「おはよ……」
欠伸をしながらリビングに入ってくる息子を見て、葉宮
「朝から覇気のない声を出さないの」
稜は嫌味を聞き流し、食卓につく。
まだ眠気に襲われているのか、もう一度欠伸をする。
ついでに伸びをして身体を起こさせると、リビングに千晴しかいないことに気付く。
「あれ、怜南は? まだ寝てる?」
「朝風呂中」
稜はゆっくりと手を下ろすと、朝にそぐわない雰囲気となった。
「……そっか」
怜南が朝にお風呂に入るのは、決まって、昔の事件を夢に見たときだった。
怜南を預かって二ヶ月が経ったあたりで、不定期に朝風呂をすることが気になり、千晴が一度だけ、怜南に朝風呂の理由を聞いたことがあった。
『夢を見るの。昔の夢。起きたら、あのときの恐怖が身体に染み付いている気がして、洗い流したくて』
千晴はそれを教えてくれたときの怜南の表情が、今でも忘れられない。
恐怖と、悲しみと、怒りと、もっと別のなにか、暗く深い感情に支配された表情。
今ではすっかりその顔を見せなくなったけれど、葉宮家の誰も、怜南が心から元気になったのだとは微塵も思っていない。
いつまでも、過去に苦しめられている。
そうわかっていても、怜南が笑ってくれるから、全員、事件のことには触れないようにしていた。
しかし、こうしてふと事件の話題となってしまうことがある。
そういうときは、決まって怜南はいなくて、とてつもなく空気が重くなる。
「ねえ、稜……本当に
志保は、怜南の母親であり、千晴の親友だ。
千晴にとっても、親友を失った事件はいつまでも風化しないし、犯人のことを許せない。
その憎しみが込められた瞳に、稜は言葉を詰まらせる。
「どう、だろう……十五年も前の事件だし、資料しかないのと、頼りが怜南の記憶だけだから……」
稜はそれ以上は言わなかった。
それでも、絶対に捕まえる。
それは千晴にも伝わってきて、それ以上なにも言えなかった。
すると、ドライヤーを使う音が聞こえてきた。
怜南が風呂から上がったことを示す音だ。
「それでも犯人を捕まえたくて刑事になるなんて、愛だね」
空気が重たいままでは、怜南になにを話していたのか、悟られてしまう。
千晴たちが事件のことを話していたと知られてしまえば、怜南はさらに気を使うだろう。
ゆえに、千晴は無理矢理空気を変えるために、冗談めかして言った。
「は、はあ!?」
「だって、そうでしょう? 稜ったら、昔から怜南ちゃんのことが好きなんだから」
そんなんじゃないと否定したいところだが、千晴の顔を見るに、聞き入れてくれそうにない。
そのため、稜はそっぽを向いて、今のを聞き流すことにした。
「あら、怜南ちゃん。おはよう」
すると、風呂上がりの怜南が姿を現した。
怜南は手に持っているスマホに文字を打つと、千晴に見えるように、千晴に近付く。
『おはよう。朝風呂してごめんなさい』
「すっきりした?」
怜南が朝風呂をしても、大丈夫?とは聞かない。
そう決めている千晴が柔らかい声で尋ねると、怜南は小さく頷いた。
それから怜南は、稜の元に向かう。
『朝から洗面所占拠してごめんね』
「いや、いいよ」
千晴に習って、稜も大丈夫?とは言わなかった。
けれど、千晴のように上手く心配を隠すことはできていなかった。
「ほら、稜。さっさと顔を洗ってきなさい」
怜南が気を使ってしまう前に、千晴は稜をリビングから追い出した。
「じゃあ怜南ちゃんには、朝ごはんの準備を手伝ってもらおうかな。お茶、出してくれる?」
怜南は頷き、スマホをポケットに入れ、冷蔵庫を開ける。
稜、千晴、そして自分のコップを食卓に並べ、お茶を注いでいく。
千晴がなにも言わないから、その音だけが酷く大きく聞こえる。
三人分のお茶を注ぐと、怜南はお茶を冷蔵庫に戻す。
そして、千晴に近寄ってスマホを見せた。
『私、稜くんの邪魔をしてしまったのかな』
スマホを持つ怜南の視線は、不安そうだ。
どこでそう感じ取ったのか。
いや、常にそう感じているのか。
きっと、稜が刑事になる選択をしたことが、より怜南を追い詰めたのだろう。
怜南の不安が手に取るようにわかり、千晴はそれを吹き飛ばしてしまうほどの勢いで、怜南の両肩を掴んだ。
その目には、悔しさが滲んでいる。
「それは絶対に違う。私たちにとって、怜南ちゃんは大事な存在なの。だから、そんなふうには思わないで」
怜南から不安の色は消えず、ただ視線を落としただけだった。
また、リビングが重い空気に支配される。
すると、稜が戻って来た。
怜南は一方的に気まずさを感じたのか、逃げ出してしまった。
「怜南?」
なにがあったのかまったく知らない稜は、不思議そうにその背中を視線で追う。
「……稜」
稜を呼ぶ声は小さく、たしかに怒りを感じた。
千晴の瞳は悲しみと怒りで揺れ動いている。
「絶対、志保を殺して怜南ちゃんを苦しめ続けるクソ野郎を、捕まえてね」
「言われなくても」
稜はまっすぐ千晴を見つめ返した。