「……ぱい。先輩?」
「んぅえ!? あ、すまん……ぼーっとしてた」
「もぉ。先輩今日ずっと上の空じゃないですか。もしかして学校で何かあったんですか?」
放課後、図書館。昨日と同じように勉強する二人だったが、今日は夏斗が全く身が入っていなかった。
その原因は明らか。教室での紗奈との出来事について、未だに頭の中で整理がついていないことにある。
『私のこと、紗奈って呼んでよ』
今まで彼女とは、親しい仲でありながらもやはりどこか一線を隠しているところがあった。名前を呼ぶ時に苗字を使っているところなんてまさにそれの表れで、でも彼自身はその距離感を心地よく感じていたのだ。
何故ならその心の内には、好きな人の存在があるから。えるという圧倒的好意の的がいる中で、紗奈と必要以上に近すぎる距離感で接するのは″不謹慎″だとも思っていたほどだ。
(でも……何だったんだ、あの表情)
勉強面を除けばなんでもできる完璧超人。クラスや学年の垣根を超えて注目を浴びる彼女が自分ごときに″そんな気持ち″を抱いているなんて思えるほど、自分の評価は高くない。
しかしあの一言と僅かな笑みで、脳が勘違いを起こしかけていた。
彼女が自分のことを────と。
あんな顔、誰にも見せていなかった。下の名前で男から呼ばれているところなんて、見たことがない。まるで二つとも男に対して向けるのが自分へのあれが初めてだったのではないか。自分は、彼女にとって″普通の友達″ではなかったのではないか。そんな答えも出ないモヤが、頭をずっと巡っている。
「いや、ちょっと……な。まあ何かあったと言えば、あったな」
「もしかして、柚木先輩とですか?」
「!? な、なんで分かったんだ!?」
「ナツ先輩のことなんてお見通しです。この三ヶ月間……ずっと、先輩のことだけを見続けてきたんですから」
ぷくっ、と頬を膨らませながら、えるは不満を露わにする。
何があったのか話せ。私に相談しろ。目が、そう言っていた。
「ありがとな、える。実は────」
それから夏斗は、起こったことをありのままに話した。
テスト勉強に付き合っている相手、柚木紗奈。彼女から今回のテストで全教科赤点を免れた際にはご褒美として、下の名前で呼んでほしいと頼まれたこと。それを了承しつつもその真意が分からず、モヤモヤしていることを。
「……柚木先輩が、そんなことを」
えるはただじっと、静かにその話を聞いていた。
そして話が終わるとすぐに、じっとその瞳を向けて。言った。
「ナツ先輩は優しすぎます。柚木先輩のそんな揶揄いに本気になっちゃうなんて」
「え……?」
想定外の言葉だった。
きっと彼女は、親身になって相談に乗ってくれるものだとばかり思っていた。少なくとも、相談として持ちかけた話をただの″揶揄い″だとすぐに断言してしまうようなことは、すると思っていなかったのだ。
「でも、柚木の奴明らかにいつもと様子が違った気がするんだよ。本当にあれが、ただの揶揄いなのか?」
「そうです。だからナツ先輩が悩む必要なんて無いんです。呼び方が変わっても今までと同じように、ただのクラスメイト。友達として関わってください」
「な、なんでそんなこと言うんだよ。なんか……冷たくないか?」
えるは、思っていることを口にしているようではなかった。まるで自分が″そうして欲しいこと″を語るように。紗奈とのことをこれ以上考えるな、考えて欲しくないと、目で訴えていた。
「先輩が、他の人の事を真剣に考えてるのなんて……見たくないです」
「オイ、それってどういう……」
「先輩、私だけを見てください。私以外の子と、仲良く……して欲しくない……」
それは、心からの叫び。気づけば目元から涙が溢れ出していたえるの、夏斗に対する素直な気持ちの吐露であった。
◇◇◇◇
何故そんなことを言ってしまったのか、自分でも分からなかった。
本当は好きな人の悩みは親身になって、一緒に考えたい。乗り越えるために力を貸したい。
でも……その気持ちを、自分以外の誰かのために悩んでいる彼の姿をこれ以上見たくないという気持ちが、押し潰した。
自分勝手だ。
「える? なんで、泣いてるんだよ……」
「ごめん、なさい」
怖い。先輩を取られたくない。
たったの三ヶ月しか関係を積み上げる期間はなかったけれど。それでもこの好きは、誰にも負けないと誓える。
でもそれは、自分の一方的なものでしかない。相手がどうかなんて、分からない。
だから膨れ上がる。本当はあの人のことが好きなんじゃないか。自分なんかじゃ勝ち目なんて、ないんじゃないか。そんな一抹の不安が。
膨れ上がって、溢れ出して。また迷惑をかける。
「先輩が私から離れちゃうかもしれないって思ったら、止まらなくなって。もし柚木先輩が先輩のことを好きだったら……私なんかが、勝てるわけない。だから、これ以上仲良くならないで欲しいって……」
「える……」
夏斗は、そっとえるを抱き寄せた。
紗奈が自分に向けている気持ち。それがどういったものかはまだ分からないけれど。例えそれが本当に″好き″だったとしても、自分の中の一番が変わることはきっと無いのだろう。そのことに確信を持っているからこそ、その相手に話していいことではなかった。
「大丈夫だ。俺は絶対、えるから離れたらなんかしない」
「本当、ですか……?」
「当たり前だろ。ごめんな、なんか変な心配かけた。える以外の誰とも仲良くしないっていうのはできないけど……でも、これだけは言えるよ」
たった二文字。えるにこの思いをぶつけられたら。今、この瞬間にぶつかることができたら……関係は、良い方に変わったかもしれない。
だけど喉元まで出かかったその言葉は、あと少しのところで出てきてくれない。つっかかって、代わりの言葉が迫り上がってくる。
「俺はえるのことを……一番、見てる」
えるの自分に対する気持ちにも、薄らと答えは出ているのに。ほんの数パーセントの不安が、言葉を濁してしまう。
でも、それでも。そんな言葉だとしても、えるは泣き止んで。嬉しそうに……笑ってくれた。
「えへへ、私が……一番……」
一番、という言葉の重みを、えるは噛み締めていた。
中途半端な、萎え切らない文字の羅列。例えそれが想いを決定づけるようなものではなく、ただ励ますためだけのものだったとしても。そこに嘘がないと感じ取れただけで、嬉しかったのだ。
「ったく、恥ずかしいこと言わせないでくれ」
「私は恥ずかしいどころか、とっても嬉しかったですよ? 先輩が、私を一番に見てくれるって言ってくれて」
「……やっぱり今の、忘れてくれないか?」
「絶対に嫌ですっ。何があっても、忘れてなんかあげないんですから」
「ぐぬぬ……」
「さぁて、勉強頑張りますよ! 先輩も、いつまでも顔を赤くしてないでシャーペン持ってください!」
「おまっ!? クソ、なんかしてやられた気がする……」
にししっ、と小悪魔的に笑うえるの横顔に、そう呟きつつも。どこかもうさっきまでの心の重さは無くなっていて、身体もスッと軽い。
それは好きな人の笑顔を見れたからか。結局紗奈との名前呼びの件は何一つ解決していないというのに、それ以上に″好きな人が自分を見て欲しいと嫉妬してくれた″からか。言葉を濁しながらも告げた想いを、拒絶されなかったからか。
(俺はやっぱり、えるのことが好きだ。それさえ揺るがなければ……問題なんて何一つない、か)
「だーもう! 勉強だ勉強! やってやるよ! 今日の範囲のその先まで!!」
深く考えるのはよそう。結局は何もかもが妄想と推測で膨れただけの、確定していない事柄に過ぎないのだから。