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Side-R⑧真っ白な世界は透き通るように濁っていった。

 生垣のお城は、張りぼてのお城だった。

 四角く切り取られただけの味もそっけもない入り口をくぐってみれば、中はがらんどうで薄暗かった。

 広間も通路も階段も、装飾の類も何もない。生垣で造られた、お城の形をした体育館のように、ただ広いだけの空間。芝生の絨毯すらない、剥き出しの地面。中に照明はなく、生垣の隙間から差し込んでくる、白絵の具交じりのアメジストだけが光源だった。

 そのがらんどうのお城の真ん中に、鳥籠がひとつ、ポツンと置かれていた。蔓と蔦で編まれた、大きな鳥籠。その中に、誰かが横たわっているのが見える。青いドレスの女の子。多分あの子が、囚われた王女なのだろう。

 森の王らしき存在は、どこにも見当たらなかった。

 どこに行ったのだろうと不思議に思いつつ、胸を撫でおろしてもいた。流風としては、森の王なんて恐ろしげなものと戦ったりしたくはないのだ。

 お留守にしている間に王女を救出できるのなら、それに越したことはなかった。

 遠くから鳥籠を見つめながら、流風るかは、ふるっと身を震わせた。

 お城の中は、ひどく寒かった。冷凍庫まではいかないけれど、冷蔵庫の中くらいには、寒い。


 ――――こんな、薄暗くて寒いところに一人ぼっちで閉じ込められていたなんて。早く助けてあげなきゃ。


 浮かれた未来予想図は一旦、頭の端に押しやり、隣にいるキリーを見上げると、キリーもまた流風を見下ろし、「行こう」というように頷きながら、小枝を握る流風の手首を握りしめてきた。

 胸の中に、喜びの光が差し込んだ。

 王女様の救出前に浮かれるつもりはないけれど、嬉しいものは嬉しいのだ。


 ――――大丈夫。これで終わりなんかじゃない。これで、お別れなんかじゃない。きっと、大丈夫。


 心に暖かな光を浴びて、流風の中の希望はより一層大きく育っていく。その希望に背中を押されるように、キリーに手首を掴まれたまま、王女の元へと駆け寄る。

 二人が鳥籠の元に辿り着いても、王女は横たわったままだった。

 華奢な体を包む、上品な青いドレス。清楚で可憐な雰囲気の真珠のティアラ。肩口の先まで流れる癖のない黒髪。重ねた手の上にうつ伏せているので、顔はよく見えない。

 キリーが、掴んだままの流風の手を持ち上げた。流風が握りしめている小枝の先が、軽く鳥籠に触れる。

 すると、鳥籠の天辺が、光った。

 赤、黄色、水色の三色の光を放って、天辺の結び目が解ける。

 シュルリとリボンが解けるように、緑の蔦はしなやかな曲線を描きながら、地面へと落ちていく。

 王女が顔を上げた。

 清楚で上品な、美しい顔立ち。どこかで、見たことのある顔。見たことがある、どころか、よく見慣れた、学校で毎日目にしている、顔。


 ――――え? 萌流もな……………………?


 王女は、親友の萌流水もなみにそっくりだった。最近、髪形を変えて見違えるように綺麗になった、親友の萌流水に。

 なぜだか、胸の奥がモヤッとした。

 呆然と立ち尽くしていると、手首からぬくもりが消えた。隣に並んで立っていたキリーが、流風を置いて、一歩前に進み出る。

 それから、キリーは王女の前で跪いた。

 さっきまで流風の右手首を握りしめていた手を、王女に向けて差し出す騎士。白くて美しい手を、騎士の掌に重ねる王女。

 天井の隙間から、サァッと光が差し込んできた。ほんの少しだけ紫がかった、白い光の筋が、二人を照らす。

 二人だけを照らす。

 スポットライトみたいに。

 光を浴びながら、騎士に手を引かれて立ち上がる王女。見つめ合う二人。

 心臓が、激しく自己主張を始めた。喉の奥がカラカラに干上がってくる。さっきまで流風の中でパチパチ弾けていた甘くて爽やかなソーダ水は、ゆっくりとどこかへ流れ出て行った。

 ついさっきまで、この物語のヒロインは流風だった。

 なのに。

 脇役どころか、観客席へ追いやられたかのような疎外感が押し寄せて来る。

 似たような気分を、つい最近、学校でも味わったことを、流風は思い出した。



 髪形を変えて、前よりも積極的になって、グッと綺麗に魅力的になった萌流水。二人で廊下を歩いていると、誰もが萌流水に注目した。隣を歩く流風を素通りして、萌流水だけに注がれる羨望の視線。引き立て役ですらない、透明人間にでもなった気分だった。少し前までは、二人そろって地味で目立たない脇役街道を進んでいたのに。流風一人だけが置き去りにされたようで、本音を言えば寂しかった。女の子として注目される萌流水が、羨ましくもあった。

 変にいじけたりしないで済んだのは、綺璃亜きりあとの秘密の約束のおかげだった。学校の他のみんなにとっては、萌流水こそがヒロインで、流風はただの脇役だった。でも、綺璃亜との秘密の約束の相手は、萌流水ではなくて流風なのだ。

 流風には、その方がずっと嬉しかった。みんなにとっては、ただの脇役でも、綺璃亜にとってそうでないのなら、それでよかった。その方が、よかった。

 だから、あの時は本当に嬉しかった。

 音楽室へ向かう途中に、綺璃亜とすれ違ったあの時。階段を昇った先で、綺璃亜の姿を見つけた時は、ふと心に不安が過った。

 もしかしたら、綺璃亜もほかのみんなと同じように、流風には気づかずに萌流水にだけ見惚れるような視線を注いで、そのまますれ違ってしまうのではないかと、不安になった。

 でも、そうはならなかった。

 綺璃亜は、ちゃんと気づいてくれた。美しく変身を遂げた萌流水に惑わされることなく、約束を交わした相手である流風を見つけてくれた。流風だけに気づいてくれた。合図を、送ってくれた。

 覚えてくれていたことも、もちろん嬉しかったけれど。それ以上に、綺璃亜と流風の二人の物語のヒロインは、綺麗になった萌流水ではなくて、平凡なままの自分なのだということが、すごく嬉しかった。

 だから、だから――。


 ――――大丈夫。きっと、大丈夫。だって、綺璃亜先輩は、あの時、あたしだけに気づいてくれた。選ばれたのは、あたしだった。だから、キリーだって、きっと、大丈夫。丸太兵士さんだって、あたしを応援してくれたし。あたしは、キリーのためなら、すべてを失う覚悟があるって、すべてを捧げてもいいって、そう誓った。だから、大丈夫。きっと、大丈夫…………。


 自分の体から、何かが流れ出ていくのを感じながら、必死に言い聞かせる。そうしていないと、立っていられなくなりそうだった。

 心臓の音が、やけに煩い。空っぽの体の真ん中に、心臓だけが取り残されている。煩く鳴り響く心臓を入れておくだけの、空っぽの器になってしまった。そんな感覚。

 二人はすぐ目の前にいるのに、ひどく遠くにいるように感じた。観客席と舞台の上くらいの、距離感。

 きっと気のせいだと、流風は信じようとした。

 自分は観客なんかじゃないと、言い聞かせた。

 二人はただの騎士と王女なのだと。王女の無事を確認した騎士は、次に流風の名を呼んでくれるはずなのだと。王女に、紹介するために、流風の名前を呼んで、流風をまた舞台の上に、スポットライトの下に呼び戻してくれる。そのはずだと、信じた。

 だって、流風は観客なんかじゃない。脇役でもない。

 伝承の、天の乙女なのだから。

 縋るように右手に力を込め、流風は弾かれたように目を見開いた。こめかみから、冷たい汗が伝い落ちてくる。恐る恐る、右手へと視線を落とす。

 天の乙女の証である、小枝を握りしめているはずの右手を。


 手の中には、何もなかった。


 何かを握りしめた形のままの右手。ほんの一瞬たりとも、その手を開いた記憶はない。ずっと、ちゃんと、なくさないように大事に握りしめていたはずなのに。

 それでも、もしかしたらと、足元に視線を走らせ、周囲を探してみるけれど、やっぱり何もない。乾いた地面の上には、小枝が隠れるような場所もない。

 天の乙女の証である小枝は、流風の元から消えてしまった。

 消えて、なくなってしまった。


 ――――そんな、どうして?


 全力疾走した後よりも、心臓は激しく脈打っていた。膝が、ガクガクと震える。

 天の乙女でなくなったら、流風はただの女の子になってしまう。美少女でもない、成績がいいわけでもない、運動が得意なわけでもない、何の取柄もない。平凡で、つまらないただの女の子。

 どう頑張っても、舞台の上になんて立てるわけがない、観客席がお似合いの女の子。

 脇役にすらなれない女の子。

 でも、それでも。二人で森を冒険したあの時間は本物だと、冒険を通じて相棒としては間違いなく認められたはずだと、これまで二人で積み上げてきた時間を信じて、縋るようにキリーを見つめようとした。なのに。それすらも、許されなかった。

 視線の先には、誰もいなかった。

 騎士も、王女も。誰も。

 さっきまで、二人はそこにいて、スポットライトを浴びて見つめ合っていたはずなのに。

 ほんの少しよそ見をしている間に、次のシーンが始まって、舞台袖に引っ込んでしまったみたいに、誰もいない。

 誰もいなかった。

 呆然としながら、流風は振り向いた。誰かに肩を叩かれたような気がしたのだ。

 二人は、すぐに見つかった。

 お城の入り口で、寄り添うように立って流風を見ている。キリーの手が、王女の肩を抱きよせていた。


「あなたの勇気に感謝します」

「ルカ、君の勇気に感謝する」


 遠くから二人の声が聞こえてきた。

 頭上から、光が降り注いでくる。

 二人からの感謝の言葉は、氷礫のように流風を貫いていった。

 どうやら物語の最終幕で、舞台の上には戻って来ることは出来たようだ。

 異世界の森の物語の最終幕。役目を終えて、天へと帰る乙女のシーン。

 たとえフラれても、勇気を出して告白しようと、あんなに心に決めていたはずなのに。

 あんなに、流風の心を温めてくれた、キリーからの勇気を称える言葉は、今はただ虚しく響くばかりだ。

 期待と不安の天秤が、ユラユラ揺れたままの自分だったなら、思いが叶わなかったとしても、「そんなことだと思った」と自嘲しながら、それでも二人を祝福できたかもしれない。「恋のヒロインってガラじゃないよね」なんて、自分で自分を慰めて、それでも、勇気を認めてもらえたことを誇りに思えたはずなのだ。

 元の世界に戻ったら、その「勇気」でもって、綺璃亜との仲を深めて綺璃亜の殻を壊すのだと前向きになれたと思うのだ。

 なのに、今は心の中のどこを探しても「勇気」なんて見当たらない。

 何かに、裏切られた気分だった。

 なんだか分からない何かに。

 だって、望みは叶うはずだったのだ。

 番人の丸太人形が、それを保証してくれたのだと信じた。

 だから、流風は望みをかなえるために全てを失う覚悟を決めた。

 覚悟を決めて、誓いを立てた。

 望みは叶うはずだった。

 それなのに。


 ――――どうして? どうしてなの? あの丸太兵士は、嘘をついたの? それとも、あたしが勝手に勘違いしただけなの? 本当は、天の女神の使いじゃなくて、森の王の手下だったの? あたしが勝手に騙されて、契約の実を取られちゃったの? でも、キリーは何にも言わなかった。あたしを止めたりしなかった。じゃあ、なんで? どうして? どうして、こうなったの? 何が悪かったの? あたしは、何を間違えたの?


 答えは、キリーが教えてくれた。

 それは、とても、残酷な答えだった。


「ありがとう、ルカ。契約の実を三つ全部手に入れた乙女だけが、王女の代わりの贄となり得る」

「ありがとう、天の乙女よ。あなたのおかげで、私はキリーと結ばれることが出来る」

「君の勇気に感謝する」

「あなたの勇気に感謝します」


 優しい笑みを浮かべ、仲睦まじく寄り添いながら流風を見つめる騎士と王女。

 言いたいことはいろいろあるのに、胸の中をグルグルと駆け巡るばかりで、どれも言葉にはならない。


 ――――何、それ? あたしは、キリーに騙されたの? あたしは、王女様の代わりの生贄ってこと? 天に帰るって、日本に戻るって意味じゃないの? すべてを捧げる勇気って、そういう意味だったの? なんで? どうして? どういうこと? たまに優しかったのも、全部嘘だったの? あたしをその気にさせるための、嘘だったの? 感謝なんて、いらない。そんな感謝は、欲しくない。勇気、勇気…………勇気なんて……。王女様の代わりに生贄になるなんて、そんな、そんな勇気……。そんな勇気は、あたしには、ないよ…………っ。生贄なんて、そんなの嫌だよっ。


 冷たくて大きな塊に、心が押しつぶされていく。

 念願の舞台に上がれたのに、ちっとも嬉しくなかった。

 天の乙女だなんて言われて浮かれて、騙されて。身代わりの生贄にされる哀れで惨めな女の子の役なんて、やりたくない。こんなことなら、観客のままでいた方が、よっぽどマシだった。

 光が。光が流風の上に降り注いでくる。

 降り注ぐ光は、どんどん強くなっていく。

 上を見上げると、天井に大きな穴が開いていた。光は、そこから降って来る。流風の頭上へと、降って来る。

 いよいよ、天に召されるのだろうか?

 そう思ったら、光が急に翳った。黒くて大きな手が、天井の穴から流風めがけて、ゆっくりと降りてくるのが見えた。


 ――――ああ…………。本当に……? いや、いやだ。いやだよ……。こんなの、いやだ。助けて、綺璃亜先輩…………!


 流風の最後の祈りを搔き消すように、黒い手の向こうから、場違いに楽しそうな声が降ってきた。聞いたことのある声。よく知っている声。


『偽物との恋愛ごっこは、楽しかった? 流風?』


「…………萌流……水…………?」


 掠れた呟きが転げ落ちる。

 同時に、忘れていたことを思い出した。

 異世界の森にやって来る前のこと。元の世界にいた時のこと。

 学校にいた時の、出来事。

 忘れていたことを、全部思い出した。

 音楽の授業の後、萌流水に相談があるからと図書室へと誘われたこと。放課後、萌流水とともに訪れた図書館で、ゼリービーンズを振舞われたこと。真面目な萌流水が堂々と校則違反をしていることに驚きつつも、空気を読んで、誰も見ていないことを確認してから、黄色の一粒を口にしたこと。

 それから。それから……?


 ――――ああ、そうか。ここは、萌流水のつくった世界なんだね?


 どうして、そんなことが出来るのかは、流風にはどうでもよかった。

 なぜ、そんなことをしたのかは、聞かなくても分かった。分かってしまった。

 今更、ようやく、気づいてしまったから。


 図書室は、北校舎の三階、西の一番端にある。そして、流風が綺璃亜と秘密の約束をしたのは、北校舎の裏。西の角の傍だ。

 きっと、萌流水は見てしまったのだ。

 あの日、あの時。図書室の窓から。

 流風が綺璃亜に、水色のゼリービーンズを食べさせてもらったところから、全部。

 流風と綺璃亜の思い出を上書きするかのようなキリーの行動。あれは、正真正銘、二人の思い出を上書きするためだったのだろう。

 萌流水に見られていたとも知らず、一人だけ綺璃亜との絆を繋いで浮かれていた流風に思い知らせるために。

 ひどいことをされたのに、不思議と怒りは湧いてこなかった。

 だって、分かるから。

 萌流水も、今の流風と同じような気持ちを味わったのだ。

 足元が全部凍りついて、粉々に砕け散って、冷たい空間に一人だけ取り残されたような、悲しくて寂しい絶望感。 舞台の上でスポットライトを浴びるヒロインから、ただの観客へと引きずり落される惨めな気持ち。

 萌流水は見たのだ。

 水色のゼリービーンズの一件だけではない。音楽室へ行く途中の、綺璃亜から流風への合図も、見てしまったのだろう。

 たぶん、あれが萌流水の引き金を引いたのだ。

 だから、このタイミングだったのだろう。北校舎裏で秘密の約束が交わされたのは、一か月ほども前のことだ。もしかしたら、萌流水がイメージチェンジを図ったのは、少しでも綺璃亜の気をひきたかったからなのかもしれない。他のみんなが、萌流水に注目したように、綺璃亜もまた萌流水の存在に気づいてくれるかもと、そんな期待をしたのかもしれない。でも、その期待は裏切られてしまった。誰もが流風を通り過ぎて萌流水を見つめたのに、綺璃亜だけは違った。萌流水が一番求めていた綺璃亜は、萌流水には気づかずに流風だけを見つけてくれた。綺璃亜は、萌流水のことを全く気に留めた様子がなかった。あれだけ綺麗な自分の顔を毎日鏡で見ているのだから、実際、興味がなかったのかもしれない。萌流水は確かに綺麗になったけれど、綺璃亜の美しさには到底及ばないのだから。

 流風を天にも昇るような気持ちにさせたあの出来事は、萌流水を地の底まで突き落としたはずだ。期待を抱いていただけに、よりいっそう、叩きのめされたはずだ。

 さっきの流風のように。


 涙が頬を伝い落ちていくのを感じながら、迫りくる黒い手を見つめていた。

 悲しみはあるけれど、なぜか恐怖はなかった。

 すべてを企てたのが萌流水ならば、命まで取られることはないはずだからだ。あの手は、終わりの合図。流風の、流風にとって都合のいい夢が、終わりを告げる合図。

 あの手に包まれたら、流風は夢から醒めて、現実に戻るのだろう。

 だから。寂しいけれど、悲しいけれど、辛いけれど、怖くはなかった。

 ただ、静かに終わりの時を待つ。

 大事にしていたものを、全部失ってしまった。流風が大事にしていたもの、萌流水が奪いたかったものは、すべて流風から失われてしまった。流風の宝物は、キラキラとした輝きを失ってしまった。

 これからは、もう。水色のゼリービーンズを眺めて、幸せな気分に浸ることはない。ツキンとした、冷たい悲しみを感じるだけなのだろう。

 でも、それでも。冷たい水のような悲しみに浸されながらも、どうしようもない絶望感は、今は遠ざかっていた。

 すべてを仕組んだのが萌流水なのだと知ったからこそ。その引き金を引いたのは、他でもない自分なのだと分かったからこそ。

 再び芽生えた、小さな望み。

 キリーが、萌流水のつくり上げた幻の存在だったとしても。キリーに恋をした流風の想いだけは本物だったと信じたい。告白は出来なかったけれど、それでも、せめて。その気持ちだけは、なかったことにはしたくない。

 たとえ偽物でも、偽りの恋でも。

 この気持ちだけは、本物だと信じることにした。キリーが流風の心にもたらしてくれたものは、否定したくない。

 だから、もう一度、バラバラに散った勇気の欠片を集めることにした。勇気を集めて、捨てたはずのもう一つの願いだけでも、叶えようと思った。

 一番の願いが叶わずに元の世界に戻ることになったら、その時は……と誓った流風のもう一つの願い。

 みんなの前で、綺璃亜に声をかける。綺璃亜とみんなの絆を繋ぐ、懸け橋となる。萌流水とは、これまでみたいには、付き合えないかもしれない。でも、一番真っ先に、綺璃亜と萌流水の間に橋を架けたいと思った。綺璃亜に萌流水を、自分の一番の親友ですって紹介したかった。萌流水が、どう思っていたとしても、強引にでもそうしたかった。

 このまま、ただ仲たがいをしてしまうよりは、マシな未来が訪れる気がした。

 何よりも、キリーとの冒険で流風が手に入れたものを、本物にしたかった。キリーと出会ったからこそ、元の世界でも勇気を出して一歩を踏み出そうと、そう思えたのだ。

 キリーが幻の存在だと知ったからこそ、この想いだけは“本当”にしたかった。

 せめて想いだけでも、“本当”にしたかった。


 ――――幻の存在でも、嘘の世界でも、あたしがキリーを好きになったこの気持ちは、本物だから。キリーからもらった勇気を、誓いを、なかったことにしたくない。


 しかし、そんな微かな希望を抱くことすら、萌流水は許してくれなかった。

 楽しそうな笑い声とともに、さらなる残酷な言葉が降って来る。


『安心して、流風。これは、ただの夢。夢みたいなもの。ここで起こったことは、目覚めたら全部忘れちゃうから。偽物と二人で楽しく森を冒険したことも、叶うはずがないことも知らずに分不相応な夢に現を抜かしたことも。それから、流風にはお似合いの残念な結末も? ふふ、全部、起きたら忘れてしまう夢みたいに、ううん。夢を見たことすら、忘れちゃうから。だから、安心して?』


「……………………え? なん……で。そん……な…………」


 見上げていた視線が、自然とお城の入り口へと流れる。

 二人はまだそこで、寄り添いながら流風を見つめていた。

 二人の姿が、滲む。

 その代わりのように、これまで流風の心を惑わし、掻き乱してきたキリーとの思い出が、鮮やかに浮かび上がってくる。

 水色のゼリービーンズと、冷たい瞳。

 白いリボンを結んでくれた、しなやかで逞しい腕。

 黄色い一粒と、拗ねたような態度。

 永遠を誓い合う恋人同士の儀式のようだった、赤い実の契約。キリーに見つめられながら飲み込んだ、甘くて熱い、赤いゼリービーンズの実。胸の奥に、炎の花が咲いたようだった。

 背中を押してくれた手のぬくもり、掴まれた手首の熱。

 キリーとの冒険の中で育まれた、勇気を出すための勇気。

 視界が滲めばにじむほど、思い出は、より鮮やかにクリアに蘇る。

 でも、それも全部、もうすぐ消えてなくなってしまう。

 弾けて消えた、シャボン玉のように。

 目覚めた後の夢のように。

 夢の内容どころか、夢を見ていたことすら、忘れてしまう。


 二人の姿は、もう見えなかった。小枝の上で輝きを発していたゼリービーンズのように、滲む視界の向こうに、青く輝く小さな光が見えるだけ。

 悲しみは、凍り付く寸前の冷たいさざ波のように、何度も何度も襲い掛かってきた。頭のてっぺんまで浸かり切ってしまえば、冷たさに麻痺していくのを待つだけなのに。寄せては引いて、引いては寄せてを繰り返し、流風を苦しめる。

 壊れてしまいそうに、辛い。

 けれど、その壊れそうなほどの辛ささえも、全部まとめて忘れてしまうのだという現実の方が、もっとずっと残酷だった。

 これ以上のひどい事なんてあるわけないと思うほどなのに。

 なのに、萌流水は。

 さらに、それ以上を望んだ。


『流風、わたしね。悪魔様と契約をしたの。綺璃亜先輩みたいな、悪魔的な力を手に入れるために。誰かの魂を捧げるのと引き換えに、わたしは悪魔的な力を手に入れることが出来るの。それでね、流風。悪魔様はね、絶望が特にお好みみたいなの。だから、流風の絶望は、悪魔様が全部食べてくれる。偽物との恋愛ごっこだけじゃなくて、綺璃亜先輩との思い出ごと、全部、根こそぎ。水色のゼリービーンズのことも、白いリボンのことも全部忘れて、また明日からのん気に生きていくといいわ』


 濡れた瞳をこれ以上ないくらいに見開いて、天井を見上げる。

 黒い手は、もうそこまで迫ってきているはずなのに、何も見えない。

 真っ白に濁って、何にも見えない。


 ――――白いリボン……。そっか、あの時から、もう種は、蒔かれていたんだ……。


 白いリボンにまつわるエピソード。まだ、一年生だった時に、流風が綺璃亜先輩を好きになった切っ掛け。秘密にしておきたかった。流風だけの何かが欲しかった。だから、萌流水には何も話さなかった。白いリボンのことは、流風だけの秘密だった。流風が綺璃亜を好きになったことに、白リボンが関係していることを、萌流水は知らないはずだった。でも、頭のいい萌流水は、何があったのかは薄々察していたのだろう。

 あの時に、全てを打ち明けていれば、こんなことにはならなかったのだろうか?

 リボンのことも、ゼリービーンズのことも、二人で共有していればよかったのだろうか?

 こんな風に、すべてを失わずに済んだのだろうか?


『そうしたら、これも、もういらないよね? 私が処分しておいてあげるわね、流風』


 真っ白に濁った視界の向こうから、また声が落ちてくる。同時に、頭の上で、シュルリと何かが解ける気配がした。


 ――――え?


 驚いて何度か瞬くと、熱い雫が零れ落ちて、少しだけ視界がクリアになる。

 ヒラヒラと、龍のように身を翻しながら天に昇っていく白いリボンが見えた。

 流風と綺璃亜の、始まりの象徴である白いリボン。

 家に帰れば、似たような白いリボンはいくつもある。でも、そういうことではない。そういうことでは、ないのだ。

 追い縋るように伸ばした空っぽの手の先で、白いリボンは、天から迫りくる黒い手の中に吸い込まれていく。黒くて冷たい水たまりの中に、落ちて沈んでいくように。

 飲み込まれていく。

 本当に失くしてしまうのだと、思い知らされた。

 はっきりとした実感を伴って、思い知った。

 きっと、萌流水は流風の白リボンを見る度に、黒くてモヤモヤした気持ちに苦しめられてきたのだろう。ずっとずっと、その気持ちを積み上げて来ていたのだろう。何でもない顔をしながら。何でもない顔の裏で。何にも気づいていない流風のことを、どう思っていたのだろう。


 ――――言ってくれれば、いいのに。聞いてくれれば、よかったのに。こんな風に、なる前に。萌流水が聞いてくれれば、そうしたら、あたしは…………。


 きっと。萌流水も流風を裏切ったけれど。流風も、気づかない内に萌流水を裏切っていたのだろう。

 萌流水に向けての今さらの叫びは、声にはならなかった。世界は凍り付いているのに、喉の奥には熱い塊が詰まっていて、それは声にはならなかった。

 それに、それが萌流水なのだと、流風には分かっていた。

 本当は知りたいのに、本当は聞きたいのに、プライドが邪魔をして聞けなかったのだろう。


 ――――親友だと思っていたのは、あたしだけだったのかな。萌流水は、はぐれものの外来星がいらいせい同志だから、一緒にいただけ、だったのかな。


 黒い手が、また曇って見えなくなっていく。

 冷気が、近づいてくる。

 終わりの時が、いよいよそこまで迫っている。

 最後に胸に浮かんだのは、綺璃亜のことだった。


 ――――せっかく、少しだけ打ち解けたと思ったのに。全部、忘れたら、あたしは。綺璃亜先輩のことを、綺麗だけれど怖いと思っていた、あの頃のあたしに戻っちゃうのかな? 綺璃亜先輩のことを、本当の悪魔みたいに思っていた、あの頃のあたしに。


 胸の奥が軋みを上げる。


 ――――そうなったら、あたし。次に綺璃亜先輩が、合図を送ってくれた時に、ひどい態度を取ったりしちゃわないかな? せっかく、綺璃亜先輩が心を開いてくれたのに、傷つけちゃったり、しないかな……。それは、そんなのは…………。


 忘れてしまうことも辛かった。けれど、それよりも。

 流風がすべてを忘れてしまったせいで、綺璃亜を傷つけてしまうかもしれないという、そのことが。

 もっと、ずっと、辛かった。

 せっかく、顔を覚えてもらったのに。仲良くなれたかもしれなかったのに。

 勇気を出して、閉ざされていた綺璃亜の世界を広げる手助けをしたいと思っていたのに。綺璃亜と誰かの世界を繋げる、懸け橋になりたいと望んでいたのに。

 なのに。

 その流風が、流風こそが。

 閉ざされていた綺璃亜の世界に、さらに鍵をかけてしまうかもしれないなんて。

 それが、そのことが、一番辛い。

 辛かった。

 凍り付いて半ば麻痺した流風の心に突き刺さり、感じなくなっていたはずの冷たい痛みで、抉るように傷つけてくる。


「嫌だ……。忘れたくないっ……。忘れたくないよぅ…………。傷つけたく……ない……よぅ…………っ」


 嗚咽交じりの訴えが、聞き届けられることはない。

 生垣のお城の中に、悪魔的に楽しそうな笑い声が鳴り響くだけ。

 軽やかに。踊るように。

 悪魔的な望みが叶うその瞬間を、待っている。



 勇気も。

 誓いも。

 白も、水色も。

 キリーへの恋心も。

 綺璃亜との絆も、約束も。

 大切な思い出が全部。

 ありきたりだった萌流水とのこれまでの日常ごと、真っ白に濁っていく。

 真っ白に濁って凍り付いて、もう何も見えない。


 真っ白に濁って、凍り付いて。

 後は、ただ、砕け散っていくだけ――――。


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