春が運ばれてきた。
詩人でもないのにそう感じてしまうほど、風は肌を優しく撫でる。
「よし」
何度も訪れているはずなのに、新たな一年が始まるこの瞬間は、飽きる気がしない。
穏やかな風に吹かれて舞う桜の花びらと、桜道を進む。
平和だと思ったその刹那、女性の小さな悲鳴が聞こえてきた。
里津の反応は速かった。
声が聞こえてきたほうを見てみれば、女性が倒れている。
彼女の視線の先には、春には相応しくない、黒いニット帽を被った人物が、走っている。
「どうしました?」
里津は女性のもとに駆け寄り、声をかける。
平和の時間はなかったのだと伝えてきているような、怯えた目。
「バッグが……」
女性の震えた声を聞いた途端、里津は人影を追いかけた。
その眼光は鋭く、穏やかな人の流れを掻き分けて進んでいく。
絶対に逃がさない。
その恐ろしさを醸し出しながら、里津は男に追いついた。
しかし追いついてから捕まえたのではなく、容赦なく飛び蹴りをした。
背中から攻撃を受けた男は、無様に前に倒れた。
ただでさえ里津が走っているだけで注目を浴びていたのに、余計に視線を集めた。
しかし里津は一切気にせず、犯人の背に乗る。
日常とかけ離れた光景に、スマホをかざす野次馬が多数いた。
犯人は抵抗の色を見せるが、里津が腕を押さえつけるほうが速かったようで、逃げ出すことはできなかった。
「なんなんだ! 離せ!」
悔しさは表情に滲み出て、大声を出すも、里津の力は緩まない。
里津は空いた左手で、犯人が突き飛ばされたときに離してしまったカバンを手にする。
「これ、お前のカバンじゃないでしょ。正直に言いなさい。そうすれば、腕を折るのは勘弁してあげる」
里津は過激だった。
犯人は本当に折られそうな気がして、血の気が引く。
「ふ、ふざけるな、警察呼ぶぞ」
「生憎、私がその警察だから」
本気で抵抗をしてくる男をさらに押さえつけ、なんなら、腕を折るというのも冗談ではないのではと思うほど、力を込めていく。
犯人は痛みのあまり、声が出なくなっていく。
「やりすぎだ、バカ」
どこからやってきたのか、里津の同期である
力が緩んだ隙に犯人は立ち上がり、逃げようとするが、あっさりと若瀬に首根っこを掴まれてしまう。
「あんたは大人しくしておいたほうが身のためだ。そう思わないか?」
男は里津と目が合った。
警察という立場にいなければ、殺してくるのではないかというほどの睨みを効かせている。
犯人はあっさりと負けを認めた。
「……バカ瀬は甘い」
「誰がバカだ、やり過ぎ女。また報告書の山に埋もれたいのか」
里津は子供のように鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
そして取り返したカバンを手に、被害に遭った女性のもとに行く。
「お怪我はありませんか?」
「はい。本当に、ありがとうございました」
彼女が笑うと、里津も自然と笑顔を見せた。
里津が彼女を見送ったのを見届けてから、若瀬は里津の手首を掴んだ。
「さあ、署に向かうぞ。今日は新人が来る日だ」
「……行きたくない」
若瀬は里津のわがままを無視し、歩き出した。