広大な海は非常に穏やかった。
さんさんとした陽光の中を進む一隻の船に、京次郎の表情はひどく険しい。
ありえない速度で海の上を進んでいる――“もぉたぁぼぉと”、という名前らしい。
帆もなければ船員らしき者もいない。およそ船乗りには見えないエレナが、見事に操縦していた。
そうして無人島から離れ、久しく帰ってきた本土にて京次郎は再び唖然とした。
「な、なんだこれは……!?」
「なにって、ここがタカマガハラだけど」
「高天原だって!? じゃあここは、天の国なのか……?」
神々が住まう国だとすれば、なるほど。確かにそれも頷けよう。
己が知る世界がどこにもなかった。大小様々な建物が群集する町並みは、江戸の町並みよりも遥かに立派なものだった。
見上げても天辺が見えない建物は、今にも
そんな町中を忙しなく行き交う人々にも、京次郎は注目した。
明らかに人でないものが混ざっている。先程鬼と比較すると、彼らにはまだ人間らしさがあった。
驚くべきは人外と呼ぶに相応しい者たちが、ごくごく普通に生活をしている。
差別や偏見もなく、個人として尊重している彼らの様子は京次郎を大いに困惑させた。
とはいえ、人間との関係性はこうしてみる限りではとても良好であるらしい。
「まさかここが天の国とはな……ということは、俺は死んでしまったのか!?」
「あの、さっきからどうしたの? まずあなたは死んでないし、ここは神の国でもないわよ」
「神の国じゃないのか!?」
タカマガハラという大層な名前をしているのに。京次郎はすこぶる本気でそう疑問を抱いた。
「ところで、俺はいったいどこへ連れられているんだ?」
「とりあえず、悪いところじゃないから安心して」
「その言葉を信じろ、と? 今日出会ったばかりの人間に?」
「そこは信じてほしいなぁ」
エレナの顔は、以前笑顔のままだった。
屈託のない笑みは、太陽に明るくて大変優しい。
その笑みに見惚れる男もきっと少なくはないだろう。京次郎は違った。エレナの笑みに胡散臭さを憶えてしまった。
なにか裏があるような気がして仕方がない。果たしてそれがどのような裏なのかまでは、現時点ではさしもの京次郎も皆目見当もつかない。
とにもかくにも、警戒する必要はあろう。京次郎はそう自らに言い聞かせた。
「それにしても、 この妙な乗り物も落ち着かないというか……車、というんだったか?」
「そうだよ」
エレナがあっけらかんと答えた。
彼女からすれば、車という存在は日常茶飯事なものでしかない。
未知の世界に訪れたばかりの京次郎には、周囲にあるものすべてが神がかっていた。
文明のレベルが明らかに違っていた。
己が知る者の価値が、たちまち路傍の石に等しくなることばかりがずっと起きている。
絶え間なくやってくる未知に思考がまるで追いつかない。
少しばかり休みたい。久しぶりに頭がズキズキとして痛んできた。
「――、はい到着。着いたわよ」
「なんだここは……これが、建物なのか?」
心身が休まる間もなく、京次郎はある建物へと連れられた。
一面ガラス張りという外観は珍しい以外のなにものでもなかった。
西洋文化が取り入れられつつあった日ノ本だが、この手の建造物はどこにもない。
さぞ腕の良い職人が携わったに違いない。異世界とはこうも、高度な文明を有しているものなのか?
年甲斐にもなく、わくわくとしている己がいた。幼子じゃあるまいし。未知を目前にして心躍るなど餓鬼も同じではないか。
だからと言って、そこに不快感は一切なかった。タカマガハラについて色々と知りたくなってきた。
ここにはきっと、未だかつてない刺激が味わえることだろう。それこそ、先程の鬼のような者との戦いだって。
京次郎は頭痛に堪えつつも、しかしその顔に不敵な笑みをふっと浮かべた。
広々とした内観はさながら迷路のように複雑に入り組んでいる。同じような光景ばかりが続き、方向感覚が狂いそうになってきた京次郎は、すたすたと先頭を歩くエレナの後についていく。
「ここよ。入って入って」
「…………」
「あ、おかえりなさいエレナちゃん」
入ってすぐに、一人の少女が出迎えた。
年齢はエレナと同じぐらいだろう。水色というその極めて稀有な色をした髪がよく似合っている。
胸は、心なしかエレナよりもほんのわずかだけ大きかった。
女性の価値は胸の大きさだけではない。興味がまったくないわけでもないが、つまりは中身が大事だ。
「ただいまカレンちゃん」
「…………」
「あ、えっと……はじめまして! ボクの名前は黒咲・D・カレン。気軽にカレンって呼んでください」
「カレン、か。いい名前だな――俺は
「うん、知ってます。だから正直めちゃくちゃ驚いてます」
「どういうことだ?」
京次郎ははて、と小首をひねった。
カレンと初対面なのはまず、言うまでもなかった。
素性はもちろん明かしてはいない。にも関わらず、カレンは知っているとこうはっきりと口にした。
何故知っているのだろう。この世界には素性を明かさずとも知る術があるのだろうか?
だとすれば、それはとても危険だ。戦いにおいて、手の内を知られることほどおそろしいものはない。
「実はエレナちゃんから連絡を受けて、そこで調べさせてもらいました。キョウジロウさん、あなたは元々新撰組の一員だったみたいですね」
「どうしてそのことを? 俺が新撰組の……とはいっても元一員だが。それを知っているのはほんのわずかだぞ」
新撰組……京都守護職を預かる最強の剣客集団。それが新撰組である。
数多くの猛者が集う中で、京次郎も一員として身を置いていた時期があった。
しかし活動時期は極めて短いため、最初の脱落者といってもある種間違いではない。
「カレンちゃん、キョウジロウさんって有名なの?」
「……ボクもまだ信じられないんだけど。昔の文献を漁ってたら出てきたの。1000年以上も昔、キョウトってところで活躍意思てた新撰組の一員で誰よりもすごい数の敵を斬ってきたって」
「そ、そんなにすごい人だったんだ……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。1000年以上も昔だって?」
そう尋ねた京次郎の顔色はお世辞にも良好とは言い難かった。
カレンの口より紡がれた言葉は、あまりにも現実離れしすぎていた。
人は1000年も生きられない。もし、生きていたとすればそれはもはや怪物や仙人の類だ。
無人島での生活では時間の概念が大きく狂った。正確な時こそわからないものの、だが少なくとも十年も経過していない。
「じゃ、じゃあここは……1000年後の世界だってことなのか?」
「そう、なる……かもです」
京次郎は終始唖然とした。
話の規模が予想をはるかに凌駕している。並大抵の精神力ならば今頃卒倒していただろう。
最悪、そのまま死んでしまっても別段不思議な話ではない。
これも修行の賜物か。いずれにせよ、事態が大きすぎるがゆえにどうすればよいかがまるでわからない。
俺は、これから先どうしていけばいいのだろうか。京次郎はすこぶる本気でそう悩んだ。
当たり前が、この世界……もとい時代に己を知るものは何一つない。
未練については、特にない。元より流刑の身なのだ、孤独にはとっくに慣れている。
「これからどうするかだなぁ……」
「そこで提案なんですキョウジロウさん」
カレンがにっと笑った。
なにか企んでいるようだ。京次郎はジッとカレンの瞳を見返した。
一点の濁りもない、とてもよく澄んだ美しい瞳だ。なにかを企んでいるようには見えない。
とはいえ、どんな提案をされるかにもよるが……。今は話を聞くべきだろう。京次郎は傾聴した。
「提案? その提案っていうのはどんなものなんだ?」
「ボクたちといっしょに働きませんか?」
「お前たちと?」
京次郎はいぶかし気にカレンを見やった。
「実はボクたち、アイドルとして活動してまして……だけどその、人員不足もあってなかなか手が足りない状態なんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。いきなり南蛮語を使われてもよくわからんぞ。もっとわかりやすいように説明してくれ」
この世界での当たり前が、京次郎には当たり前ではない。
適応するには相当な時間がかかりそうだ。山のようにある膨大な知識を目前に、京次郎はひくりと頬の筋肉を釣りあげた。