ミュンヒ先生の話によると、「そういうことは、まず父親であるカスタニエ公爵に相談しろ」との助言を受けたため、私は早々と自室に戻ることにした。
確かに、ここでミュンヒ先生の知恵を借りたところで、今の私にできることはほとんどない。
いくら対策を立てようとも、それを実行に移すには、お父様の力が必要なのだ。この婚約は元々、王権派と貴族派を結ぶための政略的なもの。私とエミリアン王子の一存で、どうにかなる問題ではなかった。
それはミュンヒ先生も知っていたからこそ、そのように助言してくれたのだろう。私は私で、衝動的に言葉にしてしまったけれど。
逆にミュンヒ先生は、私に呆れたり、叱咤したりすることなく、いつも通りの素っ気ない口調で返してくれた。お陰で恥をかかずにすんだことも含めて、心から感謝した。
もしも今日、ミュンヒ先生の研究室を訪れていなかったら、どうなっていたことだろう。このまま何もせずにいたら、死に戻る前と同じ未来が待ち受けていた可能性だってある。
そしたら折角、神様からいただいたチャンスを無下にするところだった。おそらく神様が、そうならないようにと、
けれど行く手を阻まれるのは、悪役令嬢の
「オリアーヌ嬢。ちょっといいかな」
「エミリアン王子……」
これから貴方との婚約を、穏便に解消できないかどうか、お父様に伝えようとしているのに、一体なんの用かしら。
さらに教室での一件もあり、エミリアン王子の姿を見ただけで、一気に気分が急降下した。元シスターといえど、人間である以上、感情に振り回されることは日常茶飯事。けれど今回ばかりは、牧師様のように心穏やかでありたかった。
なぜなら、廊下の窓から差し込む夕日を受けるエミリアン王子の姿が、まるで乙女ゲームのスチルを見ているような光景だったからだ。
だけど私は忘れない。死に戻る前に見たエミリアン王子の残虐な顔を。そして私を断罪した出来事も、だ。
今の私は貴方を愛していたオリアーヌ・カスタニエでもなければ、乙女ゲームをしていた頃に抱いた気持ちさえも持ちえない、ただの婚約者。
このようなチャンスを与えてくれた神様に、いち早く仕えるためにも、話は手短に願いたかった。
「構いませんが、時間も時間ですので、この場でお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……あぁ。用件というのは、その……シルヴィ嬢のことだ」
なるほど。今更、教科書の件を蒸し返しに来るとは、随分とお暇なのね。いや、弁解しに来たのかもしれないが、結局は同じこと。
なにせシルヴィ嬢の教科書は、ズタボロにされた状態で発見されたのだ。それも以前、シルヴィ嬢が私に話しかけてきた花壇の中にあったというのだから、何をしにエミリアン王子が来たのかなど、安易に想像がついた。
「最近、オリアーヌ嬢が花壇の手入れをしていることは知っている」
「だから、私がやったというのですか? 随分と安直な推理ですね」
私も人のことは言えないけれど、このまま黙っているわけにはいかなかった。
「エミリアン王子はそれを見つけたのが誰だったのか、もうお忘れですか?」
「いや、そんなことはない……シルヴィ嬢本人だ」
「そうです。失くしたのも、見つけたのもシルヴィ嬢です。これだけ出揃った上で、エミリアン王子に質問があります。教科書を探すのに、どうして花壇を探すのでしょうか?」
答えは簡単だ。シルヴィ嬢が犯人だからだ。放課後で、しかもたったの十五分で見つかるほど、教室と花壇の距離は近くない。つまり、捜索と開始に向かったのだ。
その理由までは分からないが……おそらく、ミュンヒ先生に言われたことが原因だろう。
もしもミュンヒ先生に掘り返されていたら、と思ったら居ても立っても居られなくなった可能性が高い。冤罪を許さないミュンヒ先生なら、それをネタに何かするかもしれないからだ。
攻略前のミュンヒ先生は……
「では、犯人が自分だと分かるような行動を、わざわざするのはどうしてだと思う?」
「何かしら、早く事件を解決したい理由があったのではありませんか?」
普通はここで、「自分が疑われないためにしたことだ」と答えるのが正解なのかもしれない。けれど、そんな誘導に乗ってあげるわけにはいかなかった。これではまさに、私を断罪する足掛かりになってしまうからだ。
「それはどんな?」
「どなたかとデートをしようとしていたのかもしれませんよ? たとえば……エミリアン王子、とか」
お心当たりはありまして? と笑顔を向けると、エミリアン王子はバツが悪そうに顔を背けた。
鎌をかけたつもりが当たっていたらしい。なるほど。緊急事態が二つになったことで、シルヴィ嬢は正常な判断ができずに、このようなミスを犯した、というわけか。
死に戻る前、いや転生前の悪役令嬢オリアーヌ・カスタニエの記憶では、こんな簡単なミスはしなかった。それほどに動揺したらしい。
だけど今は、シルヴィ嬢のことよりもエミリアン王子のことだ。
「まさかとは思いますが、シルヴィ嬢とのデートを邪魔された腹いせに来た、というわけですか?」
理不尽にもほどがあるわ。だけど生憎、シスターだった私には通用しない。こんなことは日常茶飯事なのだ。いちいち怒ってなどいられない。
すると、代わりに怒ってくれる人物が現れた。
「おいおい。次期公王ともあろう者が、浮気の上に結託して婚約者を虐めるとはな。随分といい趣味をしていることで」
「ミュンヒ先生」
「残念だが、このことは公王様に報告させていただく」
報告? どうしてミュンヒ先生が公王様に……。
「どうぞ、ご勝手に。父上がそれを聞いたからといって、僕にはなんのお咎めもないと思いますけど? それでもしたければしてください、ミュンヒ先生。いえ、アンスガー・ミュンヒ侯爵殿」
あっ、そうだった。ミュンヒ先生は、学園で教師をしているが、れっきとした貴族。それも上位貴族である。歴史好きが高じて、あらゆる書物が集まるこの学園に身を置いたのだ。
歴史を研究していくと、日々新たな事実が発見されることもあり、いちいち報告を待つよりも、直接学園に在学することを選んだ、変わり者。それがアンスガー・ミュンヒ侯爵だった。
だから、エミリアン王子の監視を命じられたのだ。
けれど侯爵ほどの身分の者が学園に、それも教師としているのには、それなりの理由が必要だったのだろう。だから取って付けたような肩書だけど、公王様はそれをミュンヒ先生に課したのだ。
けれどエミリアン王子が言ったように、不貞を報告したところで状況は変わらない。なにせ公王様もまた、我がカスタニエ公爵家を疎んでいるからだ。
むしろ私の顔に泥を塗ったことを褒めるかもしれなかった。