窓の外に夕暮れの帳が降りてきたころ、東の空のへりにあの星が顔を出した。南の天空に輝く半月を追うように、赤く歪な光を放って。
ゴースター、
でもあたしは知っている。
あの星が、あたしたちのとは別の世界線の地球のなれの果てだってことを。
お爺ちゃんの弟が独りで住んでた古い屋敷で突然死んだのは、お父さんがまだ大学のポスドクをしてた頃。今から三十五年前ね。
ひいお爺ちゃんが亡くなったとき、第一位相続人として家屋敷をまるっと手に入れたお爺ちゃんの弟。そのときにはお爺ちゃんもすでに亡くなってたからね。で、そのお爺ちゃんの弟。めんどくさいから、もう「トラ爺」でいいよね。
トラ爺は湯水のようにお金を使って、あちこちの町工場や製造メーカーやPCショップにワケのわかんない超メンドーな部品を作らせてなにかの電子機器を組んでたんだって。
トラ爺、若い頃は天才って言われてたそうなんだけど、とにかく偏屈だったから学会からは除名され、当然お嫁さんなんかも来るはずない。まともに屋敷に入れてもらえたのも、トラ爺の影響で同じ畑の研究をしてた若い頃のお父さんだけ。そんな世捨て人だったんで、発見もずいぶん遅れたみたい。年始の挨拶に伺ったお父さんが不安を感じて中に入ってみたら、変なスーツを着たまま頭を破裂させてたトラ爺のミイラが見つかったって云うの。
有価財産はほとんど底をついてたから土地と屋敷を売り払って親族で分け合うことになったんだけど、取り壊す前の一か月、お父さんが寝泊まりしていろいろ探ったんだって。
調べてみたら、飼ってた犬や馬房の馬も同じように死んでたそうで、それ以外に、庭にも死んだ野鳥や虫が落ちてたって。みんなミイラみたいになって目玉を飛び出させて。お父さんの調べによると、生き物が死んでたのは半径約十
円、というよりも球体の内側が突然環境を変え、数瞬後に元に戻った、みたいな感じ。そしてその球体空間の中心にあったのが、ソフトボール大の正体不明の
球と書類とPCとサーバといくつかの鳥と虫の死骸を自宅に持ち帰ったお父さんは、そこからずっと研究してた。
最初に挙げた仮説は「球内真空化説」。でもそれでは説明のつかないことがいくつもあった。虫の一部は数秒真空になったくらいでは死なない。死骸の体細胞には冷凍壊死も見つかった。瞬間真空&瞬間超低温。さらには宇宙線の通過痕さえあったって言ってた。
トラ爺のサーバを漁って発掘したメモに何度も出てきた単語「空間転移」「空間交換」を見つけたとき、お父さんは確信したんだって。あの球の機能で、屋敷を含む半径十
研究調査の助手をやってたお母さんは、もちろんまだお母さんじゃないけど、お父さんの仮説を支持しながらも一部懐疑的だったの。あの屋敷には空間転移を行うための莫大なエネルギーの
自らも宇宙物理学の研究員だったお母さんは、その論文の意味を理解した。余剰次元を介することで別世界線とコンタクトできること。さらに余剰次元はエネルギーの供給にも利用できることを。三次元世界では認識不可能だけど一次元空間ではありふれた量子物理現象、
そこでお母さんは気づいたの。トラ爺のこの事件によく似たもののことを。そう。あのゴースターのことをね。どういう事情かはわからない。でもゴースターは地球によく似ている。組成も同じ、
トラ爺は、何らかの事故で並行世界の地球のくりぬいた内部をこの世界線に持ち込んでしまった。向こうの世界の地表にへばりついていた地球人たちがどうなったのかを確認するために、トラ爺は自分の目で見に行こうとした。死に際に着ていた潜水服のような変なスーツは、そこが宇宙空間である可能性を予期していてのものなのだろう。ただ、その耐久性は完全真空、絶対零度の環境には歯が立たなかった。
お母さんはその頃の仲間内で話題になってた噂話を思い出したの。
「ゴースターの公転速度は地球よりも少し速い。現に彼我の距離は年二十
トラ爺の技術の再生は、将来確実に来る危機に対処できる力がある。
就職でトラ爺の研究の追跡を中断しようとしていたお父さんをお母さんは押しとどめたの。研究継続と、その対策としての実家が太い自分との結婚とを持ち掛けて。っていうラブロマンスは置いといて、提案を受け入れたお父さんのトラ爺研究はずっと続いたわ。途中からはあたしも加わって。
並行宇宙の理論と証明。余剰次元から得る無尽蔵のエネルギーの再発見と世界線転移への利用。そして、低温超伝導によって致命的に破損していた球形機器の再生。それらを全てクリアしたのが、つい先週のことなのよ。
あたしは大きく息をついた。
「いいわけはそれでお終いかな?」
数人の黒スーツを従えた男が、あたしの目の前でそう言った。ソフトも白、スーツも白、シャツもネクタイも白、もちろん靴も真っ白の小男は、言葉を続けた。
「ずいぶんと長い与太話、面白かったよ。きみは研究者に進むより小説家か漫談師になった方がいい。ま、チャンスがあれば、だけどね」
先の尖った革靴で転送ボールを小突きながら、小太りの小男は話を続けた。長い聞き役によほどストレスが溜まっていたのだろう。
「きみは明日からうちの系列店に沈んでもらう。今夜はそこのマネージャーやスタッフたちにじっくりテクを指導されることになるよ。きみのお父さんとお母さんも、もうお迎えさせてもらった。外の車の中できみが来るのを待っているところだ。ま、彼らにはきみのような稼ぎは期待できないから、お持ちの健康そうなものをいくつか切り売りしてもらうことになるだろう」
あたしは目測する。白はいいとして、黒の位置はあたしより一歩分外。このままでは使えない。視線を動かさずに周囲の状況を思い出す。右後方三歩の机の上に携帯端末があるはず。あたしは後ろに組んだ手を動かさないよう気を付けながら、指で腕時計に触れる。
「さて、ではそろそろこちらに……」
小男がそう口にしたところで、机の上の携帯端末が鳴りだした。全員の動きが止まり、視線が集中する。あたしだけがゆっくりと机に向かった。
「彼からのメール。お願い。お別れの返信を打たせて」
涙目のあたしに小男は頷いた。全てを首尾よく手に入れて満足げな男の顔。あたしは携帯端末のディスプレイに指を滑らせ、メッセンジャーアプリを開く。宛先を選択し、タイトルに「START」と打ち込んでから、本文にカーソルを移した。
R=3MM; X=(0,0,0); R-TIME=10s
「これでさよならね」
そう言ってから顔を上げたあたしは、小男を見返しながら送信ボタンをタップした。上と下に誰もいなければいいんだけど。
目の前の部屋の調度が男たちごと消失し、上の部屋と下の部屋が繋がった。空気もろとも引っ張られたが、机の端を掴んであたしは耐えた。足の一部が無くなった椅子が一脚、上の階から落ちていった。
長い十秒を経て、無くなっていた部屋は元の位置に収まった。目と舌を飛び出させ、髪に霜を浮かせたまま絶命している男たちとともに。
あたしは吐きそうになったけど、こうしてはいられない。黒服のひとりが持っていた自動拳銃を手に入れた。外の車に捕らえられているお父さんとお母さんを助けなきゃ。
運転手なんて殺しちゃえばいい。どうせ死体も車もあっちに飛ばしちゃう。中心点Xの指定が
そうして後始末が全部済んだら、向こうの地球を元の向こうの軌道に戻してやるのだ。