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Side-R① 異世界の森で悪魔的に美しい騎士と出会いました。

 なんだか、甘酸っぱいような、不思議な感覚がしていた。

 足元が、ふわふわしている。

 お祭りで買った、綿菓子の上に立っているみたいな。

 どこか、夢見心地な気分。

 ほんのり冷たい風が、首元を通り過ぎていった。

 ぼんやりするなと叱られたような気がして、流風はようやく。

 我に返った。

 授業中の居眠りから、目覚めた時のような感覚。

 パチパチと瞬きながら、顔は動かさずに、視線だけで状況を確認する。


 なぜか、鳥の鳴き声が聞こえた。羽ばたきも聞こえる。それから、さわさわと風が木の葉を揺らす音。

 忙しなく動かす視界の中に飛び込んでくるのは、鮮やかな緑と光の洪水。

 さわさわざわざわと音がするたびに、キラキラと陽光を反射して、少し眩しい。

 瑞々しい緑の隙間からは、透き通るような青い空が見えた。


「森の、中……?」


 不思議そうに呟いて、流風るかは、右へ左へと首を動かした。

 とりあえず、授業の最中というわけではなさそうだった。先生の姿も、流風以外の生徒の姿も見当たらない。

 見知らぬ森の中……の、背の高い木立が周りをぐるりと円を描いて取り囲む、小部屋のような空間。その真ん中あたりにいるようだった。周囲を囲む木立の枝葉が、中央にせり出すように伸びているため、自然のドームのようでもある。

 とても、素敵な場所だった。

 風は心地よく、天気もいい。絶好のハイキング日和だ。

 日和なのだが、一つ、大きな問題がある。


「え? なんで、あたし、こんなところにいるの? さっきまで、学校にいたはずだよね?」


 そう。問題は、そこだった。

 記憶によれば、流風はさっきまで学校にいたはずだったのだ。確か、図書室に行ったはずだった。放課後、親友の萌流水に付き合って、図書室へ行って、それで…………。


 ――――それで、どうしたんだっけ?


 そこから先が、どうしても思い出せない。

 けれど、学校の外には出ていないはずだ。

 確認するように、自分の体を見下ろす。

 鮮やかな青色の、少しクラシカルなデザインのセーラー服。よく見慣れた、流風の通う私立星蘭女子中学校の制服だ。スカートの丈は、校則に定めのある通りの、膝下五センチきっちり。さらに目線を下げると、青い蘭の刺繍が施された、学校指定の白ソックスが目に入り、それを包み込んでいるのは、白地に青いラインの入った……間違いなく、上履きだ。

 薄っすらと下草の生えた地面の上に、制服に上履きのままで立っている。


「上履きのままってことは、やっぱり学校の中にいたってことだよね? それが、なんで、こんなことに……?」


 ポニーテールを結んでいる白いリボンを、無意識のうちにきゅっと結びなおす。それは、流風の癖のようなものだった。そうすると、少し心が落ち着くのだ。

 落ち着いたところで、流風はようやく、自分のすぐ目の前にあるものに気が付いた。

 目を見張って、それを見つめる。


 流風の胸のあたりほどの小さな木が、氷漬けになっていた。

 少し腰をかがめて顔を近づけると、ヒヤリと冷気を感じた。慌てて、顔を離す。

 落ち着かない仕草で、また白いリボンを結びなおす。

 空を見上げ、左右を見渡し、それから再び氷漬けの木に視線を戻す。

 氷がキラリ、と陽の光を跳ね返した。


「え? なんで、凍ってるの? 風はちょっと涼しい感じだけど、真冬にも南極にも程遠い気温だよね? しかも、日もあたってるし。冷凍庫から出してきたばかりですばりに凍ってるんだけど! どこにも冷凍庫とか見当たらないのに!」


 白リボンの輪っかのところを両サイドからきゅうきゅうに引っ張る。白リボンの悲鳴が聞こえてきそうなくらいに引っ張ってから、流風はようやく頭から手を降ろす。そして、おろしたばかりの右手の人差し指を、恐る恐る氷漬けの木へと伸ばしていく。

 指の先が、つんと氷にあたって冷たさを感じた瞬間。

 シャアン、と澄んだ音が響いた。

 氷が、氷だけが。木はそのままで、氷の部分だけが、砕け散った。砕け散って、鮮やかな水色に輝く光の粒子となって、森の奥へと流れていく。


 ――――」う、わ。森の天の川、みたい……。色が水色なのが、本物の川っぽいな。水のお星さまが、川になって流れているみたいっていうか。うん、やっぱり、森の天の川だ、これ……。


 現実とは思えない光景に、流風はさっきまでの疑問も忘れて、光の粒がドームの外へ流れていく様子にうっとりと見入っていた。


 水色に輝く、森の天の川が流れ出ていったあとのドームには。

 流風と、さっきまで氷の中にあった木だけが残された。流風の胸のあたりほどの小さな木は、ついさっきまで氷の中に閉じ込められていたのが嘘のように、柔らかく瑞々しい若葉を生い茂らせている。

 まるで、魔法の呪いが解けたかのように。


「はあ、いいもん、見た……けど。この、そこはかとなくファンタジックな展開。…………もしかして、ここって、異世界の森かなんかだったり、する……? …………い、いやいやいや。ま、まっさかねえ!?」


 余韻に浸りながらため息をつき、それから。

 真顔でポツリと呟いてからの、片手を激しく横振りしながらの全力否定。


「いや、でも待てよ?」


 その手が、ピタリと止まった。

 手を斜めに振り切った姿勢のまま、考察を始める。


「学校の図書室にいたはずなのに、だよ? 気づいたら、なぜか知らない森の中だったんだよ? しかも、全然寒くないのに氷漬けの木があったりとか。その上、ちょっと突いただけで、魔法的に解凍されて、森の天の川が出来ちゃうとか、さ。現実ではありえない。つまり、そんなの、もう、ファンタジーの世界だよね? なんでだかは分かんないけど、ファンタジー系異世界の森に連れてこられちゃったとしか思えないよね? 今の状況を説明できる理由、他になくない?」


 口に出してみると、もう、そうとしか思えなくなってきた。

 見知らぬ森に一人でいることへの不安は、まるで感じていなかった。

 むしろ、ワクワクしている。

 何か素敵なことが起こりそうな、不思議な高揚感が足元からじわじわと湧き上がってくる。

 頬を紅潮させながら、流風は白リボンを両手で掴むと、きゅっきゅと絞めていく。

 元の世界にいた時は、絵に描いたような平均点少女だと自覚していた。妄想の世界以外で、自分の人生においてスポットライトを浴びることなんて、一生起こるわけがないと、どこかであきらめていた。

 けれど、ここが異世界なら。つまり、自分は何かに選ばれて召喚的なことをされてしまったわけで。だとしたら、もしかしたら。特別な力を授かったりしているのではないのだろうか?

 こう、何か。魔法と冒険の物語の主人公的な感じで。

 だって、現に。指の先で突いただけで、氷の魔法が解けてしまった実績があるのだ。

 否が応でも期待が高まる。

 平凡だと自覚しているがゆえに、『異世界に呼ばれた特別な少女』というフレーズが、心をくすぐってくる。


「そうすると、この木はやっぱり、なにか重要なイベントに関係してくるやつだよね? って、あれ? この水色のって、もしかして、実なのかな? 水色の実って珍し……い?」


 ゲームでもしているような気分でうきうきと、さっきまで氷漬けにされていた木に注目する。

 それで、気がついた。

 柔らかい色の若葉に隠れるようにして、水色の実が、いくつか生っていることに。

 ケミカルな水色をしたそれは……。


「水色の、ゼリービーンズ……」


 木に生っていたそれは、ケミカルな水色のゼリービーンズだった。形が似ているわけではなく、ゼリービーンズそのものが木に生っているように見える。

 ケミカルな水色を見つめる流風の頬が、ほんのりピンクに染まった。

 口元は、幸せそうに緩んでいる。

 そっと口元に指の先をあてながら、流風は思い出す。


 綺璃亜きりあ先輩との、二人だけの秘密の約束。

 ゼリービーンズの約束。

 水色のゼリービーンズの、甘い約束。


 それは、一か月ほど前の放課後のことだった。

 その日、流風は緑化委員の当番だった。中庭の花壇に水やりをするのが当番の仕事だ。

 中庭は、コの字型の校舎の真ん中にある。コの字の西にはグラウンドが広がり、中庭とグラウンドの間には、部室棟と更衣室と、それから用具室が並んでいる。水やりに使うジョウロを取り出すために、流風はまず用具室に向かった。ジョウロを取り出し、外に出たところで、視界の端にチラリとそれが映ったのだ。

 北校舎の西側の角で、白いものが校舎の向こう側へサッと引っ込むのが、ちょうど見えてしまったのだ。校舎の裏には、西から東に抜ける人気のない通路があるだけだ。通路を取り囲む高いフェンスの向こう側には、ブドウ畑が広がっている。

 白いものが見えたのが、校舎の下の方だったので、流風は子猫か何かが迷い込んでしまったのではないかと思って、様子を見に行ってみることにした。

 まだ近くにいるかもしれないので、逃げられないように、そうっと足音を忍ばせて、ジョウロを手にしたまま、校舎の端へと向かう。西の端には調理室があるが、その日は部活動がない日だったので、中には誰もいないはずだ。

 ワクワクしながらひょいと壁の向こうを覗き込むと、鮮やかな青が目に入った。

 見慣れた、制服の色。鮮やかな青のプリーツスカートから伸びた、白くて細い足。

 まさか人がいるとは思っていなくて、慌てて、下に向けていた視線を上げて、息を止めた。

 そこにいたのは、流風の憧れの人だった。

 流風の一学年上、三年生の司空しくう綺璃亜その人だった。

 普段、遠くから眺めるだけの人が、すぐ目の前にいる。しかも、こんな顔を見るのは、始めてだ。こんな、こんな……。

 校内で見かける時、いつも綺璃亜は、人を拒絶するような冷たい雰囲気をまとっていた。

 親友の萌流水もなみは、よくこう言っていた。


「綺璃亜先輩は悪魔的に美しい」 と。


 憧れの先輩というよりは、心酔する教祖様を崇めるような熱のこもった眼差しで、よく、そう言っていた。

 確かに、司空綺璃亜は、美しい。流風がこれまで知る、誰よりも。

 ただ、その美しさは、そこに立っているだけで、人を惑わせ、底なしの沼に陥れるような、破滅的な美しさだった。

 だから、流風は最初、綺璃亜のことを苦手に思っていた。


 ―――綺璃亜先輩は、綺麗だけれど、怖い。


 そう思っていた。

 その魔性めいたところが、萌流水風に言うならば「悪魔的」なところが、恐ろしく感じられたのだ。触れてはいけない禁忌のような、そんな恐れを抱いていた。

 身にまとう雰囲気から、見た目通りの、人を人とも思わない悪魔的な人なのだと思っていた。

 いつ見ても、一人だった。誰かと一緒にいるところを見たことがなかった。たまに絡まれることもあったけれど、まるで相手にせず無関心に相手を見つめ返すだけだった。ガラス越しに、興味のない動物や魚を眺めているだけ。そんな目をしていた。

 生徒の中に紛れ込んだ、本物の悪魔のように思えた。

 関わったら、真の意味で魂を丸ごと奪われてしまいそうで、引き寄せられる視線を、慌てて逸らしていたのに。

 恐れが憧れに変わったのは、ほんの偶然から。

 その悪魔的な仮面の下に隠された、綺璃亜の優しさを知ってしまったからだった。

 綺璃亜先輩は、悪魔的な漆黒の羽の下に、真っ白い天使の羽を隠し持っているのだと、何の疑いもなく流風は信じた。

 そして、そうと知ってしまうと、綺璃亜を見る目が変わった。悪魔的な性格だから、一人ぼっちなんじゃない。一人ぼっちにされたから、悪魔的な仮面をかぶるようになったんだと、そう思うようになった。一人ぼっちにされた理由は、きっと、その悪魔的なまでの群を抜いた美貌を妬まれてのことなのだろうなと、単純にそう思っていた。

 そして、そうと知ってからは、その悪魔的な仮面の奥に隠された、綺璃亜の素顔を追い求めるようになった。本音を言えば、学校の中で、綺璃亜がただ一人気を許す相手、ただ一人優しい素顔を見せる相手になりたかったけれど、学年が上ということもあって、流風の方から話しかける勇気はなかった。

 その綺璃亜が、流風のすぐ目の前にいる。

 急に現れた流風に驚いたせいとはいえ、悪魔的な仮面が剥がれた、素の綺璃亜の顔が間近にある。

 驚愕と喜びが化学反応を起こして大爆発して、機能停止状態に陥っていると、先に驚きから立ち直った綺璃亜が小さく笑った。いつもの、唇の端にだけ刻まれた、冷たくて皮肉気な笑みではなくて、本当の笑顔。心の奥からふと湧いてきた、普通の、本物の笑顔。

 綺璃亜は瞳にいたずらな光をのせると、口に入れる直前だったケミカルな水色をした何かを…………ゼリービーンズを呆けている流風の口の中へと放り込んだ。そして、人差し指を唇に当てる、内緒のポーズをした。流風の目を見つめながら。それから、もう一度小さく笑うと、流風の横をすり抜けて校舎の向こうへ消えていった。

 いたずらな色を帯びた、楽しそうな笑顔は、流風の脳裏に鮮明に刻み込まれた。

 その笑顔こそが、一生の宝物だとすら思えた。

 ずっと追い求めてきた綺璃亜の素の笑顔は、天使というよりは小悪魔的だったけれど、それはそれで魅力的だった。

 本当は優しい、いたずらな小悪魔。

 むしろ、そのほうがいい。優しいだけの天使よりも、親しみが持てる。

 校内へのお菓子の持ち込みは、校則で禁止されている。だから、きっとこれは、口止め料ということなのだろう。

 そんなことをしなくても、それを咎めるつもりはないし、もちろん先生に密告するつもりなんてしなかった。学校が、綺璃亜にとって、居心地のいい場所でないことは流風にも分かっていた。このくらいの息抜きがあっても、許されるのではないかと思った。

 だから、これは口止め料じゃなくて、二人の約束の証なのだと思うことにした。

 二人の、共犯の証。

 流風と綺璃亜先輩。二人だけの、秘密の約束。

 水色のゼリービーンズは、その証なのだ。

 次の休みの日に、流風はゼリービーンズを買いに行った。綺璃亜が食べていたのと同じような色合いのゼリービーンズ。本当は、こういうケミカルな着色料を使ったお菓子は好きではないのだけれど、綺璃亜への思いの方が勝った。きっと、綺璃亜はこれが好きなのだろう。校内で隠れてこっそり食べるくらいには。それを、共有したかった。

 綺璃亜のように学校で食べるような勇気はないけれど、毎日一粒ずつ食べるのが日課になった。

 でも。なんだかもったいなくて、水色のゼリービーンズだけは、手を付けられなかった。

 もういっそ、綺麗なガラスのビンを買って、その中に水色のゼリービーンズだけをしまっておこうかと最近は思い始めている。綺麗な白いリボンを巻き付けて、毎晩寝る前に眺めるのだ。


 それくらい、水色のゼリービーンズは、流風にとって特別なアイテムになった。


 その水色のゼリービーンズが、異世界……と思われる森の不思議なドームの中で、これから何かイベントが起きそうな、特別な感じの木に隠れるように生っている。

 流風のテンションは、有り得ないくらいに跳ね上がった。

 きっとこれから、すごく特別で、素敵なことが始まるのだ。

 魔法に満ち溢れた、不思議な冒険の物語が始まるのだ。

 その冒険のお相手は、もちろん――――。


 背後で茂みを掻き分ける音がした。

 ついに、いよいよ。

 二人の物語が、始まるのだ。


 満開の笑顔で、流風は振り返った。

 ポニーテールと白いリボンの先が、跳ねるように揺れる。


 背後は、木立が途切れていて、ちょうど出入り口のようになっていた。

 そこに、誰かが立っている。

 鮮やかな青色をした衣装に身を包んだ、悪魔的なまでの美貌の持ち主。


「綺璃亜先…………」


 弾むように呼び掛けた声が、途中で止まる。

 駆け寄ろうとした途中の微妙なポーズで、流風は固まった。


「……輩…………じゃ、ない…………?」


 流風の制服と同じ、鮮やかな青の衣装。けれど、その人が着ているのは、セーラー服ではなかった。

 ゲームやアニメに出てくる、騎士が着ているような衣装。

 もちろん、流風が戸惑ったのは、それだけが理由ではない。

 その人は、悪魔的なまでに艶めいた綺璃亜そっくりな美貌の持ち主だった。けれど、一目で分かるくらいに決定的に、その人は綺璃亜本人ではなかった。

 綺璃亜は、誰もが認める星蘭女子中学一の美少女だ。

 けれど、氷のナイフのように冷たく流風を見つめる、ドームの入り口に立つその人は、どこからどう見ても。


 ――――男の人だった。


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