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悪魔的にハッピーエンド Side-

「そうしたら、これも、もういらないよね? 私が処分しておいてあげるわね、流風るか


 閲覧机にうつ伏せて眠る流風のポニーテールに結ばれた白いリボンを解きながら、萌流水もなみは止めの言葉を告げた。

 つまらない素材を、極上のディナーに仕立て上げるための魔法のスパイスを、最後に一振りした。

 零れだす、弾むように軽やかな笑い声を咎めるものは、図書室の中にはもう残っていない。

 これで、目が覚めた流風は、井原や梨々花りりかのような虚ろな人形になっているはずだ。

 そして、明日には。白いリボンを愛用し始める前の流風に逆戻りしている。『綺璃亜きりあ先輩は、本当は優しい』だなんて言い出す前の、綺璃亜を苦手に思っていた頃の流風に。

 期待を抱かせてからの手ひどい失恋だけでも、充分な出来栄えだった。

 なのに、夢の世界に介入して、萌流水手ずから最後の仕上げを施したのは、悪魔様のためではない。萌流水自身のためだった。

 どうしても、思い知らせてやりたかった。流風が大事にしていたものを、根こそぎ奪ってやりたかった。

 水色のゼリービーンズも、白いリボンも。

 流風の中から完全に消し去るためには、どうしても、その最後のスパイスの一振りが必要だった。


 悪魔様のお好みは、怒りと、悲しみの先にある絶望。

 魂の、怒りや絶望に染まった部分だけを選り抜いて食べるのがお好きなようだった。それも、それぞれの感情の上澄みだけを食べるのではなく、その感情の根幹となる部分まで、一つも残さず根こそぎ頂くのが流儀のようだ。

 だからこそ。

 井原も、梨々花も。

 放課後の図書室で、萌流水の一言が引き金となって爆発した怒り、それだけではなく。

 その怒りの一番の根っことなる、外来星がいらいせいへの妬みや憎しみ、コンプレックス、それから、外来星を見下す心そのものを、一欠けらも残さず失った。

 腐った魂に根を張っていた醜い心を根こそぎ奪われて、その結果、別人のようになった。別人のような、善人となった。

 つまりは、そういうことなのだ。

 午後の授業を受ける傍ら、ずっと、流風を真っ白な氷の下に引きずり込む方法を考え続けて、萌流水はそのことに気が付いた。


 だから、これは必要な儀式だった。

 夢の世界での偽物との失恋は、流風に本当の絶望を味わわせてやるための、前座に過ぎない。失恋させて、その失恋の痛みすら偽物だと思い知らせて、これ以上ないくらいに揺さぶりをかけた上で。

 現実の世界に残されていたはずの、最後の希望。

 綺璃亜との絆……だと流風が信じている思い出のすべて。

 それすら失うのだと、思い知らせてやる必要があった。

 流風が綺璃亜を好きなった、その始まりの象徴である白いリボンを奪ったのは、計画にはない、その場の思い付きだった。

 結果的に、その思い付きが、止めの一撃となった。

 黒い手の中に吸い込まれていく白いリボン。

 それを目の当たりにして。自分から失われるものが何なのかを、まざまざと見せつけられて。降り注ぐ言葉との相乗効果で、その光景は、流風の心を打ち砕いたはずだ。


 流風が信じていた、綺璃亜との繋がりのすべてを失うと告げられたことで、流風は深く絶望し。

 その絶望を悪魔に食べられることで、絶望の核となる、流風が大切にしていたもののすべてを失うことになるのだ。


 それが、流風にとって、どんなに残酷なことなのかを知りつつ、萌流水には躊躇いも罪悪感もなかった。

 静かだけれど熱い喜びだけが、胸を満たしている。

 図書室の中にも、黒く澄んだ喜びの波動が満ちていた。

 最後の魔法のスパイスの一振りが功を為したようで、萌流水が腕を振るって用意したディナーは、悪魔様のお気に召したようだった。

 空気が、喜びに震えているのが、分かる。

 とても、満ち足りた気配。

 井原や、梨々花の時とは比べ物にならないほど、喜んでくれているようだった。


 これで、萌流水の望みは叶うはずだった。

 流風が大切にしていたすべてと引き換えに。


 ポニーテールの頭が、むくりと起き上がった。

 どこでもないどこかを見つめる虚ろな瞳が光っているのは、すでに失われた夢の名残だ。


「おはよう、流風」

「おは、よう」

「お気に入りの白いリボン、失くしちゃって、残念だったね」

「うん…………」

「せっかくだから、わたしみたいに髪形を変えてみたら? 今度は、リボンじゃなくて、シュシュとかバレッタにしてみるとか。次の休みに、一緒に買いに行こう?」

「うん…………。そう、する」


 夢から醒めたはずなのに、まだ眠ったままのように虚ろな様子の流風。それだけで、成功は間違いないはずだったが、本当に忘れてしまっているのかどうか、念のために探りを入れみる。

 問題は、なさそうだった。

 逸る気持ちを抑えながら、萌流水は核心へと迫っていく。


「ねえ、流風。正直に答えてね。ゼリービーンズは、好き?」

「あんまり……」

「そう。じゃあ、次が最後」

「……………………」

「綺璃亜先輩のこと、どう思っている?」

「……………………綺麗だけれど、怖い。……から、苦手…………」


 最後の問いに答えて、虚ろな人形は、瞬いた。

 夢の残滓が、頬を伝い落ちていく。

 でも、その瞳には、喜びも悲しみも怒りも憎しみも、何もない。

 ただ、虚ろなだけ。

 わずかに残っていた光も、流れ落ちてしまった。


「涙を拭いたら、今日はもう帰って、早めに寝た方がいいんじゃない?」

「そうする……」

「うん。じゃあ、また明日ね、流風」

「……………………うん……」


 言われた通り、ポケットから取り出したハンカチで涙を拭うと、人形は静かに椅子から立ち上がり、出口へと向かう。

 カラリ、と扉が閉まる音がして、流風は退場していった。


 自然と口元が緩んでくる。溢れ出そうになる声を堪えつつ、萌流水は流風から奪った白いリボンを頭上に翳して、指を揺らした。

 ヒラヒラと波打つ、白いリボン。


 これで、本当に、萌流水の望みは叶ったのだ。

 その代わり。

 流風は今日、大切なものを根こそぎ失った。

 でも、明日になれば、失ったことすら忘れているはずだ。

 失ったことすら、無かったことになるのだ。

 明日になれば、流風はいつも通りの流風として、元気に登校してくることだろう。いつも通りの、元気で明るいだけが取り柄の鈍感で平凡な女の子として、これからものん気で平和な学校生活を送っていくのだ。

 流風に起こった静かな変化に気づくものは、誰もいないはずだ。クラスメートたちも、教師たちも。気づいたとしても、騒ぎ立てるほどのこともない、どうでもいい事だろう。流風が綺璃亜への想いを全部失くしてしまったなんて、「ふうん?」なんて気のない相槌一つで流してしまえる程度の、他のみんなにとってはどうでもいいことだ。


「わたしくらいは、ちゃんと覚えていてあげるわね? だって、流風が『勇気』を出してくれたおかげで、わたしの『望み』が叶ったんだもの」


 指の先で揺れる白いリボンに向かって、萌流水は歌うように告げた。

 本来、図書室には不釣り合いな。でも、今の図書室には相応しい、弾むように軽やかな響き。

 透き通るように黒くて、冷たくて、甘い、喜びのソーダ水が満ちていく。

 その気泡が弾ける音に包まれながら、萌流水は笑った。

 透き通るように黒く、冷たく、甘く笑った。

 笑んだまま、カウンター脇のゴミ箱へと向かう。

 覗き込んでみると、中には丸められたティッシュがいくつか転がっていた。

 その上で、リボンを揺らす。

 笑みが、深くなる。透明度が、増していく。


「じゃあね、流風」


 これまでの日常に別れを告げ、萌流水は白いリボンから指を離した。

 薄汚れた雪原の上に、ひらりと舞い降りていく白いリボン。

 生き物のようだったそれが、くたりと力なく雪原の上に横たわるのと同時に。


 がくりと膝が折れ、萌流水はゴミ箱の中に頭を突っ込んだ。


 繰り人形の糸が急に切れてしまったかのように、関節から力が抜けていき、支えを失った頭部は、白い死体が横たわる、薄汚れた雪原の上にダイブした。ダラリと垂れ下がった両腕。指の先だけが、細かく痙攣を繰り返している。

 激しい物音に、反応するものは誰もいなかった。

 利用者は、既にいない。けれど、図書当番の二人と教師の北見は、カウンターの中にいる。ゴミ箱は、三人のいるカウンターの脇に設置されていた。

 たとえ、物音がしなかったとしても、見逃しようのない距離だ。

 ゴミ箱にゴミを捨てた後に、貧血を起こして倒れてしまったとしか思えない状況なのに、駆け寄るどころか、三人とも何の反応も見せない。気づいた様子もなく、黙々と作業を続けている。


 萌流水に命じられた通りに。

「何があっても気にすることなく、仕事をしていなさい」と、萌流水に命じられた通りに。

 人形のように、黙々と作業を続けている。

 ゴミ箱に頭を突っ込んでいる萌流水も、まるで打ち捨てられた人形のようだった。

 サイズの合わないゴミ箱に、無理やり突っ込まれた、壊れかけの人形。

 痙攣を繰り返していた指先が、不意に動きを止めた。

 本当に壊れてしまった……わけではないようだった。

 充電が終了したばかりの機械人形のように、萌流水は勢いよく、垂れさがっていた両手を上げて、ゴミ箱の縁を掴んだ。そのまま、思い切りよく、ゴミ箱の中に納まっていた頭を引き抜く。


「…………ふう。人間の体を奪うのは久しぶりだから、加減が分からなかったわ」


 目の前まで持ち上げた両手を、数回開いたり閉じたりして、動きを確認してから、萌流水は立ち上がった。ほんの少しよろけたが、すぐにバランスを取り戻す。ふむ、と頷いてから、さっきまで流風がうつ伏せていた閲覧机に向かって、ゆっくりと歩き出す。

 最初はぎこちなかった動きが、数歩進むうちに、滑らかになっていく。

 辿り着いた閲覧机に、そっと右手を置いて、萌流水は笑った。

 清楚で落ち着いた、いつもの萌流水の笑みではない。

 どこか、コケティッシュな魅力を醸し出す、別人のような笑み。


「うん。問題なく、動ける。知識の参照も、問題ない。いい体を、手に入れた。暗示の力。夢に干渉する力……。うん、素敵」


 閲覧づくの上に、人差し指でクルクルと円を描きながら、萌流水は楽しそうにおしゃべりを始める。萌流水に向かって。


「モナミの考えは、大体、合っていたわよ? そう、ワタシは、絶望と怒りが好き。絶望が一番好き。昔はね、魂を丸ごと食べたりもしていたんだけど、より美味しく魂を頂く方法を探している内に、今のやり方に辿り着いたの。美味しいところだけを、スプーンで根こそぎ掬って食べる、今のやり方。これが、一番美味しい」


 睫毛を伏せて、うっとりと唇を嘗める萌流水。

 今までの萌流水にはない、艶めかしさを感じる。


「七不思議の悪魔のお話は、たぶん、その時のことがモチーフになっているのだと思うわ? 魂をそっくり丸ごと奪われた人間は、空っぽの人形になっちゃうから。こういうのを、廃人って言うのかしら? ふふ、モナミにだけ、いいことを教えてあげる。空っぽになった人形の体はね、乗っ取れば、自由に操れるの。ほら、こんな風に」


 萌流水は指遊びを止めると、閲覧机に手の平を置き、その上に飛び乗る。軽やかな動きだった。


「ここは、いい狩場だった。放っておいても、次から次へと勝手に獲物は補充されていくし。適当に中を彷徨って、良さそうな獲物に目をつけて、美味しく育ったところでいただく。うん。悪くない狩場だった。でも、これからは、狩場じゃなくて、うーん、そうね……」


 口元に人差し指を当て、記憶を参照するように押し黙る萌流水。

 しばらく考えた後、目を輝かせて、両手をパンと叩いた。


「そう、スイーツバイキングの会場! あ、でも、待って。それよりは、調理室の方が相応しいかしら? そうね、ここは学校なのだし、その方が相応しい。学校全体が、ワタシの調理室。食材が、勝手に補充されていく、調理室。スイーツ専門の調理室」


 叩いた両手を合わせたまま、萌流水は小さく笑った。


「ふふ、モナミは、極上のディナーを捧げるって言ってくれたけれど、それは少し間違っているかな。ディナーじゃなくて、スイーツが正解。だって、別にね、食べなくても、問題ないの。あなたたちの魂は、生きていくために必要な食事とは違うの。食べなくても、別に平気。でも、食べたら幸せになれる。そう、あなたたちが言うところの、スイーツ。あなたたちの魂は、ワタシにとっては、スイーツ」


 合わせた両手をそのまま組み合わせ、祈るようなポーズで、萌流水は遠くを見つめる。


「モナミ、あなたには、感謝している。最初に、モナミを食べようとした時には、何かに……恐らくは、モナミを守護する何かに、邪魔されてしまったけれど。未練がましくその場に残っていて、正解だった。おかげで、美味しいものにありつけた。特に、ルカは、絶品だった」


 天井を仰いで、恍惚とした表情を浮かべる萌流水。


「でも、それよりも。モナミには、とても素敵なことを教えてもらえた。美味しくなければ、美味しくしてしまえばいい。美味しくお料理してしまえばいい。とっても素敵な考え。これが一番の、収穫といってもいい。おまけに、とってもいい料理器具も手に入った」


 両手を持ち上げて、手の平を広げる。表へ裏へと返しながら、その様を、うっとりと見つめる。


「モナミの魂は、あんまり好みの味じゃなかったけれど、この体は魅力的。モナミがワタシに気を許して、ガードが緩んでいる内に、手に入れて正解だった。暗示の力に、夢への干渉。美味しいスイーツを作るために役立つ、とっても素敵な機能。ふふ。モナミは、ワタシのおかげで力が手に入ったと思ったみたいだけれど、本当は、元々モナミの中に眠っていた力だったのよ? まあ、でも。ワタシと接触したおかげで目覚めたのだから、ワタシのおかげといっても、間違いではないか…………。ふ、ふふ。モナミにお料理を任せてもよかったのだけれど、やっぱり、自分で料理した方が、よりワタシ好みの美味しいスイーツが食べられるものね。それに、その方が楽しそう」


 手のひらを天井に翳しながら、萌流水は机の下で、ユラユラと足を揺らす。まるで、子供のように、どこか無邪気に。


「そうそう。モナミの好きなキリアって子。あの子はね、ここに来たばかりの時は、もっとギラギラしていたのよ? あの子の魂も、とっても美味しかった。今のあの子は、ワタシからしたら、何の魅力もないただの食べかすなのに。モナミには、あれが素敵に映るのね。不思議」


 足を揺らしながら、可愛らしく小首を傾げる萌流水。最後に落とした呟きが、滲むように響いた。


「これからが、楽しみ。モナミがご馳走してくれた、ルカの魂みたいに、美味しくできるといいのだけれど。まあ、材料はたくさんあるのだから、いろいろ試してみればいいわよね。うん。とっても、楽しみ、ね?」


 甘い未来への予感に、萌流水は瞳を輝かせる。

 悪魔的に可愛らしく、蠱惑的に。

 笑みを零す。


 かつて。

 萌流水の周りで弾けていた、黒くて冷たいソーダ水は。

 今。

 萌流水の身の内を満たしている。

 甘くて幸せな未来への予感に、喜びの気泡が後から後から弾けていく。

 心地よい音に耳を澄ませながら、その音に乗せるように萌流水は――――。

 ――――かつて萌流水だったものは、歌うように笑った。


 人形たちが立ち働く、放課後の図書室に、笑い声が響き渡る。

 砂糖をまぶしたような甘い声。希望に満ち溢れた甘い声。

 黒くて冷たいソーダ水が弾けるリズムで。

 少女の声で。

 軽やかに。

 朗らかに。

 そして、悪魔的に――――。


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