香澄と梅乃が消えてから、日々野高校では女子生徒の不審死と行方不明事件の発生に、生徒は動揺を隠せずにいた。
梅乃に関しては見つかってはいないものの、もう始業式から一週間が経過する。やはり安全な場所にいるとは考えにくいだろう。
休み時間、蛍は廊下の窓から学校を後にするスーツ姿の二人組を見下ろしていた。一目で刑事だと蛍はその姿を眺め続ける。どちらも磨かれた革靴に神経質な髭の剃り方。
しかし無駄だ。
ルキが対処した死体の始末と防犯カメラ。もし自分に聞き込みされても、梅乃との付き合いは香澄がいてこその存在。蛍に聴取したところでプライベートで会って話す仲では無いのだから。
何も出てこないのにご苦労な事だと鼻を鳴らす。
蛍が窓から離れようとした時、一人の男子に声をかけられた。
「け〜い君」
「 ? はい……」
見慣れない生徒だ。日々野高校の男子はブレザーのネクタイ色で学年が分かる。この生徒は蛍と同じ学年だ。
しかし……マッシュルームカットがプリンカラーになった男子。
蛍には見覚えがない。
制服に傷みが無く、ネクタイも新品で折シワがない。
「……転校生 ? 」
「そうなんだよぉ〜。親がさ ? だらしなくて、二学期ピッタリ間に合わなくてさ ! 参るよ ! 」
「そう。大変だね。何組 ? 」
「三組だよ」
「ふーん。なんで俺に声掛けたの ? 」
「それそれ ! なぁなぁ、いつも図書館で美人と話してるだろ ? 前の高校にいた時から見かけてたんだ」
「 ??? 美人 ? 美人…… ? 」
結々花なのか美果なのか。恐らく口を開かなければ結々花の方が整っているだろうが……蛍と結々花はそう多く話している記憶はない。
「なんだよ。もしかして、全然気にしてない感じ ? もったいな〜 !
あのパーマが派手なお姉さんだよ ! 個性的でさぁ〜、いつも絵の具のついたポンチョ着てるの ! 」
「ああ」
美果だった。
蛍としては性格こそ結々花より常識的だとは思うが、自分と一緒にいる以上、美果は倫理観に難がある気がしてならなかった。
「美人……か。あまり気にして話してないな」
「彼女とかじゃないの ??? じゃあさぁ、紹介してくれない ? 」
「……」
紹介したところで、美果が高校生と恋人ゴッコしてる姿は想像がつかない蛍であった。事実、美果の理想はマタギのような大酒飲みの大男なのだから、蛍は美果を理解している。
そんなことより気になるのは、この男子の素性だ。
「俺の名前、なんで知ってるの ? 」
「図書館ですれ違った時、呼び合ってるの聞いた。制服だったし、顔も覚えてたし。今日下駄箱で名前発見〜 ! はは、俺ストーカーみたいだね。謝るよ。
会話の内容は聞こえてないからぁ、いいっしょ ? 」
美果とは多目的ルームを一歩出れば世間話程度しかしない。
コンテナゲームの後、連絡先の交換をしてからは更に周囲を警戒して会話している。蛍と美果の繋がりは強くなったが、その分互いにキッパリ割り切った付き合いをしていた。
蛍は美果を巻き込まない為に。
美果は蛍のサイコパシーに影響を与えないように。
図書館内でも絵の話以外をする事は無いし、最寄り駅まで一緒に帰ることも少なくなった。
「ふーん。そんな仲良いように見えた ? 」
「見えるよ !
実はトイレに行く途中にもすれ違って、その時声をかけようとしたんだけど……度胸無くてさぁ〜」
美果は多目的ルームに入ると、ポンチョやチュニックは脱いでしまう。一体この男は何度、図書館で自分たちを見かけたのか ?
不審。
これが蛍の第一印象だった。
しかし蛍としてもやましい事は無いつもりだ。ここは穏便に済ませようと考える。
「紹介か……。一応、話はしてみるけど……期待しないで。
えっと……名前……」
「俺、坂下 椿希。ツバキ〜って呼んで」
「よろしく」
「うん、よろしくぅ !
なぁ、けいくーん。今度遊ぼうぜー ! 家に行っていい ? 」
「……。俺の家、辛気臭いからちょっと。葬儀屋だし」
「別にけいくんの部屋で葬式してる訳じゃないでしょ ? いいじゃん。
なぁ、deadってゲームやってる ? ペア組んでよ」
「知ってるけどやった事ないし」
「ハードはある ? 」
「あるけど……」
「じゃあいいじゃん ! こっちの学校に出来る奴いなそうだし困ってるんだ」
丁度いい区切りで予鈴が鳴る。
「あ、俺ぇ移動教室だった ! じゃね、けいくん ! 」
「う、うん……」
細すぎる程の身体が、生徒たちの隙間を縫うように駆けていく。
蛍は引き攣った笑みを浮かべたまま椿希を見送る。
「なんだよアレ……」
□□□□□□
放課後の図書館。
話を聞いた美果はトートバッグを抱えたまま固まってしまった。
「え ? じゃあ、わたし……その子に紹介されるの ? 」
困惑した顔色で蛍と向き合う。
多目的ルームの鍵を借りる為に、学生証を出した蛍が首を横に振る。
「いや。そんな事があったってだけ。そいつの距離感がおかしいから、ちょっと関わりたくない。『変な繋がり』かなって警戒したんだ」
「ああ……成程」
ルキからの監視なら蛍に付き纏いもありうることだ。しかしそれは結々花の仕事なはずである。トラブルもなく大人しい蛍の学校生活において、ルキが知りたいことなど何も無いはずなのだ。
「うーん。転校生がピンポイントでケイくんに話しかける……かぁ。不思議よね」
「ほんとに鬱陶しい……」
考え込む二人の背後。
「あ、あれ。山本 美果じゃん ! 」
自動ドアをくぐって入館した男女数人のグループが声を上げた。
「ほんとだ ! そばの弟 ? 」
「さぁ ? 」
「うわ、普通にしてるし。まじか神経図太〜 ! 」
声をかけてくる訳でもない。無遠慮に美果の背後で騒ぎ出している。
「行きましょ」
美果は振り向きもせず、蛍を連れ多目的ルームへ入った。
「はぁ……全く」
「なにあれ。大学の人 ? 」
「ん……。そう」
苦い顔で頷く。
「わたしさ、なぜか大学の防犯カメラに拉致されるところ……映像に残っててさ……」
「学校ゲームの時 ? 」
「そう。多分、最初はルキもわたしが生き残るとは思ってなかったのかなって」
「そうかな…… ? 証拠を残すって事が、絶対有り得ないよ。ルキ側の落ち度だ」
「……だよねぇ。あの防犯カメラ、かなり際どい所にあったから見逃したのね。
学校で拉致されてから、かなり時間が経ってたみたい。……起きたらケイくんが来てたって感じ。
その間、噂話に尾ヒレがつきまくっちゃって。あんな風に騒がれてんの」
「今は映像は無いんだよね ? 」
「うん。見つかったとも報道無いし、行方不明になったのは無かったようになってる。
でも最初に映像見た連中が録画してたりで……止めらんないわ」
「大学……行けてるの ? 」
「平気。元から他人と群れるの苦手だし。好きなだけ言えばって所に落ち着いたわ」
「ならいいけど……一日あんなの言われてるの我慢ならないね」
「まぁね。さてと ! 」
美果が椅子を整えると、蛍に向かいソワソワと微笑む。
「……今回はあんまり描けてない」
蛍がバッグからスケッチブックを取り出すと美果は飛び付くように受け取った。
そして数分。美果は味わうように、その絵を見入る。
「入院してたしね。
でも……これを見る限り、枚数の問題じゃないんじゃないと思う。慣れてきて、一つの絵にかける時間が増えたんじゃないの ? 」
「あ……確かにそうかも……。なんかどこまで書いたら完成なのか分かんなくなってくるんだ」
「あはは ! あるあるだね ! 」
相変わらず不謹慎で奇抜で……刺激的な構図。
「ケイくん。周りの花は見て描いてるの ? 」
「いや。俺が描く時は、まだ花がないんだ。だから記憶とか想像で描いてる。
やっぱり分かるの ? 」
「そうだね。花が主役じゃないけど、正確に描けてたら、もっといいだろうなって思うわ。
えっとね全部描くんじゃなくて……こういう風に……ここに被写体があった場合、こうして……こう、こう……。こんな感じ。
見切れてもいいから……精密に表現して、なんの花か分かれば、全体を描き込む必要は無いから」
「花が額縁みたいになったね」
「そうそう。でも描けばいいって訳でもないよ。花を描いて、苦手な場所を描かずに隠したりしたら意味ないから」
「美果って気を使いすぎ。『ここにこれ、描いてこい』で、いいのに」
「あはは。んー。絵は強制されると、いいことないからね。画家になりたいなら別だけど」
「そりゃ……画家は目指してはいないけど。美果の芸術精神みたいなのはかっこいいって思うよ」
「ふふー。ケイくんもお世辞言えるんだね。悪い気しないなぁ〜。そうだ。ちょっと待ってて」
美果が図書館から花の図鑑をレンタルしてきた。
「お葬式の花もいいけど、敢えて好きな花を描いても面白いかもね」
「花とか、正直……詳しくない。業者に社員さんが注文して、与えられた物を並べるだけだよ。
……図鑑分厚い……。えーと……。
……実物大じゃないし、よくわかんないな」
「興味があったら動画検索してみたら ? 今の時代、花くらい出てくるでしょ。映像なら対比差も分かるだろうし。
ケイくん好きな花とか思い出の花ってない ? 」
「特に無いな。
あ、これ。前に香澄の親に持たせられたやつだ。ピンポンマムっての。菊なのか……」
「見たことある。丸くて可愛いわね。じゃあ、それを描いてみる ? 」
「花びらが細かくて難しそう」
「何事も挑戦。はい、練習帳」
数十分。
図鑑や画像を見ながらピンポンマムを描き続ける。
美果も手本を描き、蛍の様子を伺う。
美果は山王寺 梅乃が行方不明になった事を地元新聞の小さな記事で知った。
そして容易く想像が付いてしまった。
ルキが梅乃を始末したのかとも考えたが、蛍の様子を見ていると殺ったのは蛍だと確信する。
以前より伸びやかな線の勢い。濃淡のはっきりした力強いコントラスト。そして繊細な毛髪の描写。今までには無い伸びやかさが絵に出ていた。
ただし、今日のスケッチは様子が違った。
まるで初めて鉛筆を握る幼児のように手元が落ち着かない蛍。何度も握り直し、大きさの揃わない花弁を描き、何度も消しゴムをかける。
「ケイくん。自分のストレスが絵に出るね」
「え…… ? そんな事までわかるの ? 気味が悪いんだけど」
「気味が悪いって……もう。『悩みがあるんじゃないの ? 』って言っただけよ。その転校生の事 ? 」
「……気には……なってる。
だってさ。おかしすぎるじゃん。俺、元々ゲームにのめり込むタイプじゃないし、香澄と梅乃以外とは、プライベートの会話する奴いなかったし」
「確かにね。ルキからの監視者は結々花さんでしょ ? 友達関係もそんなに希薄なら、学校まで監視するとは思えないよね……」
「だから腑に落ちないって事」
「……ケイくんの私生活にも興味があって気が変わったとか ?
ルキって、外見だけはイケメンの部類よね。ケイくん、ああいう感じ好き ? 」
「……それ、どういう意味 ? 」
流石に蛍の逆鱗に触れる話題だった。
だが美果も遠慮は無い。ルキの様子からして、蛍に対する好感度が高いのを知っているからだ。
「そのままよ。だってルキは絶対ケイくんを特別視してるしさ。案外、学校も監視したくなっちゃったとか ? 」
「絶対、無いから。どう考えればそうなるわけ ?
俺が目の前で絡まれてんの見たでしょ ? 」
「確かに酷いとは思うけど……あいつただの不器用なんじゃないの ? 恋愛だけ頓珍漢とか」
「美果こそどうなの ? ルキなんかに簡単に身体預けてさ。それも俺の所に来て、あんな……なんだったのさ」
「……まぁ。あの時は目的があったからね。喜んで寝たわけじゃないわよ。それが最短で確実な方法だっただけ」
「助けて貰ったのは感謝してるけど、そんな条件なら断れよ」
「ふふ。セックスくらいなんでもないわ。それに、あいつはわたしで憂さ晴らしして遊んだだけ。子供ができるような行為まではしてないし」
「聞いてないよ、そんなことまで ! 」
「ケイくんだってあのコンテナの時、ルキとするのは初めてじゃ無かったんでしょ ?
一体どうなってるの ? 個人的に会ってたり…… ? 」
「違う ! あいつが勝手に部屋に来たんだよ ! 家に帰ったら上がり込んでた ! 」
「それで、なんで襲われるようなことになるのよ」
「俺だって遊ばれただけ。ソレを見て笑って揶揄う様な奴だ !
おまけにあいつは全身武器だらけで何されるか分かんない !!
中途半端で終われないくらい手慣れてた !! 気持ち悪いけど、気持ちよくて止まらなかった !!
これで満足っ !!? 」
「……ご、ごめんね」
明らかに苛立った蛍。
これは美果の発言のせいか ?
否、なにか別のストレスだと美果は感じた。
「そうだね。過ぎたことだし。わたし、言いすぎたね。
……ケイくん、今日は帰ろうか」
「……違うんだ。ごめん。
……美果……。自分が死ぬかもしれないのに、そこまでして俺を助けた理由は何 ? 」
美果は一度、唇をキュッと結んで、小さく息を吸うとありのままに答える。
「ケイくんがそのスケッチブックを見せてくれたからよ。
絵を教えるっていう契約の話じゃなくて……。わたしはその絵のファン第一号なの。
ケイくんが許すなら、これからもファンはわたしだけであって欲しい。
誰にも見せたくないし、見せて欲しくもない」
「これは……ただの、俺の弱みの塊だ」
「でも見せてくれたじゃない。だからわたしも本気で答えてるの。
ケイくんの私生活を掻き乱したりしないわ。その絵を、まだまだ見たいもの」
「…………」
「わたし…………弱みを掴んだなんて思ってないよ」
蛍は鉛筆をケースに置くと、髪をクシャクシャと梳きながら俯いた。
「……ごめん。美果。
……今日の転校生……。なんか嫌なんだ……。俺、次はあいつを殺りたい……」
「……。そう……」
蛍の犯行予告も受け流す。もう蛍は止まらないと美果は感じていた。
しかし次の瞬間、蛍はパッと顔を上げて美果を見つめた。
「あ ! ……そういえばさ……」
蛍は美果の身体をジッと見る。
美果のお気に入りのサマーポンチョは、今はハンガーにかかっている。いつも美果は黒のシャツ一枚で作業する。
「え !? な、何 !? 」
その視線に慌てて胸部を腕で隠す美果だが、蛍はそれを笑い飛ばす。
「美果……。くく……そんな、無いものを隠したところで……」
「な !! 無くはないわよ ! 寧ろ、程良くあるわよ !! ケイくん見たでしょーが !! 」
「無ぃ……ってか、見てない ! 俺あの時はちゃんと目、逸らしてたじゃん ! 」
「見てた ! 全身 ! その……開いた時も ! 」
「あれはルキが……違う ! その話終わったじゃん。あ〜 !! 忘れるってさっき、言ったばかりなのに ! 」
「〜〜〜っ ! だって !! そんなジーッと見るからさぁ ! 」
「そうじゃないんだよ。
えーっと……今日の転校生が美果を紹介してって言った時『ポンチョに絵の具がついてる人』って言ったんだ」
「へぇ……そうなの…… ? 」
美果と蛍はハンガーにかかったポンチョを見る。麻で編まれた一点物。
「美果のポンチョっていつも柄物じゃん。訳わかんないウネウネ模様の」
「今日はゲリ柄。わたし、民族衣装柄の服を集めてて……」
「いや、エスニックファッションが好きなのは分かるけどさ。
あいつ、あんな柄の主張が激しい生地に付いた絵の具なんて、どうして気付いたのかなって思ったんだ」
聞いた瞬間、美果の腕が鳥肌立つ。
「え……っと。それだけ近くで、わたしは観察されてたって事 ? 」
「美果、ほんと鈍い。いつも絵を描く時は上着は脱いでるじゃん。絵の具、本当に付いてるの ? 」
「ああ……そういうこと ? ……いえ。付いて……無いはずだわ。アウターだけは結構いい値段するもの集めてるから。勿体無いし、絶対脱いで描くようにしてる」
「でしょ ? あいつ、俺たちの事嗅ぎ回ってるけど、結々花とかみたいに経験とか専門知識は無いんじゃないかな」
「なるほどね。
そもそも、わたし最近制作はしてなくて。歴史とか民族芸術に浮気してるの。……絵の具は触ってないのよね。ケイくんに教えてるのは鉛筆画だし。
……確かに……おかしいかも」
「ルキよりMって奴の方がやばいって結々花も言ってたから……そっちかな ? 」
「結々花さん以下の調査能力でしょ ? 流石にルキ側の人材じゃないんじゃない ?
その転校生って日本人なの ? 」
「見た感じはそう。訛りのない標準語で、身体はガリガリ。目がギョロってしててプリン色のキノコ頭」
「個性的な人って割と覚えてる方だけど……ここで見かけた記憶無いな……」
「とにかく注意した方がいいよ。相手は美果を紹介しろって言ってきたんだから」
「……そうね。そうする」
□□□□□□□
帰宅後、蛍は家業に駆り出された。
「よし。急いでアイス交換」
作業室にご遺体を運び込んだ重明が蛍に告げた。
「終わったらすぐ、ご遺族のいる安置室に帰す。親族の方も次々到着されているから手早くな。終わったら今日告別式のホールに社員さんいるから呼んで、必ずチェックをして貰う ! いいか ? 一人で済ますなよ ? 」
「分かった」
台車に乗せられた、ドライアイス入りの布袋。ご遺体が傷まないように各所を冷やし続けるのだ。特に夏は交換作業が入る。
その作業の際、涼川葬儀屋では遺族の目に触れることのないように作業部屋で手早く済ませる。
涼川葬儀屋の遺体安置室は小さな平屋が三つ並び、小綺麗でレンタルも安い。その為自宅で通夜、告別式を行わず、病院から直接運び込まれる事が多いのだ。通夜に参列する方々も『○○の間』と命名された安置所に次々と訪れる。
そんな隙間を縫って行う作業。
搬送台車に乗ったご遺体。
三十三歳 男性で、力強い太眉。厚めの唇がなんとも人の良さそうな印象だ。
納棺前だ。湯灌後に着せられた浴衣の姿だった。
蛍は踏み台からズボンだけ脱ぎ捨て床に落とす。そして静かに台車に上がると、男に跨った。
「はぁ……っ」
故人の身体が蛍の膨らみを冷やす。
時刻は19:00。
まだまだ夕焼け雲の広がる時間だが、小さな灯りしかない作業室は薄暗く湿っぽい。静まり返った部屋の中、蛍から漏れる吐息が響き続ける。
手のひらの自分を包み込み、男の体に覆い被ったまま快楽の赴くままに指を這わせる。
「……ん……っ」
どうしてもルキの指の感覚が忘れられない。嫌悪感より先に感じる、言い知れない程の淫らな記憶。全身が覚えてしまった苦痛。
「はぁ……っ……」
蛍自身が嬲ったところで、あの感覚には勝らない。
美果の言葉が脳裏をよぎる。
確かにルキは好意と狂気の揺れ動く狭間で、自分で遊んでいた。
だからこそ蛍は本気で抵抗しなかった。そんな事は分かっていた。
ルキの指先は一撃で意識が飛ぶようなポイントを正確に狙い撃ちしてくる。快楽堕ちしたのは不本意ながら事実だ。
──ルキのピアスが肌に当たる感覚。さらりとかかる柔らかい金髪も、自分の反応を伺うシルバーグレイの瞳。中をなぞる長い指。
全てが一度に自分を襲う肉欲の地獄。
今、ここにいればいいとさえ思ってしまう……そんな自分の弱さと、それでもいきり立つ膨張。仕方なく自分で後ろ側を虐め抜く。
「〜〜〜っ」
つい夢中になり、果てると同時に手が滑り遺体に倒れ込む。
あの感覚はやはり超えられなかった。
物足りなさを噛み締めながら、息を整える。
「はぁっ……はぁ……っ……」
イカれた男に襲われ、挙句それが忘れられないとは情けない。そう蛍は頭を抱えた。
息が整うと、途端に冷静さを取り戻す。
「はぁ〜」
下着の中のナメクジを不快に思いながら大きな溜め息をついてしまった。
男から剥がれると、まだ気怠い身体で浴衣を整え直す。
本来ならここから下腹部を晒し、木型を押し付けて電熱ペンで陰毛の中にシンボルを焼いていく。だが今回は、蛍のコレクションに加わる故人のタイプではなかった。
季節は残暑厳しい夏。
エアコンがあるとは言え、ドライアイスの交換は肝心だ。
蛍はそのまま作業に移る。脇や首など、要所要所に布に巻かれたドライアイスを入れていく。浴衣もピっと正し終了、という時だった。
突然ドアをノックされる。
「はい。作業中です」
遺族や葬儀に飽きた子供達が入り込まないよう、作業中は施錠している。焦る必要は無いが、社員なら蛍に声をかけるはずだ。
「 ? 」
蛍はご遺体の乱れが無いことを確認すると、ゆっくりドアを開けた。
「はい……え…… ? 」
「けーいくん」
「……なっ……はぁ ? 」
坂下 椿希が立っていた。
心臓が跳ねる。
しかし蛍も素人では無い。何食わぬ顔で椿希を見上げる。
椿希も引く気は無いようだ。ドアに足を入れ、蛍の拒否を許さない。
「今日遊びに来たの ? ここ、関係者以外立ち入り禁止なんだ」
「知ってるよ ? 」
そう言うと、椿希はズカズカ入り込み遺体をジロジロと見回した。
「おい ! 」
「おー。死んでる死んでる ! 」
「やめろよ ! もうご遺族に返さないといけないんだ」
「ん〜。けいくん。なぁ〜んか、隠してないかなぁ〜って思って来たんだ」
「はぁ ? 」
全く噛み合わない会話。
隠し事とは ? 蛍は最悪の事態を覚悟する。
「ここは遺族の前で出来ない作業を職員がする部屋なんだ。皆さんのいる前で布団を捲ってあれこれしないように」
「知ってるよ。けいくん一人で作業出来んの ? 」
「流石にそれは無いよ。今日は立て込んでて……俺がやらされてるだけ。この後、ちゃんと社員さん呼んで二重にチェックするんだ」
「そっか。俺らまだ高校生だしねぇ、そこまで任されないか」
「当然だよ。
で、何 ? 忙しいんだけど」
襖を開けたり、物置スペースを覗いたり。椿希の様子は蛍の案じた事とは関係の無い行動をしていた。
「何してるんだ ? 」
「ん〜。探してるんだよぉ」
「だから……何をだよ」
椿希は大きな目をにゅるりを歪ませ答えた。
「梅乃様の死体〜」
「はぁ ? 」
──ああ。こいつ梅乃のところの奴か……。
女子高生マフィアのボスの部下。
国際的犯罪組織を追う結々花に比べたら、当然コンタクトも雑である。
梅乃の死体はルキの部下が始末した。ルキの命令と手慣れた部下たち。問題は無いはずだ。
梅乃の中身は既に、ほぼ蛍の胃の中に収まった。調理も自宅のキッチンを使用していない。ルミノールや他の抗体検査をされても証拠は出ないという蛍の自信。
「梅乃さんのこと ? なにか知ってるのか ? 始業式の日、俺……帰りに話したんだけど、その時は何も……」
「はは !! それ、信じないよぉ」
梅乃との関係性の説明を、椿希は聞こうともしなかった。
「けいくんは知らないかもだけどぉ。俺はけいくんが梅乃様の裏の顔を知ってて、梅乃様に刺された事も知ってるんだー。あと、金持ちの糞ゲームの事も知ってるよ」
「……俺になにか用 ? 」
「梅乃様はお前が殺ったんだろって聞いてんの。じゃなきゃどこにいるんだよー。まさか監禁してヤラシー事してたりするぅ ? 」
「梅乃『様』って言う割りに、無礼な口振りなんだな」
「まぁ〜ねぇ〜。死んだら死んだでオールオッケーなんだ。
山王寺の行き場のねぇ奴ら、纏めて俺が面倒見ることんなったからさ〜。梅乃様が後からひょっこり出てこられちゃ困るもん」
「お前みたいな反社、滅べばいい」
「俺はただのヤンチャな高校生〜。梅乃様程のカリスマ性は無いしなー」
そう言い、鞄からスタンガンを取り出した。
「ここじゃなんだから、別の場所で話そうよ。けいくん」
「相手にする気は無い。
確かにおかしなゲームで梅乃と一緒になった。けれど俺が梅乃に刺されたんだ。その後の梅乃なんか知るもんか。
だいたい、まだ傷も治ったばかりで体育も休んでる。喧嘩がしたいなら町でヤクザにでも絡んでこいよ」
「梅乃様は小柄だったから。まぁ〜、けいくんも小柄だけども。隠すのは楽なんじゃないかなぁ〜って。
ん〜。俺としては、梅乃様もけいくんも、あの絵描きの子も、いない方がありがたいわけよ」
坂下 椿希。この男は成り上がりだが、梅乃の内情をよく理解していないのだろう。特にルキとのビジネスまではどこまで知っているのか疑問だ。あのルキに死体の処理を任せて、今更ソレが出てくるわけが無いのだ。
椿希はルキを甘く見ている。
「何故 ? 俺と絵描きは、もう山王寺には用が無いけど ? 」
「そういうのも含めて。俺たちを知ってるってだけで面倒だからさ。
死んでくれ……よっと !! 」
突き出された手の先端が光る。
パパパパパパッ !!
「くっ ! 」
何とか避けきった。
市販のスタンガン。
死ぬほどの威力は無いはずだ。動きを封じて拷問するにも、この場所ではすぐに人が来る。
なにか一撃必殺の手を持ち合わせているか、拉致をする程の人数を外に揃えているのか。
「逃げないでよ〜。すばしっこいなぁ、やっぱり梅乃様は強かったなぁ。三箇所刺されたんだっけ ? 痛そう〜」
そう言うと、椿希はスマホを片手にどこかへコールして切った。
「死ぬのは嫌 ? 」
「当たり前だ」
「じゃあさ、社会的に殺すね ? 」
椿希の言葉が何を指すものか、蛍にはすぐにピンと来た。
「ふざけんな」
直後、足音が近付いてきた。
廊下のタイルとカツカツと鳴る革靴の音。
「失礼します ! 」
「こんばんは〜 ! 西湊駅前交番です」
体格のいい巡査二人。
その一人がすぐにご遺体に向かう。
椿希は初めから警察を呼び、時間稼ぎをしていたのだった。
「お巡りさん ! こいつ ! 遺体でなにかしてたんだ ! 俺、見たんだ !」
椿希は興奮し顔を真っ赤に染めながら吠える。
その得意気な演技を見て、蛍は無性に腹が立つのだった。
──こいつも…… ! 消してやる !!