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七不思議の悪魔 Side-M①

 扉が閉まる音がして、図書室に残されたのは、図書委員の霧島きりしま萌流水もなみただ一人になった。

 きっちりと結ばれた三つ編みを、紺色のカラーゴムで纏めただけの地味な髪形。融通の利かない、真面目だけが取り柄な優等生の印象が強い。よく見れば、整った顔立ちをしているのに、きっちりしすぎた髪形は、萌流水の清楚な魅力を損なっていた。

 廊下の向こうへと遠ざかっていく足音を聞きながら、萌流水はぼんやりと壁に掛けられた時計を見上げる。

 利用時間終了まで、残りあと5分。

 たぶん、今日はもう誰も来ないだろう。


 萌流水の通う私立星蘭せいらん女子中学校は、所謂お嬢様学校で礼儀作法には少々うるさい。利用時間間際になってから、慌てて駆け込んでくるような生徒は、この学校には存在しない。

 そもそも、廊下を走る生徒が存在しないのだ。特に校則に定めがあるわけではないが、みな廊下の右側を静かに歩く。たとえ、休み時間であっても、大声を出してふざけながら廊下を歩く生徒はいない。生徒の大半は、星蘭女子小学校からの持ち上がりであり、幼いころからそうした教育を受けているため、そうすることが当たり前になっているのだ。

 公立の小学校からの外部受験組である萌流水にとって、入学当初、星蘭女子はまるで異世界のようだった。公立の小学校では、休み時間の廊下は、いつでも騒がしかった。

 ここは、萌流水の知っていた常識とは、違う世界なのだ。驚きはしたけれど、元々大人しい性質の萌流水にとって、それは好ましいものだった。期待外れなことが多い、星蘭女子での学校生活だったけれど、そこだけは好ましく思っていた。


 魂が抜けたような虚ろな表情で、萌流水は時計の針が進むのを眺めていた。予想した通り、誰かがやって来る気配はない。いつの間にか、針は利用時間の終了を指していた。

 受付カウンターを前に座ったまま、スカートのポケットに手を差し入れる。中から赤い小花模様の巾着袋を取り出して、そっとカウンターの上にのせる。

 手のひらサイズの小さな巾着袋。中に、何かがみっちりと詰め込まれていて、パンパンに膨れ上がっている。入り口は、白い紐で固く結ばれていた。

 長くて形の良い指が、器用にそれを解いていく。入り口が寛げられ、中に詰め込まれていたものが顔を覗かせた。

 赤、水色、黄色、緑、紫…………。

 巾着の中には、毒々しいまでに鮮やかなゼリービーンズたちがひしめき合っていた。

 虚ろな瞳が、その内の一粒、ケミカルな水色を捉える。

 体の中に、しんしんと雪が降り積もっていくようだった。その冷たさに、心はすっかり麻痺してしまっていた。

 そっと水色から目を逸らし、白い指先が突いたのは、艶やかな赤色。

 赤い色に炎を連想して、暖を求めたというわけではない。

 艶やかな赤のゼリービーンズは、萌流水の一番のお気に入りだった。

 その色は、司空しくう綺璃亜きりあの悪魔的に美しい唇の色を連想させる。萌流水の一学年上、三年生の司空綺璃亜は、萌流水の憧れの人だった。心酔している、と言っても過言ではない。灰色の学校生活を彩る、ただ一人の存在。その綺璃亜の、悪魔的な唇を思い起こさせる赤いゼリービーンズが、萌流水は一番好きだった。

 それに、赤は、始まりの色でもあった。萌流水がゼリービーンズを好むようになった、始まりの色。

 白い指先が、赤い一粒を突いた。それから、そっと摘まみ上げて、胸の高さまで持ち上げる。見下ろす瞳が、濡れたように光った。

 赤い一粒は、そのまま萌流水の唇の奥へと、押し込まれていった。

 ゆっくりと咀嚼し、喉の奥へと甘さが滑り落ちていくのを、無感動に味わう。

 校内へのお菓子の持ち込みは、校則で禁止されている。

 なのに、真面目な優等生で通っている萌流水が、校則違反のゼリービーンズを校内へ持ち込んでいるのは、綺璃亜がそうしているのを知ってしまったからだ。



 半年ほど前だっただろうか。その日も、萌流水は図書当番だった。

 図書室は、北校舎三階の西の端にある。校舎の北には、西から東へ抜ける人気のない通路と、敷地を取り囲む高いフェンス、その向こうにはブドウ畑が広がるだけだ。換気をするために北の窓を開けて、ほんの少しの間、外に広がるブドウ畑を眺めるのが、当番の時の萌流水のささやかな楽しみだった。その日も、少しだけ窓の外を眺めて和んで、すぐにまた仕事に戻るつもりだったのだけれど、風に誘われるように、なんとはなしに窓の外に顔を出して、下を覗き込んで、そして。

 そして、見つけてしまったのだ。

 萌流水から見てちょうど左下、北校舎裏の通路の、西の角の端。そこで、校舎を背にして、綺璃亜は立っていた。

 綺璃亜はぼんやりとブドウ畑を見つめながら、スカートのポケットから何かを取り出した。白い指の間に、赤く煌めく小さな一粒が見える。萌流水に見られているとも知らず、綺璃亜はそれを、唇の奥へと滑り込ませていった。

 最初は、それが何なのか分からなかった。けれど、どこか毒々しさを感じる鮮やかな色の一粒が、赤、青、黄色と、次々と唇の奥へ消えていくのを見ている内に、気が付いた。

 ゼリービーンズ。

 綺璃亜の食べていたのは、ゼリービーンズだった。

 綺璃亜は、きっとゼリービーンズが好きなのだろう。

 それから、萌流水は。放課後になると、図書室の窓からさりげなく、綺璃亜がいないか確認するようになった。元々本が好きで、当番でなくとも図書室にいることの多い萌流水を、不審に思う生徒はいなかった。

 北校舎の裏は、校内における綺璃亜の憩いの場所なのだろう。人気のないその場所で、校則違反のゼリービーンズをこっそり食べることが、綺璃亜の密かな楽しみなようだった。

 校則違反を先生に告げ口するつもりなんて、もちろんない。

 誰にも秘密にしておきたかった。

 自分だけが知る、綺璃亜の秘密。

 誰とも、共有したくない。

 自分だけが知っていればいい。


 それくらい――――。


 それくらい、萌流水にとって、綺璃亜は特別な存在だった。

 その悪魔的なまでの美貌だけに惹かれているわけではない。その美貌よりも、むしろ――。

 萌流水と同じような立場でありながら、萌流水とは別の道を選び、何でもないような顔をしているその在りようにこそ、萌流水は惹かれた。

 萌流水にとって、綺璃亜は。

 憧れであり、救いであり、慰めであり、つまらない灰色の毎日に彩りを与えてくれる、一筋の光だった。



 萌流水も綺璃亜も、中学からの外部受験組だった。

 生徒たちの間では、小学校からの持ち上がり組は「純血星じゅんけっせい」、中学からの外部受験組は「外来星がいらいせい」と呼ばれている。純血種と外来種をもじったのだろう。萌流水は、この呼び名があまり好きではなかった。

 全員が、というわけではないが、純血星たちは、少々選民意識が強く、人より優れたところのある外来星を快く思っていない。ここ星蘭女子では、出る杭ならぬ、出る外来星は打たれるのだ。勘の鋭いところがある萌流水は、入学して間もないうちに、敏感にそのことに気づいた。だから、なるべく目立たぬよう、ハーフアップにしてリボンを結んでいた髪を、地味な三つ編みに変えた。それだけではない。テストの時にも、間違ってもトップをとったりしないように、少し手を抜くようにしていた。

 同じ外来星でありながら、平凡で鈍感なところがある友人の流風ならば、気にしすぎだと笑うだけだろう。けれど、不満や煩わしさを感じつつも、それでも最低限の平穏な学校生活を送れているのは、入学して間もないあの時、正しく「空気を読んだ」おかげだと確信している。

 そんな、仮初の平穏のために爪を隠すことを選んだ萌流水とは対照的に。偽りの馴れ合いを捨てる代わりに、ありのままの自分でいることを選択したのが綺璃亜だった。

 誰もが認めざるを得ない群を抜いたその美貌を隠すことなくさらけ出し、おまけに、成績は常にトップ。その代償として、綺璃亜は常に孤立していた。友人と呼べるような存在はいないはずだ。いつ見ても、綺璃亜は一人だった。けれど、そのことに引け目に感じている様子はなかった。

 孤立させられているのではない。自分の方が切り捨てたのだと言わんばかりの態度は、いっそ小気味がいいほどだった。

 容貌だけでなく、魂の在りようまでが悪魔的に美しいのだと、そう萌流水は思っていた。

 それこそが、綺璃亜の魅力だと思っていた。

 誰とも慣れ合わず、ずっと孤高を貫いてほしかった。

 自分を含めて、この学校には綺璃亜に相応しい人間なんて一人もいない。

 誰とも慣れ合ってほしくない。たとえ、萌流水自身であっても、慣れ合うなんてありえない。

 誰のことも必要としない。孤高であってこその綺璃亜なのだ。


 それなのに――――。


 スカートの上からそっと振れるだけで心が浮き立った、お守りがわりですらあったゼリービーンズを、無感動に見下ろす。

 校則違反のそれを、巾着に詰めてスカートのポケットに忍ばせていたのは、綺璃亜の真似をしたかったからだ。そうすることで、遠くの存在である綺璃亜との繋がりを感じられた。親しくするなんてとんでもないことだけれど、これくらいは許されると思った。

 綺璃亜が卒業した後のことを思うと憂鬱だったけれど、これがあれば、一年くらい乗り切れると思った。

 思っていたのに。

 今は、よそよそしい冷たさしか感じない。

 ――――感じられなかった。


「…………どうして。よりにもよって。どうして、流風るかなの……?」


 掠れた呟きとともに、涙が零れ落ちた。

 熱い雫が頬を濡らす。

 この水色がすべてなくなってしまえば、全部なかったことにならないだろうか――?

 ふと、そんな思いが心をよぎる。

 本気でそんなことが起こると信じているわけではない。でも、どこか祈るような気持ちで、ケミカルな水色を摘まみ上げる。けれど。

 萌流水の願いが、叶うことはなかった。

 萌流水の願いを拒絶するかのように、水色は指先をすり抜けていった。カウンターの上を軽く跳ねながら、床の下へと転がり落ちていく。


「あ!」


 萌流水は、慌てて立ち上がった。

 とにかく回収しなくてはという思いだけで、カウンターの外へ周り床の上に目を走らせる。

 水色は、カウンターの手前にある閲覧机の下を潜り抜けて、その先の本棚の手前にポツンと転がっていた。

 すぐに見つかったことに胸を撫でおろし、急いで本棚の前へ向かうと膝をついてしゃがみ込み、ケミカルな水色を拾い上げる。

 無事に回収してほっと一息ついたところで、涙が溢れ出てきた。

 予期せぬ水色との追いかけっこで、凍り付いていた心が、一気に動き出したかのように。

 ケミカルな水色が逃げるように指先をすり抜けていったことも、ショックだった。

 ずっと、お守りのように思っていたのに。

 それにすら拒絶されたようで。自分を否定されたようで。

 胸の奥が、軋むように痛い。


「どうして……? どうして、流風なの……? わたしじゃなくてもいい、でも、どうして、流風なの? せめて、ほかの子なら、まだ、よかったのに…………っ」


 手の中の水色をきつく握りしめる。指先が白くなるほどに、きつく、強く。

 絞り出すような声は、途中ですすり泣きに変わった。


 最初に綺璃亜を好きになったのは、萌流水の方だった。

 クラスメイトで友人でもある流風は、初め綺璃亜のことを「怖い感じがして苦手だ」と言っていたのに。いつの間にか「綺璃亜先輩は、本当は優しい」などと言い始めて、綺璃亜を目で追いかけるようになった。

 困っている下級生を助けているところを見たというのがその理由だったけれど、何を見たのかまでは詳しく教えてくれなかった。ちょうどその頃から、流風は今ではトレードマークとなった白いリボンを愛用するようになったので、おおよその見当はついている。木に絡まったリボンを取ってあげたとか、そんなところなのだろう。

 予想はついたけれど、隠し事をされたのは気にくわなかった。

 萌流水だって、綺璃亜の悪魔的な魅力に気付かされ、魂を打ち鳴らされた時のことは、流風には話していない。でも、それは、流風のせいだ。そもそも流風は、萌流水の話に大して興味がある風ではなかった。萌流水としては、別に秘密にするつもりはなかったのだ。霧が晴れて視界がサァッと明るくなったようなその感動を、流風にくらいは教えてもいいかと思っていたのに。綺璃亜の悪魔的な魅力について語っている途中、まだ核心まで至らない内に、萌流水は気づいてしまったのだ。流風が、まるで話に乗ってきていないことに。この子には、綺璃亜の魅力が分からないのだなと理解して、萌流水はそれ以上話すのを止めたのだ。

 なのに。その時は、まるで気がなさそうな素振りをしていたくせに。興味はないまでも、萌流水の綺璃亜への想いは知っているくせに。流風は流風で、萌流水の知らない綺璃亜の一面を見つけてきて、好きになったなんて、報告だけはして。『萌流水は悪魔的だっていうけれど、綺璃亜先輩は、本当は優しいんだよ』なんて、偉そうに言いだして。そのくせ、何があったのか、どうしてそう思うようになったのか、詳しいことは話さないのだ。それが、ひどく気にくわなかった。

 だから、今度は秘密にした。萌流水も、秘密にすることにした。

 図書室の窓から見たことは、今度は流風には話さなかった。何一つ。綺璃亜はゼリービーンズを好んでいるらしい、ということすらも。

 萌流水だけの秘密にした。


 それなのに。


 まただ。また、やられた。

 しかも、今回は。前よりも、ずっとひどい。

 最初に。最初に見つけたのは、萌流水の方だったのに。

 それは、萌流水だけの秘密のはずだったのに。

 あっさりと、それを踏み越えてきた流風。

 萌流水だけの秘密は、萌流水だけのものではなくなった。なくなってしまった。

 それなのに、流風は。後から来たくせに、またしても自分だけの秘密を手に入れたのだ。

 綺璃亜の手により、流風の口の中へ放り込まれたケミカルな水色。その時、綺璃亜はどんな顔をしていたのだろう。何か、話しかけてもらえたのだろうか。綺璃亜は、何と言っていたのだろうか。

 どうしようもなく、気になる。何としても、それを知りたい。

 けれど、それは流風だけの秘密なのだ。最初の時のように、流風がそれを萌流水に教えることはないだろう。

 せめて、あれが流風でなかったなら。萌流水の知らない誰かだったなら。こんなにも、心を乱されることはなかったのに。

 こんな風に。真冬の最中、凍り付いた平原に、たった一人で取り残されたような気持ちにさせられることは、なかったのに。

 萌流水と同じ外来星でありがながら、全てにおいて平均以下であることが幸いして、のほほんと平和に学校生活を送っている流風。その人並外れた鈍感さのおかげで、純血星と外来星の間に潜む確執にも、友人を気取っておきながら萌流水の鬱屈にも気づいていない流風。萌流水と違い、お守りになんか頼らなくても、楽しい学校生活を送っているくせに。一人で勝手に、学校生活を楽しんでいるくせに。何の拠り所も必要としていないはずの流風が、萌流水が大切にしていたものを踏みにじっていくのが、何よりも許しがたく、耐えがたかった。


 萌流水にとって、お守りであり、ラッキーアイテムでもあったゼリービーンズ。

 けれど、もう。萌流水がゼリービーンズを見て、心を浮き立たせることはないだろう。見ればどうしても、今日のことを思い出してしまう。思い出して、冷たくてザラザラした気持ちにさせられるだけだ。

 心の拠り所を失ったような、どうしようもない絶望感。

 どんどん雪が降り積もっていく。真っ白に濁って、何も見えなくなる。


 もう、いっそ。このまま全部、凍り付いてしまえばいい。


 そう思った刹那――。


「―――――――――!!」


 萌流水は、片手で胸を抑えてその場に蹲った。

 ケミカルな水色が、また床の上を転がっていくが、その行方を追う余裕もない。

 息を荒げて、怯えた様子で、目だけを動かして周囲の様子を窺う。

 そこには、何もいない。

 何も、見えない。

 けれど、萌流水は確かに感じていた。

 悲しみに、真っ白に濁り行く萌流水の心臓を掴み取ろうとした、黒く澄んだ冷たい何か。

 黒くて冷たい手のようなものが、萌流水の心臓を掴み取ろうとして、その直前で弾かれた……ように感じた。

 全身に、鳥肌が立っていた。

 気のせいとは、とても思えない。

 黒くて冷たい異質な何かは、まだ萌流水を狙っているようだった。

 背筋をゾクゾクさせる何かが、まだそこにいる。

 そこにいるのが、分かる。

 そこにて、まだ萌流水の心臓を狙っているのだ。

 いや、狙っているのは心臓ではないのかもしれない。

 ふと脳裏に思い浮かんだ言葉がある。


 ――――七不思議の、悪魔……?


 星蘭女子にも七不思議はある。

 大半は、ひとりでに鳴りだすピアノだとか、動く彫像だとか、どこにでもあるような話だ。七不思議なんて子供っぽいと思っていたけれど、その中で一つだけ、萌流水の興味を引くものがあった。


 魂を食べる、悪魔の話。


『星蘭女子には、悪魔が棲んでいて、悪魔に魂を食べられると、人形にされてしまう。学校のどこかに、悪魔に魂を食べられた生徒の人形を集めた部屋がある』


 そんな内容。

 思い出したせいで、想像してしまった。

 秘密の隠し部屋の中に、ズラリと並んだ青いセーラー服を着た人形たち。その内の一体が、自分そっくりの顔をしているところを、想像してしまった。

 ついさっき、胸の中にそっと差し込まれた、真っ黒に透き通った氷のように冷たい手。

 その感触が、まだ残っている。

 震える唇から、微かな声が零れ落ちる。


「そんなの、嫌……。助けて、誰か…………」


 震えながら助けを求める萌流水に、答える声はない。

 波紋を描くように揺れている、冷たい気配だけが、そこにある。

 一人取り残された、放課後の図書室で。

 萌流水を見つめているのは、姿なき――――。


 七不思議の悪魔だけだった。


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