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scene 9. 浮気調査と第六感

 依頼人の自宅はパシフィックハイツにあった。高級住宅街であるその一角に愛車のステーションワゴンを停め、張り込みを開始してから六日め。白のポンティアックに乗って現れた男が、対象の家を訪れた。

 ブリーフケースを持ち、いかにもセールスマン然としたスーツ姿のその若い男は、程無くドアを開けた嬉しそうな表情の夫人に招き入れられた。どれほど人との会話に餓えている老人でも、セールスマンをあれほどすぐに家に入れたりはしないだろう。サムはさて、と腰をあげて坐り直し、まだ火をつけたばかりだった煙草を消した。

 吸い殻でいっぱいのアッシュトレイがきちんと閉じないことに顔を顰め、カメラ片手に車から降りる。そして家の裏手にまわると、サムは手入れされた植え込みの陰からそっと様子を窺った。

 リビングらしい部屋のカーテンは優美なドレープを見せるよう膨らみをもたせて留められ、掃き出し窓から部屋の中を覗うのは容易――なはずだった。しかしこの日、時間帯が悪いのかとびきりの晴天の所為か、ガラスがきらきらと日光を弾き返していて、中の様子ははっきりとは見えなかった。

 だが、先程入っていった男とこの家の夫人がそこにいるのはわかった。サムはしょうがないなと、カメラを持ったままそっとテラスに近づいた。



 新聞広告を見たと云って電話をかけてきたレイノルズは、この家の主人だ。依頼は浮気調査であった――自分が仕事でいないあいだ、妻がどうやら若い男を家に連れこんで浮気をしているようだ。離婚を考えたいので、浮気の証拠を掴んでほしい。できれば言い逃れのできない、決定的瞬間の写真を手に入れたい。

 電話があった翌日、サムはカストロ地区に寄ってトリニティにジョンをあずけ、依頼人と会うためユニオンスクエアへと赴いた。依頼人が勤めるビルのプライベートオフィスで正式に依頼を受け、調査対象である夫人の写真を受け取ったあと、サムは帰りに人気のデリカテッセンに立ち寄った。

 パストラミサンドウィッチと、チーズ&ベーコンエッグのベーグルサンド、ドクターブラウンズソーダを買いこんだのは、さっそく張り込みをするためだ。仕事で使うことを想定して選んだアンバサダー・ブロアム・ワゴンには、いつ車で寝泊まりすることになっても困らないよう着替えが入ったバッグと、クッションとブランケット、そして公衆電話ペイフォン用の十セント硬貨ダイムでいっぱいのジャムの空き瓶が、常に積まれている。

 数日張り込んでみたところ、夫人は友人とのランチとちょっとした買い物以外、ほとんど出かけることはなかった。依頼人は、寝室に残っていたオールドスパイスとムスクが混じったような残り香で、浮気を疑ったと云っていた――仕事で忙しく、帰りの遅い夫をもつ妻。外で会うより自宅で情事に耽るほうがリスクがないか。サムは、十五年前はさぞ美しかったであろうブルネットの夫人のもとに浮気相手の男が現れるのを、ひたすら待った。

 そして、張り込みを開始してから六日めの今日。やっと男が現れ、夫人が嬉しそうに迎え入れたというわけだ。



 掃き出し窓の端、撓んだカーテンの陰からサムはそっと中の様子を窺った。花模様のつるりとしたガウンを着た夫人は、男と熱烈なキスの真っ最中だった。おっと、もうシャッターチャンスだったかと慌ててカメラを向け、続けざまに八回シャッターを切る。写真を撮られているなど想像もしていないであろうふたりは、ようやく顔を離して暫し見つめあったあと、なにやら話を始めた。

「――もう堪えられない。おねがい、私をここから連れだして。どこか遠くで一緒に暮らしましょ? フランスかイタリアでもいいわ。あなたと一緒ならどこでもいい」

「落ち着いてシンディ。今日は、ご主人は?」

「今日は日曜よ。女のところに決まってるわ……私には付きあいでゴルフだとかって云ってるけどね。もうずっとよ。もう何年も、日曜に家にいたことなんてないの。ひょっとしたら子供がいるのかも」

「ええ? まさか」

「まさかじゃないわ。わかるの。あの人、意外と子供好きでね。結婚したときからすごく欲しがってた。でもできなくて……長いこと寝室も別だし、夫婦なんて名ばかり。もうこんな生活から抜けだしたいの」

 聞き耳をたて、サムは眉根を寄せた。依頼人も浮気をしている? しかも、どうも話を聞いた限りではそっちのほうが先らしい。

 サムは考えた。自分の仕事としては、撮った写真を現像して依頼人に渡せばそれで終了、そのあとのことなど気に掛ける必要はない。仮に本当に依頼人に愛人がいたとしても、夫人もこうして若い男と浮気をしているのだからだ。だが――

 なにか引っかかる。覚えのある感覚だった。こういうとき、なんとなく坐りが悪いまま事を進めないほうがいい。気の所為だ、考えすぎだとやり過ごして後で悔やむより、直感を信じてやれるだけのことをやるべきだと、サムは知っていた。

 壁に背をつけたまま、サムはあらためて美しく手入れされた広い庭と、重厚なエドワーディアンスタイルの家を見た。――パックハイツにこれだけの家。依頼人のレイノルズは高層ビルの社内にプライベートオフィスを構える役員、乗っている車はビュイックだった。けっこうな資産家と考えてまず間違いない。

 ちょっと、調査報告するのを先延ばしするか。サムはそう決めると、濃厚なラヴシーンを一瞥して肩を竦め、そっとその場を後にした。





 早くジョンを迎えに行ってやりたかったが、久しぶりにシャワーを浴びたかったのでサムはいったん探偵事務所兼自宅へと戻った。

 ひとりでの張り込みはやはりきつい。というか、交代もなしに張り込みなど、ふつうは無理なのだ。対象が夜、当たり前に眠ってくれたからなんとかなっただけで、夜中にこっそり出ていかれたらさすがにサムでも気づけるとは限らない。

 車から持っておりたゴミをキッチンのダストビンに突っこみ、シャワーを浴びるためアッパーフロアへの階段を上がりながら、サムはネッドのことを考えた。――あいつ、あんな嬉しそうな顔をしていたが、本当に事件を解決したらここに来るつもりだろうか。

 自分から口にしてしまったことだから、今更だめだとは云わないが……せっかくFBIのバッジを持っているのに、こんなちっぽけな探偵事務所で雇っていいものか。しかも、親元からも遠いだろうに。

「事務所に火をつけられるかもしれんな」

 自分で云ったことがおかしくて、サムはふっと笑った。


 ――聞こえてくるニュースの音声に、サムは目を覚ました。部屋の中が薄暗いことにはっとし、しまったと躰を起こす。つけっぱなしのTVでは見慣れたキャスターがどこかであった強盗のニュースを伝えていた。ニュースをやっているということは、と時計を見ると、案の定もう七時前だった。

「しまった。寝ちまった……」

 ちょっと一服しようとソファに腰掛け、コーヒーを飲んだのだが、カフェインが効果を発揮する前につい眠ってしまったらしい。張り込みのあいだ、夜中には充分睡眠をとったつもりでいたが、躰は休まっていなかったようだ。それとも。

「くそ、俺ももう齢かね」

 ジョンを迎えに行ってやらなければ。サムは上着に袖を通すと、煙草とライターをポケットに入れ、慌ただしく部屋を出た。



「――たすかったよ、ありがとう」

「いいのよ、気にしないで。久しぶりにジョンと居られて、あたしも楽しかったわ。またいつでも連れてきて」

「ああ、そのうち連れと一緒にゆっくりショーを観にくるよ」

「待ってるわ。――じゃあね、ジョン」

 『カプリッチオ』にやってきたサムはカウンター内にいるトリニティに礼を云い、ジョンを連れてまだ疎らにしか客のいない店を出た。今日は日曜だったのでトリニティは先日会ったときと同じような姿だったが、週末になればはとびきりドレスアップして奥のステージに立ち、リップシンクで見事なショーを披露する。

 ジョンを車に乗せ、サムはエンジンをかけた。探偵事務所のあるヘイトフィルモアを背にそのまましばらく進み、左に二度折れてチャーチストリートを北に向かう。

 するとディスコバーの派手な看板の下で、なにやら若い男たちが揉めているのが目に入った。四人。そのなかのふたりには見覚えがあった――真っ直ぐな長い髪にバンダナを巻いた、剣呑な目つきの男。サムは顔を顰めた。その男となにか言い合いながら襟を掴まれたり小突いたりしているのはほっそりとした黒い癖っ毛。リックだ。

 殴りあってはいないようだが、どうも只事ではない。サムは路肩に寄せて車を停め、わざと大きな音をたててドアを閉めた。掴みあっている若者たちがはっとして動きを止め、こっちを見る。サムはそこに近づき、驚いた表情のリックに声をかけた。

「やあリック、ちょうどよかった。このあいだの話だが、車の中で続きを聞こう。乗ってくれ、家まで送るよ」

 突然入った邪魔に、いかにも破落戸ごろつき風の若者たちが一歩前に出てきて、サムを睨みつけた。

「なんだてめえ、関係ねえだろ」

「ジジイはすっこんでろ。怪我したくないならな」

 リックは途惑った様子で、自分が揉めていた相手とサムの顔を交互に見ている。すっこんでろと云ったバンダナの男は、ポケットから飛びだしナイフスウィッチブレイドを取りだし、腕を伸ばしてサムに向けた。

 サムはおやおや、と肩を竦め、両手を腰に当てた――上着をはだけ、銃のホルスターを見せるように。

「ちっ……刑事ディックかよ」

 三人は、それを合図にしたかのように走り去っていった。

「やれやれ。刑事じゃなく探偵だって訂正できなかったな。――さて」

 サムは振り返り、リックの腕をぐっと掴んだ。

「なにすんだよ!」

「ちょっと来い」

 驚き、抵抗するリックを引き摺るようにして、サムは車のドアを開けた。「話がある。乗れ」

「なんだよ! エミリオのこと捜しちゃくれないんだろ! こっちはもうあんたに用はないよ!」

「そのことはあとだ。いったいあいつとなにを揉めてた。いまの男、前に見かけたことがある。売人だろう」

 サムは厳しい目でリックの目をじっと見つめた。「もしドラッグに手をだしてるなら、もう二度とやるんじゃない。ああいう奴らと付きあうのもやめておけ。そのうちろくでもないことになる」

 サムが真剣な口調でそう云うと、しかしリックは「ドラッグなんか誰がやるもんか! 俺はやってない」と、首を横に振った。

?」

 サムは訝しげに眉根を寄せた。リックがしまったという顔でサムから目を逸らす。逃げだそうとする気配をみせないリックの腕を離し、サムは顔を顰めた。

「……親か」

 否定も肯定もせず、リックは黙ったまま、ただ俯いていた。

 ――FBI時代、何度も見たことがあった。薬物に溺れ、子供にろくに食べさせもしないですべて静脈に注ぎこんでしまう母親や、幻覚を見て妻と子に手をあげる父親。子供はそんな親であっても献身的に世話をし、食べるために新聞配達や芝刈りや犬の散歩をして小銭を稼ぐ。

 やりきれないな、とサムは重く息を吐いた。

「……そうか、疑って悪かった。で、今はなにを揉めてたんだ?」

「……エミリオのことを訊いてたんだ。あいつら顔が広いから、なにか知らないかって思って……でも、ばかにされた。頭のおかしい客に殺されるかどうかしたんだろうよって……!」

 ぐっと拳を握りしめ、リックが険しい表情になる。。その言葉に、サムはまさかとリックの肩を掴んだ。

「おい、エミリオは――通りに立ってたのか? まさかおまえも?」

 その質問にも、リックは答えを返さなかった。なんてこったとサムはゆるゆると首を振った。

 真っ昼間から焦点の定まらない眼でソファに蹲る母親。その母に云いつけられ売人に会って薬を調達し、食べるために夜は繁華街の裏通りに立つ息子。そんな光景が脳裏に浮かぶ。

「……とりあえず、ここじゃなんだ。エミリオの話もあるし、事務所へ行こう」

 開けたままのドアを示し、リックの背中をそっと押す。助手席にいたジョンが、どうぞ、というように尻尾を振りながら後ろのシートへと移動した。

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