湊音は、今日剣道部の朝練がなくてよかったと思いつつ、ゆったりとした気分で登校していた。
新しいスーツは初めてのオーダーメイドで、体にフィットしている感覚が気持ちよかった。高かったが、その分の価値はあると満足している。
ただ、朝の出来事さえなければ、もっといい気分でいられたのに――。
朝、李仁の部屋で出くわした謎の男は、李仁の元彼だと言った。
さらに驚くべきことに、あのマンションの一室は彼名義で購入したものだという。
湊音は今まで李仁の部屋に他人の気配を感じたことはなかったが、確かにあの広さは独身の男性が一人で住むには不自然なほど広い。
元彼は、
「来週にはあの部屋を李仁に譲る予定だ」
と冷たく告げた。その口ぶりから、彼と李仁の間には何かしら大きな出来事があったのだろう。ただ、それを深く聞く勇気は湊音にはなかった。
それよりも、彼が鼻で笑いながら投げた言葉――「あいつでいいのか?」――が、何より胸に引っかかっていた。
昼休みにでも李仁に連絡しようかと考えながら、湊音は学校に到着した。
職員室に入ると、湊音に視線が集まる。
『スーツが似合ってるから注目されてるのかな?』
少し照れながらもそう思っていると、同僚の大島先生がニヤニヤしながら駆け寄ってきた。
「湊音、お前、これ見たほうがいい」
大島は湊音に紙を差し出した。そこには写真が貼られており、見覚えのある情景が映っている。
「……これ、昨日の……」
湊音の声は自然と震えた。写真には、李仁と再会し抱きしめられた瞬間が、はっきりと写っていた。
「この写真が、生徒たちの間で出回ってるんだ。それだけじゃない、朝には校長のパソコンにも送りつけられてた」
「……誰が撮ったんだ」
湊音は頭を抱えた。気が緩んでいたのは自分の責任だ。
「それだけじゃない。生徒たちの間で噂が広まってる」
「どんな噂ですか?」
湊音が恐る恐る聞くと、大島は苦い表情で答えた。
「湊音が同性愛者だとか、公表していなかった妻子がいて、その家庭を捨てた――なんて話になってる」
『どうしてそうなるんだ?!』
湊音は混乱しながらも、頭の中で整理しようとする。確かに、生徒や保護者がそんな噂を聞けば、誤解を与えるのも無理はない。そこに校長が現れた。
「湊音先生、ちょっと話がある。朝から保護者たちが電話をかけてきているぞ」
「……そんな、僕は……」
「さらに悪いことに、他校の生徒指導の先生から、君がクラブから泥酔して出てきたと報告があった」
「それが僕だとどうして……」
「教員インタビューを受けただろう。その写真で顔が一致したそうだ」
『そんな……』
湊音は頭を抱え、肩を落とした。李仁との交際を隠すつもりはなかったが、それがこんな形で広まるとは思っていなかった。しかも噂が勝手にねじ曲げられ、家庭を捨てたなどという話までされている。
校長は腕を組み、真剣な表情で湊音を見つめた。
「君が同性愛者であるかどうかは関係ない。ただ、生徒たちに与える影響を考えれば、このままでは済まないぞ」
「……はい、わかっています」
「保護者説明会を開くつもりだ。それまでに、君自身がどうするかを考えなさい」
校長が去ると、湊音は周囲の教師たちからも視線を浴びた。誰もが口を出しづらそうにしているが、その視線には好奇心と心配の両方が混ざっている。
『どうしてこんなことに……』
湊音は李仁にメールしようとスマホを取り出したが、結局何も書けずに画面を閉じた。