「失礼します。オリアーヌ・カスタニエです」
放課後。私はミュンヒ先生の研究室を訪れた。
目的はもちろん、教科書を返すためである。直接、借りたのはシルヴィ嬢なのだが「気分が優れないので……オリアーヌ様、お願いできますか?」と言われてしまったので、仕方がない。さらに言うと、こんな時ばかり、敬語に戻されるのもまた、
けれどミュンヒ先生から教科書を借りた時のことを思うと、納得する部分もある。何かよくないことを言われていたようだったから、会いに行きたくないのだろう。もしくは、いくら攻略対象者であっても、相性が悪そうだと思ったのかもしれない。
直接、本人には確認していないけれど、シルヴィ嬢は転生者。本来のヒロインではないのだ。そう、誰にでも愛されるヒロインでは……ない。
とはいえ、現在攻略中であろうエミリアン王子は、可愛い彼女のために、宣言通り、教科書を探し始めたのだ。勿論、クラスメイトに声掛けをしたのは言うまでもない。
さらにここで断れば、自分が犯人だといっているようなものであるため、自然と全員参加となったわけである。
確かにここは乙女ゲームで、シルヴィ嬢の世界だけど……確信犯過ぎて怖い……。
「カスタニエ嬢か。なんの用だ?」
入室の許可を得て研究室の扉を開けると、歴史の教師らしく、山積みにされた本で埋め尽くされていた。まるで前世で見た、教会の図書室のようだ、と内心、懐かしさを覚えた。
寄贈という名の処分場のように、信者から送られてくる本の入った段ボールの数々。それらが毎月のように送られてきては、整理をするのが大変だった。年々、分類するのに困る書籍が多いのだ。
これは専門書? 私小説? 伝記? 歴史書? ラノベ?
始めは出版社別に揃えていたが、利用者に内容で分類してほしいと頼まれ、市民図書館と同じようにした。けれど一方では、専門書と娯楽本を分けてほしいとの声もあり、随分と苦労をさせられたものである。
どうやら頭の固い方は、子どもの声がお嫌いらしい。子どもの声が響くということは、それだけ治安が良くて、平和だという証なのに……。
しかしミュンヒ先生も、それに当てはまる人物のようだった。とても静かな研究室に響くのは、ミュンヒ先生と私の声。放課後であるのにも関わらず、生徒の声がここには聞こえてこなかった。
「お借りしていた教科書を返しに伺いました。ありがとうございます」
「貸したのはアペール嬢だったはずだが、どうしてカスタニエ嬢が……いや、普段からそうなのか?」
「まさか。けれど、シルヴィ嬢のことを疑っていらっしゃるのですか?」
あの時、シルヴィ嬢に言ったことも気になる。
「そうだ。証拠もなく決めつけて、
「だからあの時、そのようなことをシルヴィ嬢におっしゃったのですか?」
「聞こえていたか」
「いいえ。彼女の顔が優れなかったので、もしやと思っただけです」
するとミュンヒ先生が、口角を上げた。
「なんと言ったか気になるか?」
「……はい」
「隠し場所を教えてやっただけさ」
「っ! それでは、最初から知っていたのですか?」
「たまたまな。王子も見る目がない、と思ったら、つい余計なことを言ってしまった」
それが本当であったとしたら、確かにシルヴィ嬢は、ミュンヒ先生の研究室を訪れたくはなかったことだろう。待っているのは説教でしかないのだから。
「ミュンヒ先生も、エミリアン王子とシルヴィ嬢の仲を知っていたのですね」
「学園に入れば、自然と耳に入ってくる。さらにカスタニエ嬢も容認していることもな。だから余計に心配になったのさ」
「っ! シルヴィ嬢が公妃になったら、のことですね。このレムリー公国でも、過去に暴君といわれた公王の時勢があったと聞きました」
エミリアン王子は、余程のことがない限り、いずれ公王となられる。冤罪を平気で作るような者が公妃となったら、どうなってしまうのか。それをミュンヒ先生は言っているのだ。
他の人と違い、ミュンヒ先生は歴史を専門としている。私がいくら公爵令嬢で、エミリアン王子の婚約者であっても、簡単にシルヴィ嬢がとって代わることなど、歴史を知り尽くしていれば、不思議に思うはずはなかった。
「このままだと、その暴君の時勢が再びやってくるぞ。いや、傀儡の間違いかもしれないが、それでもいいのか?」
「そう言われましても、エミリアン王子はすでにシルヴィ嬢の味方で、ほぼいいなりの状態です。元々、流されやすいお人ですから」
「どうだろうな。完全にお前さんを悪者扱いしていなかったではないか」
お前さん? ご自分の研究室にいるせいなのか、ミュンヒ先生の口調がさらに砕けたものになった。
でもそれなら、カスタニエ嬢からオリアーヌ嬢になるのが普通なのではないかしら? とはいえ、今はそれに言及している場合ではない。
ミュンヒ先生はまだ、私にその可能性があると言っているのだ。もうエミリアン王子に気持ちがないだけに、そう思われるだけで嫌悪感が増した。
「……おそらくアレは、他の人の目があったからです。けれど時間の問題かと」
シルヴィ嬢はすでに、エミリアン王子に狙いを定めているのだ。死に戻る前と同じように。だけど私もこのままやられるつもりはない。
「つまりお前さんは、今後の身の振り方を考えて、あんなことを言ったのか」
「それは教科書をシルヴィ嬢に貸そうとしたことですか? それともサボろうとしたことの方でしょうか?」
「両方だ。公妃になるつもりがないのなら、俺の授業を受けても意味はない。このまま貴族で居続けるつもりもなければ、同じことだ」
「……歴史について学ぶことに、身分は関係ありません。いいことも悪いことも、事前に知っておけば、より良い未来が掴めるからです」
死に戻ったからこそ、それを実感する。シルヴィ嬢の狙いを知らなければ、乙女ゲームの悪役令嬢オリアーヌ・カスタニエと同じように断罪されて、毒殺される最期を迎えてしまうだろう。
けれど今の私は違う。エミリアン王子に未練などないから、断罪される前に婚約破棄を進言できる。うまくいけば、婚約解消できる可能性だってあるだろう。もの凄い希望的観測の話だけど……。
「ほぉ。ならば、お前さんの力になるような情報を教えてやろう。過去にはお前さんのような公妃がいたからな。何か学ぶことがあるだろう」
「私のような?」
「そうだ。公王が愛人を作り、見限った公妃が取った行動とかな」
「できれば、結婚する前の情報がほしいです。たとえば婚約解消をする方法など」
「……手っ取り早い方法としては、向こうも恋人を作っているわけだから、お前さんも作ればいい。だが、向こうよりも叩かれるリスクはあるがな」
どこの世界も、男の浮気よりも女の浮気の方が、強く非難される。この乙女ゲームの舞台が、古い時代だから、というのもあるのだろう。
こういう場合はだいたい、世間体を気にして、表舞台からは一線を画すことが多い。乙女ゲームの場合でも、領地か隣国に追放されるか、もしくは修道院に……っ!
「ミュンヒ先生。その場合、どれくらいの確率で、修道院送りにされるでしょうか?」
どうせ傷物になるのなら、追放ルートを模索しよう。さらに贅沢をいわせてもらうなら、なじみ深い修道院がいい。
なんでそのことに気がつかなかったのかしら。