秋の陽が斜めに差し込む午後の田園風景は、黄金色に輝いていた。農家の庭先に干された稲束が風に揺れ、どこからか漂う焚き火の匂いが、のどかな田舎の空気を彩っている。都会での日常に疲れ果てた有美は、この景色に少しだけ心が軽くなるのを感じていた。
「もうすぐかな?」
隣に座る渉がそう呟きながら、スマートフォンに表示された地図を眺めている。彼の声は穏やかだが、その裏に潜む期待と好奇心を隠しきれていない。
「多分ね。あの森が噂の『迷いの森』なんでしょ?」
有美は窓の外に目を向けながら答えた。その声にはほんの少しの不安が混じっていた。聞こえるのは、遠くで響く鳥のさえずりと、バスのエンジン音だけ。車窓の向こうに目を凝らすと、山裾に濃い緑が集まったような森がちらりと見える。
「噂って言っても大げさな話だよ。森の中で道に迷うなんて、ちゃんと道が分かればあり得ないさ。それに、今日みたいに天気のいい日にそんな怖いことは起きないって」
渉の言葉に有美は小さく頷いた。彼の楽観的な性格は、昔から少し無理をしてでも笑顔を作ることで人を安心させるところがあった。今日はその笑顔が、いつもよりほんの少しだけ力強く見えた。
バスが停留所に滑り込むと、二人は降車し、静かな田舎道に立った。風は穏やかで、周囲には古びた農家の家屋と、ところどころに畑が広がっているだけだった。どこを見ても人影はなく、遠くに見える山の稜線がただ美しい曲線を描いている。
「さっき地図で見た感じだと、この道をまっすぐ行った先に森があるみたいだよ」
渉がリュックを背負い直しながら言った。有美も頷き、彼の後を追った。道は徐々に狭まり、舗装が途切れると、やがて土と砂利の山道へと変わった。左右には背の高いススキが揺れ、木々が次第に視界を覆い始める。
「ここが入り口かな」
森の手前に、一枚の木製の看板が立てられていた。文字はかすれて読みづらかったが、辛うじてこう書かれているのが分かった。
「迷いの森」
「立ち入る者、覚悟を持て」
「わざわざこんな物騒なことを書かなくてもいいのにね」
渉は苦笑いしながら、看板を軽く指で叩いた。その振る舞いには軽薄な印象があったが、有美にはどこか不安を隠そうとしているようにも見えた。
「行くの?」
「せっかくここまで来たんだし、ちょっとくらい覗いてみよう。迷うほど広くはないはずだし、天気もいいから心配ないさ」
有美は少しだけ逡巡したが、渉の言葉に押されるように頷いた。彼についていけば、きっと大丈夫――そう思いたかった。
森の中に足を踏み入れると、外の明るさが嘘のように陰り、空気がひんやりと冷たく感じられた。木々は互いに密集して日差しを遮り、薄暗い空間が広がる。足元には枯れ葉が一面に敷き詰められており、歩くたびに乾いた音を立てる。風の音すら聞こえない静けさが、妙に不気味だった。
「なんだか雰囲気があるな。昼間でもこうなら、夜は確かに怖いかも」
渉はそう言いながら、木々の間を見回した。どこか楽しそうな口ぶりだが、有美は不安げに周囲を見渡していた。彼女の視線の先に、何か小さな金属が光を反射しているのが見えた。
「何か落ちてる…」
有美が指さすと、渉がその場所に歩み寄り、かがみ込んでそれを拾い上げた。
「指輪だ。どうしてこんなものがこんな場所に?」
彼が手にしたのは、古びた銀色の指輪だった。小さな模様が細かく彫られており、それが僅かに光を帯びている。重みのあるそれは、どこか異国の雰囲気を漂わせていた。
「触らないほうがいいんじゃない?」
有美は少し怯えたように言った。だが渉は笑いながら、指輪を手のひらで転がして眺めていた。
「ただの古いアクセサリーだよ。森に来た人が落としていったんだろ。大したものじゃないさ」
彼はポケットにそれを入れると、立ち上がって歩き出した。しかしその瞬間、有美は背後に何か気配を感じた。振り返るが、そこにはただ黒々とした森が広がっているだけだった。
「今、誰かいなかった…?」
「誰もいないさ。森は静かだし、俺たち以外に人の気配はないよ」
渉はそう言って笑ったが、有美の胸には妙な違和感が残り続けていた。
二人が森をさらに奥へ進むと、足元に広がる落ち葉が徐々に湿ってきた。空気は冷たく湿り気を帯び、どこか粘つくような感触すらある。突然、有美の耳にかすかな音楽が聞こえ始めた。それは弦楽器のような響きで、どこからともなく漂ってくる。
「聞こえる…?」
「何が?」
渉は立ち止まり、有美の顔を覗き込んだ。しかし彼には何も聞こえていないようだった。音楽は次第に大きくなり、有美の心臓の鼓動に合わせるかのように鼓膜を打ち始める。
「なんでもない…気のせいだよね」
有美は自分にそう言い聞かせながら、再び歩き始めた。だが、その音楽は彼女をどこかへ誘うように耳元で囁き続けていた。
突然、有美は足元に何かが引っかかるのを感じた。その場にしゃがみ込むと、湿った苔に覆われた古い石のタイルが顔を覗かせているのが見えた。
「これ、何だろう…」
渉が近づき、そのタイルを指で軽く擦ると、そこには奇妙な文様が浮かび上がった。指輪の模様と似た幾何学的な模様が、それに刻まれている。
「ただの偶然だろうか…?」
渉の声は微かに震えていた。その瞬間、風が吹き抜け、森全体がまるで生きているかのように揺れた。
「有美、ここから出よう」
渉が焦った声で言うが、有美の足は動かなかった。耳元で囁く音楽が、彼女をどこかへ引き寄せようとしているのを感じたのだ。
彼女が再び顔を上げた時、目の前には道化師が立っていた。
真っ白な仮面と赤い衣装が森の闇に浮かび上がり、静かに微笑んでいる。その姿は現実離れしており、有美は息を呑んだ。
「指輪を拾ったのは、偶然ではない」
道化師の低い声が森に響き、有美の心を射抜いた。