『ああ……』
湊音はしばらく水族館の中でボーッとしていた。明里はもういない。昼ごはんの時間になってもお腹が空いているはずなのに、ボーッとして動けなかった。
湊音にとって初めて振られたこと、そして女性にビンタされたのも初めてだった。そのビンタを受けた頬がもう赤みを帯びていないはずなのに、まだ心の痛みが続いていた。
明里が他の男性とも関係を持っていたことに衝撃を受ける。頭の中で彼女が湊音と交わった時の表情や動き、交わりの様子が浮かんでくる。それまで純粋でウブだと思っていた彼女が、他の男性と関係を持つなんて信じられなかった。
湊音は自分が調子に乗っていたことを後悔する。彼女が何度も嫌がらずに受け入れてくれることをいいことに、湊音はそれを当然のように思っていた。
湊音のスマホが震え、画面には李仁からのメールが表示される。
「どーぉ、デートの方は。楽しんできてね^_^ また聞かせてね❤️」
文字を見て、湊音は李仁の声が脳内で再生されるのを感じた。その文字がぼやけて見えるのに気づく。
『涙……なんで僕は泣いてるんだろう?』
気づけば涙が溢れ出てきて、湊音はそのことに動揺する。周りにはカップルや家族連れ、子どもたちがいる。恥ずかしさが湧いてきて、急いでハンカチで涙を拭ったが、涙は止まらなかった。
湊音は思わず李仁に電話をかける。すぐに通じ、李仁の声が耳に入る。
「あら、どうしたの? デート中じゃなかったの?」
その声を聞いた途端、湊音の涙は止まらなくなる。
「李仁さぁああん……」
「湊音くん?!」
夕方、湊音は李仁の勤める本屋の横のカフェに座っていた。どうやってここまで来たのかもわからないほど、湊音は心の中で絶望を感じていた。明里に振られたことが一番のショックで、明里が好きだったわけではないが、人間不信であり、裏切られたことが辛かった。
「おまたせ、湊音くん。今日は夜の仕事は休みにしてもらったから」
「……僕のために休んでくれたんですか」
「そうよ。たまたま代わりの人がいたからよかったけどね」
湊音は、明里のために普段行かないような高級レストランを予約していた。しかし、恋愛経験の少ない湊音は、こういう場所に連れて行けばいいと思い込んでいた。その考えが逆に裏目に出てしまった。
「はい……すいません、付き合わせてしまって」
「大丈夫。今日はとにかく美味しいものを食べて。明日も仕事なんでしょ?」
李仁は気分良さげに言った。今日は私服がシックで、いつもの派手な服装とは違っていた。
「普段着とこういう落ち着いた色味の服はロッカーに一式用意してあるの。デートとかのために、ね」
湊音は驚いた表情を見せた。李仁はその反応を楽しんでいるようだった。
「これも立派なデートよ。泣きながらレストラン予約キャンセルできないところで、私に頼んできたじゃない。別に一人でも、他の友達とでも行けばよかったじゃん」
『いないもん、友達なんて』
「私が友達ってことかー。同い年だしさ。国語科の先生だよね、本も好きでしょ?」
「ん、うん。まぁ……」
「気が合いそうね」
李仁が微笑んだ。湊音はその笑顔を見て、再びドキッとする。
『……なんだろ、なんでこんなにドキドキするんだろう、李仁さんに』