見るともう八時半だった。「時間はまだ大丈夫か」とリックに尋ね、「大丈夫。今夜の分はあるから問題ないはず」という答えを聞くと、サムは上着のポケットから手帖をだした。ペンを持ち、「さて、じゃあエミリオのことだが」と気分を切り替えるかのように声のトーンも変える。

「確か、姿を見なくなったのは二十八日の月曜からだったな?」

「うん。その前の土曜の晩は、俺と一緒に商売してた。客に車で拾われてからは別々になったけど、次の日の夕方頃に近所を歩いてるのを見かけてる」

「エミリオも、家庭に問題が?」

「うん……。うちみたいに貧乏じゃないし、親もまあ、まともすぎるくらいまともな人らだけど……。でもエミリオは親にも姉さんにも理解されなくて、もう口も利かないって云ってた。あんな小遣い稼ぎを始めたのも、親への当てつけみたいな感じでさ」

 当てつけ。サムはその言葉に、やりきれないなと首を横に振った。そんなことで自分の躰を塵芥のように投げだすとは。――否。自分を大切にできないのは、親からの愛情が足りないと感じているからなのかもしれない。

 家族のために始めたというリックと、同じことをしていても背景はこれほど違う。犯した罪で犯罪者を十把一絡げにしてはいけないと、サムは昔よく自分に言い聞かせていたことを思いだした。

「……エミリオがゲイだと、家族は知っていたのか。それは、自分から?」

「カムアウトしたのかって? うんまあ……そうなんだけど、あいつはカムアウトしようなんて、ほんとはこれっぽっちも思ってなかったんだよ」

「というと?」

「エミリオは子供の頃からちょっと、話し方とか仕種とかがこう、柔らかくって……親にはよく男の子でしょとか、男らしく堂々としなさいとか云われてたんだ。で、ちょっと前に偶々フェアリー*がどうのとかそういう話題になったらしくって、エミリオはまさかああはならないだろうなって、みんな笑ってたって聞いた。それがあんまり酷かったから、エミリオは頭にきてつい云っちゃったんだって」

 子供が家を出る理由にはいろいろあるのだろうが、少なくとも、親が信じられる存在であれば思い留まることもできるはずだ。後悔の記憶に溜息が溢れる。サムは煙草に手を伸ばすと、一本咥えて火をつけた。


 嘗てハーヴェイ・ミルクという政治家がいた、同性愛者たちの聖地ともいえるサンフランシスコではあるが、まだまだ偏見を拭い去れない者は多い。他人であれば、そういう人もいるのだと寛容になったつもりでいられても、いざ家族がそうだと知れば受け容れられないということもある――自分はそれを、よく知っている。

 サムは目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、絶望の色を浮かべ自分を見る眼。悔やんでも悔やみきれない、まだ未熟で無理解だった自分が吐いた、取り返しのつかない言葉。


「――で、それから腫れ物に触るみたいな扱いになって……、姉さんのサンドラも、学校で一緒だった頃はオカマ野郎とか云われて苛められてたエミリオをかばってたのに、それが言い掛かりじゃなくてほんとのことだってわかった途端、つらくあたるようになったって……」

 リックの話にはっと我に返り、サムは深々を吸った煙を吐きだした。

「エミリオには、家に味方がいなかったってわけか……。それで、おまえは姿を見なくなったエミリオが家出したんだと?」

 サムがそう訊くと、リックは首を横に振った。

「俺、一度もエミリオが家出したなんて云ってないよ。家出って云ったのはサム、あんただ。……家出じゃない。俺になんにも云わないでエミリオがどっかへ行っちまうなんて、そんなこと絶対にない」

「リック。気持ちはわかるが……エミリオがもういろいろ堪えられなくて家出したとしたら、まずおまえのことを考えたのじゃないか? 本当は一緒に来てほしかったかもしれない。でも、おまえには面倒をみなきゃいけない弟とおふくろさんがいる。だから、伝えたくても伝えられなかった……とは考えられないか?」

 サムの言葉に、リックははっとした表情を見せた。そんなこと、と小声で呟きつつ、困惑したように爪を噛む。

 その様子を見て、サムはリックを元気づけるように云った。

「とにかく、話はわかった。ちょっといま新しい依頼に関する調査が残ってるんで、捜索はそれを済ませてからになるが、一度エミリオの家を訪ねてみよう。で、事情を訊いてエミリオの部屋なんかも見せてもらって、手掛かりを探そう。それでいいか?」

「依頼、受けてくれるの? エミリオをみつけてくれる?」

「必ずみつけるって約束はできないが、できるだけのことはしよう」

「……ありがとう」

 リックはそう云って、ジーンズのポケットから何枚かの紙幣を取りだした。

「これ、依頼料。足りないかもしれないけど、今度また――」

「リック」

 サムはリックの言葉を遮り、こう云った。「実は、ここに住んでた下宿人ロジャーがこのあいだ出ていっちまってな。おかげで調査に出てるあいだのジョンの餌やりや、散歩が決まった時間にできなくて困ってるんだ。でな、依頼料の代わりにジョンの面倒を引き受けてくれると助かるんだが……どうかな」

 大きな目を見開き、泣き笑いのような表情でリックはジョンを見た。ジョンも自分のことを云われているのがわかるのか、尻尾をぱたぱたと振っている。

 リックは何度も繰り返し、首を縦に振った。

「そんなの、喜んでやるよ。石鹸で洗ってブラシもかけて、庭で日向ぼっこもさせる。なんなら家の掃除もやるよ。なんでも云って」

「よし、じゃあ、もうひとつだけ条件をだそう」

「うん、なに?」

 家族や友達のために自分が犠牲になることも厭わない、強くて優しいリック。この子にはもっと幸せになる資格がある――真っ直ぐに自分をみつめるリックに、サムは云った。

「二度と通りには立つんじゃないぞ。俺と約束しろ」

 リックはわかったと頷いた。




       * * *




 翌日。サムは朝からユニオンスクエアのコーヒーハウスにいた。通りの向こうには妻の浮気調査を依頼してきた、レイノルズの勤めるビルがある。サイドウォーク席のテーブルにはからになったコーヒーカップと新聞。そして新聞の下にはカメラと双眼鏡を忍ばせていた。

「コーヒーのおかわりはいかが?」

 ウェイターにそう声をかけられ、「ああ、ありがとう」とカップを差しだす。なみなみと注がれる褐色の液体を眺めながら、サムは「長居してすまないね」とチップを置いた。

 するとそのウェイターは、サムに近づき小声でこんなことを云ってきた。

「いいんですよ、張り込みでしょ? わかります、もう雰囲気が刑事さん! って感じ。あ、ばれないようにときどき席を移動してもらってかまいませんからね。コーヒーのおかわりも何杯でもどうぞ」

 張り込みがんばってください、とウインクして離れていったウェイターに苦笑する。見るからに刑事というのは、張り込みをしている者にとってけっして褒め言葉ではないのだが。

 刑事じゃなくて元FBIの探偵だが、そんなに染みついているかねえ? と、サムが自分の恰好を見下ろしていた、そのときだった。

 眼の前を、見覚えのある車が通りすぎていった。白のポンティアック・アストレ。意識するより先に反応し、さっと双眼鏡をとって車を目で追う。ポンティアックはビルを少し過ぎたところで路肩に寄り、停まった。

 運転席から男が降りる。セールスマン風の若い男――依頼人の妻の浮気相手だった。思ったとおりだとサムは口許に笑みを浮かべ、双眼鏡をカメラに持ち替えた。

 男はビルの中に入る様子はなく、大きな柱の陰にじっと立っている。サムはファインダーの隅に男を捉えたまま、ビルの入口にピントを合わせた。

 すると、程無くレイノルズが現れた。

 まったく想像したとおりの展開に、思わず笑いが込みあげる。男はレイノルズが出てきたことに気づき、笑顔で一歩近づいた。レイノルズも立ち止まり、ふたりはその場でなにやら話し始めた。

 サムは立て続けに何度かシャッターを切った。なにを話しているか想像はつくが、それはまあ問題じゃない。妻の浮気調査を依頼した離婚したい夫と、妻の浮気相手。そのふたりが知り合いで、こうして会っているというだけで充分だ。

 ――と思っていたのに、レイノルズはご丁寧にも懐から茶封筒を出し、男に手渡した。おやおや、あれは報酬かな、と再びシャッターを切る。依頼時に半分、これが残りの全額ってところだろうか。それとも、自分がさっさと報告しない所為で火遊びの延長でも頼んでいるのかもしれない。

 封筒の受け渡しが終わると、ふたりは何事もなかったような素振りで別れた。サムも張り込みは終了、とカメラと双眼鏡をバッグに入れ、新聞を手に席を立つ。

「ごちそうさん」

 さっきのウェイターに声をかけると、サムはさて、とコーヒーハウスを後にした。









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※ フェアリー・・・Fairy。〝女性的〟とみられるゲイの男性を軽蔑的に指す言葉。

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