コンコンッ。木製の扉を、小さくノックする音が響く。
「は〜い」
白衣を着た保険教諭、田中千秋の返事を聞いて扉を開け、中に入ってきたのは二名。一人は男子生徒で、もう一人はその胸の中でお姫様抱っこをされたジャージ姿の女子生徒。
「……ん?」
一瞬何のことやら分からなくなりながらも、千秋はとりあえず話を聞く。
「ど、どうしたの? ケガか何か?」
「はい。コイツが体育中に外で転んだんです。特に大きなケガとかは無いんですけど……休ませてやってくれませんか?」
「そう、なんだ。ほぉ……」
千秋は思った。「いや、なんで片方制服姿なんだよ。お前体育サボってたのか?」と。
男子と女子で分けられる体育だが、同じクラスであれば種目は違えど必ず体操服に着替えて運動しているはず。だというのに片方は明らかにそんな様子が無い。というより、もはや同年代のように見えない。
(……まあ、別にいっか)
しかしこの女、適当な性格であった。何よりも早く、今中断されてしまったスマホゲームの続きがしたかった。本来であればただちょっとケガをした生徒をベッドで休ませるのもどうかといった感じなのだが、診断書は適当に弄れる。念のため検査していたとか消毒していたとか書いておけばこの授業の残り時間中休ませることくらい、造作もない。
そんな職権濫用をしでかすくらい、早くゲームを再開したかったのだ。
「分かった。今誰もいないからそこのベッド使って? 付き添いの君は早めに戻ってね」
「ありがとうございます」
シャッ、とカーテンを開けて、えるをそっとベッドに下ろす。無抵抗にころんと転がった彼女は、そっと被せられた布団に身を包んだ。
「ご、ごめんなさい。こんなところまで付き添わせてしまって……」
「ううん、気にしなくていいよ。元々えるの事が心配になって飛び出してきたから」
「へっ!? わ、私のことを心配して!?」
夏斗は、授業中に外を見ていたら……という事情を説明した。えるは鈍臭くボール一個で足をもつれさせてこけてしまったところを見られていたのだと羞恥心でいっぱいだったが、それよりも。夏斗が自分のために来てくれた事が嬉しくてたまらなかった。
(先輩……)
長いジャージの裾を指で握りながら、彼の優しさに対しドキドキを抑えられない。いくら教室から見ていて心配になったからと言って、授業まで抜け出してしまう人は中々いないだろう。でも、彼は平然とそういう事をしてのけるのだ。
いつも優しくて、かっこよくて。頼りになる。彼のそんな姿に、惚れたのだ。
「あ、ありがとうございます。えへへ……先輩の顔を見たら痛みがちょっとずつ引いてきました」
「そりゃよかった。俺なんかの顔が鎮痛剤になるなら安いもんだ」
そっ、とえるの紫髪に手を伸ばし、夏斗は頭を撫でる。
(あ、なでなで……)
えるは頭を撫でられるのが大好きだ。女としてではなくペットのように見られているのではないかと思ってしまう事もあるけれど、その手のひらに包まれると温かさで心がほんわりと癒される。改めてかな人が好きなのだと、ハッキリと自覚できる。
「もっと、撫でてください。気持ちいいです……」
「はいはい」
気づけばその手に頬擦りをしながら、おねだりをしていた。
ずっとこの時間が続けばいいのに。この時間をもう一度手にするには、どうすればいいんだろう。そしてふと頭に浮かんだ考えが、ある言葉を漏れさせる。
「先輩……私がまたケガをしたら、こうやって駆けつけて……頭を撫でに来てくれますか?」
ビシッ。
「いひゃっ!?」
それは、漏れ出てはいけない本音。それまでは頭を撫でてくれていた優しい手が、突然デコピンになって額に襲いかかる。
「な、何するんで────」
「お前、今何言った?」
少しだけ、怖い顔をしていた。いつも優しく振る舞ってくれて、表情も豊かな彼からの感じたことのない怒りの感情に、身体が固まる。
「またケガをしたら……? まさか、俺を呼ぶためにもう一度ケガをしようとか、考えたんじゃないよな?」
「っ……そ、そんなこと……」
図星だった。またこうしたケガをすれば心配してもらえる。甘やかしてもらえる。迷惑になる事を自覚していながらも、確かにそんな考えが頭をよぎってしまっていた。
だってそれが、一番の近道だと思ったから。少し傷つくだけで構ってもらえるなら……と。
「バカタレ。いいか? 俺は自分で自分を傷つけるなんて、絶対に許さないからな」
「う、ぅ……だって、そうすれば先輩が駆けつけてくれるって……」
「そんなことしなくなって駆けつけるに決まってるだろ。えるが構ってほしい時、呼んでもらえれば俺はいつだってお前のところに行くよ」
「っっ!?」
それは、夏斗にとって説教のつもりで吐いた言葉だった。えるが抱いたメンヘラ心を読み取り、何としてでも自分を呼ぶためなんかのために傷つくことはしてほしくないと。そう思い、咄嗟に出した言葉。
確かにその効果は的面だった。いや……効きすぎかもしれないが。
「……ごめん、なさい」
「ん。分かればいいんだよ」
いつもの優しい顔に戻った夏斗の手のひら。「デコピンなんかしてごめんな」と謝りながら引っ込もうとするそれを、えるは両手で抑える。
分かっている。授業を抜け出してきただけの夏斗は、そろそろ教室に戻らなければいけない。きっとこのままここに居続ければ怪しまれるし、すぐ近くにいる保健の先生にだって注意されてしまうだろう。
でも……そんなことは承知の上で、まだ離れたくなかった。自分のためならいつだって駆けつけると言ってくれたこの人に、余計甘えたくなってしまった。
例えそれが、迷惑な行動だったとしても。
「もう少しだけ……一緒にいてくれませんか? 私まだ、先輩と離れ離れになりたくないです」
「っ……!?」
心拍数が跳ね上がり、潤いに満ちた瞳が夏斗を掴んで離さない。
ずっとそばにいて欲しい。それだけが、今の彼女にとっての原動力だった。
「い、一緒にいるのはいいけど。俺、何すれば……」
「それは、ですね。えっと……」
カチッ、カチッ、カチッ。静かな室内に一定間隔で刻まれ続ける、置き時計の針の音。もじもじと俯きながら言葉を濁らせるえるがいよいよ口を開き、何かを言おうとしたその時。ガタンッ、と大きな音が空間を支配した。
「いっけない夢中になりすぎた! この後呼び出し……って、あれ? そういえば付き添いのあの子、ちゃんと教室帰ってるよね?」
大きな独り言が、カーテン越しに二人の耳に届く。その瞬間、息があったように顔を合わせたところに千秋の足音が、ゆっくりと近づいてきた。
「ケガしてる子はともかく……もしまだいるなら戻らせなきゃね」
「先輩、隠れてくださいッッ!!」
「え!? おわっ、える!? ふごっ……」
コツ、コツと徐々に大きくなっていく音。それが限界まで近づきシャッターを開けた時。夏斗は────
(う、そだろ……!?)
暖かな暗闇に、包まれていた。