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第51話 秘密 

 その頃、李仁は大雨の中、書店を巡回し、本社へ戻った。


「課長、お疲れ様です。タオルどうぞ」

「ありがとう……雨の日にグレーのスーツは選ぶべきじゃなかったな」


 部下の恵山早苗が差し出したタオルを受け取り、李仁は濡れたスーツを拭う。生地のあちこちに雨染みができていた。


「課長、岐阜店の様子は……?」

「そうだな……建物自体が老朽化していて、解体が決まったらしい。跡地に新しい商業施設ができるかは未定だ」


 李仁は、東海地区を中心に展開するエメラルド書店の本社に勤める課長だ。

 もともとは店舗のアルバイトだったが、本のレイアウトや発注業務で頭角を現し、当時掛け持ちしていたバーテンダーを辞めて本社へ異動。その後も書店での経験と人脈を活かし、現在も積極的に現場を回っている。


「そうなると、岐阜店の新しいテナントを探さなきゃですね」

「……同じ市内にはモール規模の施設がないし、隣の市はすでに競合の書店が入ってる。独立店舗を構えるのもリスクが高い」

「ですよね……ただでさえ、今はネットで本が簡単に買えますし」

「それなのよねぇ……」


 仕事中はおねえ言葉を封印している李仁だが、つい口から漏れた。


 岐阜店は、李仁がアルバイト時代を過ごした思い出の場所だった。完全撤退も視野に入れなければならない状況に、彼は頭を抱える。


「早い段階から、岐阜店の従業員には異動や転職を勧めてたけど……主婦層は引っ越しが難しいし、学生バイトは駅近だから働いてた子も多くて、次の仕事が見つかってないみたいだな」


 そのとき、新人社員の麻衣がコーヒーを持ってきた。


「課長、お疲れさまです」

「ありがとう、麻衣ちゃん……温かいコーヒー、嬉しいわ」

「いえ……」


 麻衣は頭を下げ、給湯室へ戻っていく。その背中を見送った恵山も、後を追った。




会社の給湯室。


「麻衣さん、私、知ってるんだから」


 給湯室の扉を閉めるなり、恵山が切り出した。お局的な雰囲気に、麻衣はたじろぐ。


「あなた、課長に気があるでしょ?」

「そ、そんなっ!!」

「図星ね」


 麻衣は顔を真っ赤にした。恵山はさらに問い詰める。


「見てれば分かるわよ。視線も、態度も丸わかり……まあ、本人は気づいてるのかどうか」

「……そんなことはないです」

「言っとくけど、李仁さんとは私、長年バイト時代から一緒に働いてきたの。彼が入ったときからね。あとちなみに彼はゲイで既婚者よ」

「えっ」


 麻衣の表情が固まった。李仁は指輪をしていないし、今は飲み会もない。プライベートの話を耳にする機会はなかった。


「ゲイ……はともかく、既婚者……?」

「そう。相手は男。同・性・婚。あ、日本では同性婚できないから正確にはパートナーシップ協定」

「……」

「残念だったわね、失恋決定。でも、既婚者って知ってても狙ってる女子社員、他にもいるし?」


 恵山はくすっと笑った。


「じゃあ……チーフは?」

「は!? バカ言うんじゃないよ。昔からの知り合いだけど、そんな関係じゃないわよ!」


 恵山は少し焦ったように言う。彼女は李仁より年上で、バツイチの子持ち。結婚・出産で仕事を離れていた間に、後輩だった李仁にキャリアを追い越されてしまった。


「ま、とにかく、新人のうちはうつつを抜かさないことね。李仁さんはいいけど、変な男に捕まらないように」

「は、はぁ……」


 恵山が給湯室を出ると、麻衣は一人、考え込んだ。




麻衣の回想


 数日前、初任給が入った麻衣は、前から行ってみたかったバーへ一人で足を運んだ。


 そして、そこで偶然李仁の姿を見つけた。


 カウンターの奥に座り、グラスを傾けながら——静かに泣いていた。


(……李仁さん?)


 驚いたものの、プライベートの時間だ。声をかけるべきか迷っていた、そのとき——ふと目が合った。


 いつもの職場の顔ではない。


 李仁は、すぐに視線を逸らした。麻衣も、思わず目を伏せた。


 翌日、仕事の合間に声をかけようとしたが、李仁は微笑みながら一言、


「昨晩のことは内緒で」


 そう言って、何事もなかったかのように業務を振った。


(李仁さん、なんで泣いてたんだろう……)

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