その頃、李仁は大雨の中、書店を巡回し、本社へ戻った。
「課長、お疲れ様です。タオルどうぞ」
「ありがとう……雨の日にグレーのスーツは選ぶべきじゃなかったな」
部下の恵山早苗が差し出したタオルを受け取り、李仁は濡れたスーツを拭う。生地のあちこちに雨染みができていた。
「課長、岐阜店の様子は……?」
「そうだな……建物自体が老朽化していて、解体が決まったらしい。跡地に新しい商業施設ができるかは未定だ」
李仁は、東海地区を中心に展開するエメラルド書店の本社に勤める課長だ。
もともとは店舗のアルバイトだったが、本のレイアウトや発注業務で頭角を現し、当時掛け持ちしていたバーテンダーを辞めて本社へ異動。その後も書店での経験と人脈を活かし、現在も積極的に現場を回っている。
「そうなると、岐阜店の新しいテナントを探さなきゃですね」
「……同じ市内にはモール規模の施設がないし、隣の市はすでに競合の書店が入ってる。独立店舗を構えるのもリスクが高い」
「ですよね……ただでさえ、今はネットで本が簡単に買えますし」
「それなのよねぇ……」
仕事中はおねえ言葉を封印している李仁だが、つい口から漏れた。
岐阜店は、李仁がアルバイト時代を過ごした思い出の場所だった。完全撤退も視野に入れなければならない状況に、彼は頭を抱える。
「早い段階から、岐阜店の従業員には異動や転職を勧めてたけど……主婦層は引っ越しが難しいし、学生バイトは駅近だから働いてた子も多くて、次の仕事が見つかってないみたいだな」
そのとき、新人社員の麻衣がコーヒーを持ってきた。
「課長、お疲れさまです」
「ありがとう、麻衣ちゃん……温かいコーヒー、嬉しいわ」
「いえ……」
麻衣は頭を下げ、給湯室へ戻っていく。その背中を見送った恵山も、後を追った。
会社の給湯室。
「麻衣さん、私、知ってるんだから」
給湯室の扉を閉めるなり、恵山が切り出した。お局的な雰囲気に、麻衣はたじろぐ。
「あなた、課長に気があるでしょ?」
「そ、そんなっ!!」
「図星ね」
麻衣は顔を真っ赤にした。恵山はさらに問い詰める。
「見てれば分かるわよ。視線も、態度も丸わかり……まあ、本人は気づいてるのかどうか」
「……そんなことはないです」
「言っとくけど、李仁さんとは私、長年バイト時代から一緒に働いてきたの。彼が入ったときからね。あとちなみに彼はゲイで既婚者よ」
「えっ」
麻衣の表情が固まった。李仁は指輪をしていないし、今は飲み会もない。プライベートの話を耳にする機会はなかった。
「ゲイ……はともかく、既婚者……?」
「そう。相手は男。同・性・婚。あ、日本では同性婚できないから正確にはパートナーシップ協定」
「……」
「残念だったわね、失恋決定。でも、既婚者って知ってても狙ってる女子社員、他にもいるし?」
恵山はくすっと笑った。
「じゃあ……チーフは?」
「は!? バカ言うんじゃないよ。昔からの知り合いだけど、そんな関係じゃないわよ!」
恵山は少し焦ったように言う。彼女は李仁より年上で、バツイチの子持ち。結婚・出産で仕事を離れていた間に、後輩だった李仁にキャリアを追い越されてしまった。
「ま、とにかく、新人のうちはうつつを抜かさないことね。李仁さんはいいけど、変な男に捕まらないように」
「は、はぁ……」
恵山が給湯室を出ると、麻衣は一人、考え込んだ。
麻衣の回想
数日前、初任給が入った麻衣は、前から行ってみたかったバーへ一人で足を運んだ。
そして、そこで偶然李仁の姿を見つけた。
カウンターの奥に座り、グラスを傾けながら——静かに泣いていた。
(……李仁さん?)
驚いたものの、プライベートの時間だ。声をかけるべきか迷っていた、そのとき——ふと目が合った。
いつもの職場の顔ではない。
李仁は、すぐに視線を逸らした。麻衣も、思わず目を伏せた。
翌日、仕事の合間に声をかけようとしたが、李仁は微笑みながら一言、
「昨晩のことは内緒で」
そう言って、何事もなかったかのように業務を振った。
(李仁さん、なんで泣いてたんだろう……)