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第10話 先輩、あなたは誰にも渡しません

 えると夏斗。二人きりの下校時間が始まる。


 今日は一段とハードだった練習を終え、少し疲れ気味の夏斗の手を繋ぐえるはどこか挙動不審で、落ち着きがない。


 それも一重に、これから″先輩魅了作戦″を実行しようと緊張しているからである。


「える、どうかしたのか? なんか顔ちょっと赤いぞ? もしかして熱とか」


「ち、違います! その、ちょっと今心を整理してる途中で……」


 すぅ、と小さく息を吐いて、決意を込めた目でえるは夏斗を見つめる。彼は何が何やらと言った様子で不思議そうに視線を返していたが、やがて互いの視線は外れて。その代わりにえるの小柄な身体が、急速に接近した。


『えるが先輩に唯一勝てると思ってるところ、あるでしょ? それを押し当てて先輩を魅了しちゃおうよ。健全な男子高校生が女の子のおっぱいに反応しないなんてこと、絶対にないんだからさ!』


 桃花の言葉を思い出しながら、えるは胸元を夏斗の腕に押し当てて固定する。腕に抱きつくような形で身体を寄せ、少し恥ずかしくなりながらも必死の上目遣いで反応を伺った。


「わっ、える!? なんだよいきなり!?」


「……甘えたく、なっただけです。今日は家の前までずっとこうさせてもらいます」


 紗奈に勝てると自信を持って言える、唯一の武器。甘い匂いをふわりと漂わせながら、えるは二つの果実で腕を挟むように身体を添わせる。心臓がバクンバクンと暴れている。柔らかな胸元を自ら押しつけるなど、変態だと思われてしまわないかとても怖かった。


(でも……でも! 先輩に意識してもらうんだ! あんな人になんて絶対……負けないっ!!)


 ぽにゅん、ぽにゅんと双丘が上下左右に揺れ、形を変えて吸い付いていく。横をすれ違った男の人に見られてしまってちょっと涙が出そうになったけれど、それもグッと堪えて。これも全ては意識してもらうためだと自分に言い聞かせ、押し当てを続けた。


 それに対して、夏斗は────


(え、ええええるさん!? なんで押し当て……うぉっ!? 柔らかッッ!!)


 めちゃくちゃに意識していた。表情では平静を装っているが、空いた右手でめちゃくちゃに太ももをつねって自我を保っている。


 腕を幸せが包んで離してくれない。チラリと横目でえるの小さな顔を見ると、恥ずかしそうにしながらもどこか必死で。言葉では言い表せないほどに可愛すぎた。


(わざと、なのか? わざとその爆弾を擦り合わせているのか!?)


 何故えるがこんなことをしているのかは分からない。しかし、意図的に胸を当ててきているのは確かだった。わざとじゃないならあんなに顔を赤くはしないだろうし。


 しかしそれが何故なのかなど、今はどうでもよかった。もう頭を回せるほどの余裕はない。それほどに、今左腕を包んでいる物の包容力は強すぎる。


「先、ぱぃ……どう、ですか?」


(どうですかって何!? 俺は何で返せばいいの!? 何、今までの人生の中で一番幸せですって素直な気持ちを吐けばいいのかァァ!?)


 夏斗が表情を消そうとするたび。えるはこの程度では自分を意識してもらえないのだと勘違いし、胸の圧力を強める。


 正に負の連鎖。いや、夏斗にとっては幸福の連鎖か。


「そ、その、な。柔らかいのが……当たってます」


「現状を説明してください、なんて言ってません。どうなんですか? 私のこと……柚木先輩よりも────」


 ごにょごにょと少しずつ声が小さくなっていき、最後の方に至っては夏斗の耳には届かない。なんと言ったのか、もう一度聞こう。そうして彼が口を開こうとした、その時


「あっ」


「へ……?」


 出会ってしまった。横の道から曲がり角で一人合流して来た、火種のクラスメイトに。


「早乙女……?」


 スラリと細い脚をスカートからチラつかせ、茶色の短髪を揺らす活気的な少女。部活帰りに一人、家に帰ろうと歩いて来たのは紛れもない火種、柚木紗奈。


「な、なんでこの人がッ」


「あー! 隣に連れてるその子はまさか、噂のえるちゃん!? 嘘、初めて近くで見たけどめちゃっくちゃ可愛いじゃん!!」


「シャァッ! がるるる……」


 むぎゅぅぅ、と乳圧を強め、「先輩は私のものです」と主張するように身体をさらに密着させながら敵対心を剥き出しにするえる。実質的に初対面だとは思えないほどの嫌われっぷりに、紗奈は一瞬にしてテンションを落ち込ませた。


「えっ? 私……嫌われてる? ねぇ早乙女! 私嫌われてるの!?」


「い、いやいや。二人は初対面だろ? なぁえる、どうしたんだよ。他の人にはそんなんじゃないだろ?」


「この人は敵なんです! 先輩は渡しませんよ!!」


 えるにとって紗奈は、憎むべき恋敵。せっかく夏斗に猛アプローチをして恥ずかしい思いまでしたのに、その流れが今完全に途絶えてしまった。この女が目の前に現れてしまったことによって。


 あまりにタイミングの良すぎる登場。えるは跡をつけられていたりタイミングを測って出てきた可能性も考えて、毛を逆立てる猫のように威嚇を向けた。


「……ああ、もしかしてそういう? ごめんね。何か勘違いさせちゃったみたい」


「勘違い? 何のことだよ」


「えっ、早乙女それ本気で言ってるの? ならちょっと引くわ。鈍感すぎ」


 ゆっくりと近づく紗奈に未だ敵対心を見せるえるだが、その頭をポンポンと撫でられる。ニコッ、と優しく微笑むその姿は、まるで聖母のよう。


「えるちゃんは、私に愛しの先輩を取られるんじゃないかって心配してたんだよ。男の子なら女の子のそういう気持ちくらい、分かってあげなきゃ」


「えっ!? そ、そんなこと思ってくれてたのか……?」


「ちょ、柚木先輩! 勝手なこと言わないでください!! 私は、そんな……」


「ふふっ、照れちゃってかわいいなぁ」


 いや、前言撤回。聖母ではなく小悪魔だ。彼女は今、確実に相手の反応を見て楽しんでいる。ボーイッシュな性格もさながら、悪ノリで柔らかいえるのほっぺたをツンツンとつついて怒るところを見ようと画策しているのだ。


(何なの、この人は! はっ! さては私を先輩の前で辱めて離れさせるつもりじゃ……そうはいかない!!)


「頭、撫でないでください! 私はあなたと仲良くするつもりはありませんから!!」


「え〜。仲良くしようよぉ。えるちゃんみたいな可愛い後輩なら大歓迎だよ?」


「う゛ぅ! ほっぺたむにむにもやめてください!! ふぎゅっ」


「ぷふっ、柔らかいなぁ。むにゅーってほっぺた押し込んでもちゃんと可愛くて……ほんとペットみたいっ」


「ペッ!?」


 まるで大人と子供。紗奈に弄ばれ、えるは頬を大きく膨らまし臨戦態勢を取りながらも、あまりの余裕の違いに本能的に身体が後ずさった。すすす、と隠れるように夏斗の背後に移動し、少しだけ顔を出してジト目を向ける。


「柚木、それくらいにしてやれ。えるが嫌がってるぞ?」


「あはは、ごめんごめん。でもこれだけ可愛くてちっちゃい子、ちょっとイジめたくなっちゃうのは分かるでしょ?」


「……まぁ、それは分からんでもないけど」


「せ、先輩まで!?」


 背中から抱きつき、夏斗の後頭部を見上げながら一人危険を感じ取るえる。このままではほっぺたが危ない。二人がかりでむにむにされてしまうのでは、とより深く隠れた。


(この人といると、ペースを乱される。ほわほわした雰囲気を漂わせているくせに……女狐さんだ。このままじゃ先輩、連れていかれちゃう!!)


「帰りましょう先輩! ほら、その人から離れてくださいぃっ!!」


「お、おぅ? 引っ張るなって。分かった、分かったよ」


 んんーっ、と口を紡ぎながら非力な腕で紗奈から遠ざけようとする彼女の意図に今一つ気付けないまま、夏斗は「じゃ、俺達そろそろ帰るわ」と別れを告げる。


 紗奈もこの後用事があるようで、素直にそれを聞き入れてから最後に、とえるの元へ近づく。


「な、なんですか」


「耳貸して、えるちゃんっ」


「むっ……」


 言われるがままに小さな耳を差し出すえるにそっと顔を近づける紗奈。彼女独特の良い匂いに当てられながら、その口から発せられる言葉を聞き入れる。


「早乙女のこと……あんまりチンタラしてるようなら私が貰っちゃうから。覚悟しててね、え〜るちゃんっ♪」


「っあ!!?」


 はむっ、と一瞬小さな耳たぶを口で摘み、爆弾発言をして顔を離す紗奈。くすぐったい耳を抑えながら焦りの表情で顔を上げるえると、ニヤりと不適な笑みを浮かべる紗奈の視線が交差する。


「じゃねっ。ばいば〜い」


 呆然とする彼女と夏斗を置き去りにして。紗奈は夕日を背景に、駆けてその場を去っていく。


 それは、明確な恋敵としての宣戦布告。えるの頭の中は、焦りと不安でぐちゃぐちゃにかき乱された。


(ふふっ、やっぱり可愛い。えるちゃん……か。また会えるといいなぁ〜)






 紗奈のその発言が本心からなのかは、本人にしか分からないけれど。えるは今確かに、彼女を確実に敵として認識したのだった。

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