それが神様の導きだったら、どんなに良かっただろうか。しかし嘆いていても仕方がない。私は痺れを切らしたシルヴィ嬢に、声をかけられてしまったのだ。
「オリアーヌ様、ちょっとよろしいかしら」
それはある日の放課後のこと。いつものようにミュンヒ先生の研究室へ行く廊下で、シルヴィ嬢に道を塞がれた。
そんなところまでエミリアン王子に似せなくてもいいのに、と思ったがシルヴィ嬢の表情を見て、開けた口を閉じた。
今更、貴族のルールについて言及するつもりはないが、こちらは公爵令嬢。本来ならば男爵令嬢であるシルヴィ嬢から声をかけるのは、失礼に値する。けれどその尋常ではないほどの険しい表情に対して、それを言うのは野暮だと思ったのだ。
確認したわけではないが、彼女もまた、私と同じ転生者である。だからこのように、話しかけてきたのだろう。
悪役令嬢が婚約者ではない攻略対象者と恋人同士など、ゲームでは起こり得ない事態が発生しているのだ。しかも、エミリアン王子から婚約破棄を言い渡されていない状況で起きている。
これでむしろ私に接触しない方が、おかしかった。だからあえて私は、シルヴィ嬢に向かって微笑んだ。
「えぇ、構わないわ。でも、こんなところでいいの? 私たちにしか分からない話をしたら、周りが驚くのではないかしら」
いくらここが、ミュンヒ先生の研究室の近くの廊下だからといっても、生徒の姿はある。もちろん、他の教師たちの研究室もあるのだ。話をするのなら、それこそ悪役令嬢が、ヒロインを人目のないところに呼び出すのが妥当だろう。
その証拠に、「私たちにしか分からない話」と言った瞬間、シルヴィ嬢の眉がピクリと動いた。己のやっていることが、ヒロインとはかけ離れている、と思ったのかもしれない。
けれど今のシルヴィ嬢には、余裕がなかったのか、「それがどうしたというの?」とさらに強気な態度をとってきた。
おそらく、乙女ゲーム『救国の花乙女』の話だと察した時点で、私が同じ転生者であると分かったからだろう。不敵に笑うシルヴィ嬢の姿に、私はつばを飲み込んだ。
「今の私は、エミリアン王子の恋人として。そしてアンタは、教師との禁断の愛とか囁かれているのよ。どっちが悪目立ちしているか、自覚していないの?」
「あら、これはすべて、エミリアン王子との婚約解消のためにしていることよ。シルヴィ嬢が仕立て上げなくても、私は悪役令嬢としての振る舞いを……不可抗力だけど、しているというのに、何がそんなに不満なの?」
「何もかもよ! 私の世界で好き勝手に振る舞わないで!」
確かに、黙っていても幸せなエンディングが約束されている世界で、イレギュラーが発生したら、警戒するのは当たり前のことだ。だから異端分子を潰すのもまた、
「いずれはこのレムリー公国を救う、可憐な花乙女が言うセリフとは思えないわね」
「なんとでも言えばいいわ。アンタさえ消えてくれれば、私の心は穏やかになるの。花の女神様に認められるほどのね」
シルヴィ嬢の言い方は癪だが、それが乙女ゲーム『救国の花乙女』のタイトルの所以だった。
この国の教会が祀っているのは、前世のような神様ではない。
この地に根付く偉大なる大地母神。人前に現れる姿が、花のように美しいことからそのように呼ばれている。その花女神様に選ばれるのが、ヒロインであるシルヴィ嬢であり、花乙女と呼ばれる存在だった。
私は俯き、唇を噛みしめた。
「……神様を軽視しないで」
「何?」
「軽視するなと言っているのよ。神様に仕えるものとして、さっきの発言は聞き捨てならないわ」
「は? 意味が分からないんだけど」
それが本音なのか、私を挑発したいのか。シルヴィ嬢の言動に、怒りが爆発しそうになった。私はその神様のお陰で、こうしてヒロインと対峙できている。エミリアン王子との婚約解消に動いている。
転生した直後にできなかったことをやれているというのに……彼女は!
「そこまでだ」
聞き慣れた低い声と共に、大きな手で視界を塞がれた。背中に当たる感触と、お腹に触れる大きな手。それだけでじんわりと、心が温かくなっていくのを感じる。
「何をそんなに怒っているのか分からないが、相手を刺激させていいことはない」
シルヴィ嬢に聞こえないくらい小さな声だったが、私を落ち着かせようと、ミュンヒ先生は優しく語りかけた。けれど今の私には、それは逆効果だった。
冷静になればなるほど、頭が冴えわたり、心の中は悔しさと悲しい気持ちで溢れそうになっていた。
「私は神様に多大なる恩があります」
「オリアーヌ嬢?」
「こうしてミュンヒ先生に出会えたこと、助けていただいたこと。そして、今世に悔いがないようにと、こうしてシルヴィ嬢と対峙できたことも含めて、私は神様に感謝しているのです」
「一体何を?」
感情の
それを感じ取ったミュンヒ先生にも、私の昂った感情が伝染したのだろう。視界が晴れたと思った瞬間、今度はミュンヒ先生の厚い胸元に覆われた。
「本当に意味が分からない。悪役令嬢のクセに神を軽視するな、だなんて。花の女神様に選ばれるのは私なのに」
「意味が分からないことを言っているのは、そっちの方だ。花の女神は常に俺たちの行いを見ている。そこの花壇に植えられている木や花。この大地にさえ、いると言われている。信仰心の欠片もない女を選ぶほど、花の女神は愚かではない」
「……アンスガー・ミュンヒが神を語るの? 信仰心がないのはお互い様なのに」
「シルヴィ・アペール。いくらここが身分を問わない学園とはいえ、教師に対して敬称なしとはいい度胸だな」
いや、逆にそれだけの度胸がなければ、男爵令嬢が王子の恋人になろうとは思わない。シルヴィ嬢は、自分が乙女ゲームのヒロインであるからこそ、どこまでも強気だった。それがどのように周りから見られているのかすら、気にならないほどに。
しかし、そのたった一つのミスで、彼女と私の立場は逆転するとは、よもや思ってもみなかったことだろう。この私でさえ、予測できない事態が待ち受けていた。