目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第15話 決意

「おはよ……」


 欠伸をしながらリビングに入ってくる息子を見て、葉宮千晴ちはるは呆れた声を出す。


「朝から覇気のない声を出さないの」


 稜は嫌味を聞き流し、食卓につく。

 まだ眠気に襲われているのか、もう一度欠伸をする。


 ついでに伸びをして身体を起こさせると、リビングに千晴しかいないことに気付く。


「あれ、怜南は? まだ寝てる?」

「朝風呂中」


 稜はゆっくりと手を下ろすと、朝にそぐわない雰囲気となった。


「……そっか」


 怜南が朝にお風呂に入るのは、決まって、昔の事件を夢に見たときだった。


 怜南を預かって二ヶ月が経ったあたりで、不定期に朝風呂をすることが気になり、千晴が一度だけ、怜南に朝風呂の理由を聞いたことがあった。


『夢を見るの。昔の夢。起きたら、あのときの恐怖が身体に染み付いている気がして、洗い流したくて』


 千晴はそれを教えてくれたときの怜南の表情が、今でも忘れられない。

 恐怖と、悲しみと、怒りと、もっと別のなにか、暗く深い感情に支配された表情。


 今ではすっかりその顔を見せなくなったけれど、葉宮家の誰も、怜南が心から元気になったのだとは微塵も思っていない。


 いつまでも、過去に苦しめられている。


 そうわかっていても、怜南が笑ってくれるから、全員、事件のことには触れないようにしていた。


 しかし、こうしてふと事件の話題となってしまうことがある。

 そういうときは、決まって怜南はいなくて、とてつもなく空気が重くなる。


「ねえ、稜……本当に志保しほたちを殺した犯人、捕まえられるの?」


 志保は、怜南の母親であり、千晴の親友だ。

 千晴にとっても、親友を失った事件はいつまでも風化しないし、犯人のことを許せない。


 その憎しみが込められた瞳に、稜は言葉を詰まらせる。


「どう、だろう……十五年も前の事件だし、資料しかないのと、頼りが怜南の記憶だけだから……」


 稜はそれ以上は言わなかった。


 それでも、絶対に捕まえる。


 それは千晴にも伝わってきて、それ以上なにも言えなかった。


 すると、ドライヤーを使う音が聞こえてきた。

 怜南が風呂から上がったことを示す音だ。


「それでも犯人を捕まえたくて刑事になるなんて、愛だね」


 空気が重たいままでは、怜南になにを話していたのか、悟られてしまう。

 千晴たちが事件のことを話していたと知られてしまえば、怜南はさらに気を使うだろう。


 ゆえに、千晴は無理矢理空気を変えるために、冗談めかして言った。


「は、はあ!?」

「だって、そうでしょう? 稜ったら、昔から怜南ちゃんのことが好きなんだから」


 そんなんじゃないと否定したいところだが、千晴の顔を見るに、聞き入れてくれそうにない。


 そのため、稜はそっぽを向いて、今のを聞き流すことにした。


「あら、怜南ちゃん。おはよう」


 すると、風呂上がりの怜南が姿を現した。


 怜南は手に持っているスマホに文字を打つと、千晴に見えるように、千晴に近付く。


『おはよう。朝風呂してごめんなさい』

「すっきりした?」


 怜南が朝風呂をしても、大丈夫?とは聞かない。

 そう決めている千晴が柔らかい声で尋ねると、怜南は小さく頷いた。


 それから怜南は、稜の元に向かう。


『朝から洗面所占拠してごめんね』

「いや、いいよ」


 千晴に習って、稜も大丈夫?とは言わなかった。

 けれど、千晴のように上手く心配を隠すことはできていなかった。


「ほら、稜。さっさと顔を洗ってきなさい」


 怜南が気を使ってしまう前に、千晴は稜をリビングから追い出した。


「じゃあ怜南ちゃんには、朝ごはんの準備を手伝ってもらおうかな。お茶、出してくれる?」


 怜南は頷き、スマホをポケットに入れ、冷蔵庫を開ける。

 稜、千晴、そして自分のコップを食卓に並べ、お茶を注いでいく。

 千晴がなにも言わないから、その音だけが酷く大きく聞こえる。


 三人分のお茶を注ぐと、怜南はお茶を冷蔵庫に戻す。

 そして、千晴に近寄ってスマホを見せた。


『私、稜くんの邪魔をしてしまったのかな』


 スマホを持つ怜南の視線は、不安そうだ。


 どこでそう感じ取ったのか。

 いや、常にそう感じているのか。

 きっと、稜が刑事になる選択をしたことが、より怜南を追い詰めたのだろう。


 怜南の不安が手に取るようにわかり、千晴はそれを吹き飛ばしてしまうほどの勢いで、怜南の両肩を掴んだ。

 その目には、悔しさが滲んでいる。


「それは絶対に違う。私たちにとって、怜南ちゃんは大事な存在なの。だから、そんなふうには思わないで」


 怜南から不安の色は消えず、ただ視線を落としただけだった。


 また、リビングが重い空気に支配される。


 すると、稜が戻って来た。

 怜南は一方的に気まずさを感じたのか、逃げ出してしまった。


「怜南?」


 なにがあったのかまったく知らない稜は、不思議そうにその背中を視線で追う。


「……稜」


 稜を呼ぶ声は小さく、たしかに怒りを感じた。

 千晴の瞳は悲しみと怒りで揺れ動いている。


「絶対、志保を殺して怜南ちゃんを苦しめ続けるクソ野郎を、捕まえてね」

「言われなくても」


 稜はまっすぐ千晴を見つめ返した。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?