「なあ、あれ」
「うわぁ……なんだろ。視界に入るだけで癒されるな」
夏斗のいるクラスである二年三組の前の廊下に差し掛かる寸前の、階段終わりの曲がり角。周囲の男子から視線を受けながらもじもじと縮こまっている美少女が、そこに一人。
「むぅ。先輩、まだかな……」
ピンク色と紫色の巾着にそれぞれ包まれた、二つのお弁当箱。四限が終わり昼休みに突入した瞬間、急いで階段を駆け降りてここまで来たえるは今、夏斗をお昼に誘うため待機していた。
本当は教室の中まで誘いに行きたい気持ちは満々なのだが、どうしてもそれは恥ずかしくて。毎日一緒にお昼を食べる仲だというのに、誘うのは決まって夏斗が廊下に出てきてからなのである。
「なあ、何なのあの可愛い生き物。毎日毎日ああして待ってるのピュアすぎないか?」
「本当だよな。そしてあれに誰も声をかけないところがまた……うちの学校のファンは民度高いわ」
夢崎えるファンクラブ。その規模は構成人数五十人におよび、彼らはみな彼女の幸せを願い影で応援を続ける同志である。
そしてそのうちの三人が今、階段の下からえるの様子を伺っていた。いや、その言い方は正しくないか。えるに近づく害虫が寄って来ないかを見ているのだ。
今話していたモブAとモブBはその会員でも何でもないが、その存在はもはや学校の生徒ほぼ全員が知るところ。ファンクラブとは言っても表に立って何か活動をしているわけではなく、各自が本人に迷惑をかけないよう気をつけながら、影で支える。そういう目的の元集まった人々の民度は、確かに高いと言えるだろう。
「……はっ! 来た!!」
と、そんな彼らの事を毛ほども知らないえるは、その視線の先に愛しの夏斗を捉える。ちょうど悠里と別れ、一人で教室を出てきたところだ。
そんな彼を逃さないために。ぴょこっ、と角から姿を現したえるは、さも自分が今来たところと言わんばかりのアピールをしつつ、夏斗に近づいた。
「先輩っ! お昼一緒に食べましょー!」
「おー、える。食べよう食べよう。今日は午前に体育あったからお腹ペコペコだ」
「ふふんっ。そう言うと思って、今日は少しボリューミーなおかずを用意してますよ!」
「さっすがえるだな! 俄然楽しみになってきた!!」
しっぽをぶんぶんと振る犬のように健気で、褒められたことに照れながら嬉しそうに少し顔を赤くする彼女の姿を見て。の男子の心が釘付けにされていく。
振り撒かれる幸せムードと甘い雰囲気。非リア充のモブ男子連中はダメージを受けると同時に、その曇りなき純愛にときめいていた。
「もうあれ愛妻弁当だろ。彼女とかじゃなくて既に嫁の域に達してないか?」
「でも実際は付き合ってすらないらしいぞ?」
「俺それ未だに信じられないんだよな。確かに周りの民度の高さ的に他の人から好意が伝わる、みたいなのはないだろうけどさ。当事者たちは両想いに気づかんもんなのか? あれで」
「それな。まあそういうところもこの学校一のピュアップルって呼ばれる所以なんだろうけど」
紫色の巾着の方を受け取った夏斗は、周りで自分達の噂話をされているなんて気づかずに階段を登っていく。そしてその一歩後ろを、好きの瞳で見つめながらついて行くえる。手を繋ぎたいな、なんてことを考えるも、こんなところでなんて恥ずかしいと一人顔を赤くしてぷんぷんと振りながら、勝手に妄想して照れていた。当然こっちも周りの視線になど気づいていない。
「える、どうした? 顔ちょっと赤いぞ?」
「ふにゃ!? き、気のせいですよ!」
(((テメェのこと考えてたからに決まってるだろ馬鹿が!!!!)))
二人を取り巻く周囲の環境は、今日も平和である。
◇◇◇◇
ガチャガチャ。屋上手前の踊り場で、小さな金属音が響く。
音の主はえる。事前に職員室で借りておいた屋上への鍵を立て付けの悪いドアノブに差し込んでいるところだった。
「ん、開きました!」
電気もついていない暗いコンクリートに包まれた空間から一変。扉を開けると、その先には雲一つない快晴が広がっている。
本来であればこの明星高校では、屋上は立ち入り禁止。漫画やアニメの世界のように屋上を解放する事は、転落事故などを引き起こすリスクがあるからである。
しかし、えるの場合は別。この学校に来て一週間の頃。職員室のとある教員にお願いして、特別に他言無用を条件に鍵を手に入れることに成功していた。
そしてもうお気づきの方もいるだろう。その教員とは、えるのファンクラブの人物である。会員ナンバー028、佐藤信弘の教員にあるまじき挑戦によって、二人きりのお昼時間は守られている。
「ささっ、食べましょう先輩。今日のお弁当は気合いを入れて作りました!」
「ではではお言葉に甘えて……」
壁にもたれかかり、小さな段差に腰掛けて。隣にちょこんと座るえるの待望の眼差しを受けながら、夏斗はお弁当の包みを取って蓋を開ける。
「おおっ! 唐揚げだ!!」
すると中から顔を出したのは、二段のお弁当。一段目は白ごはんで、二段目は唐揚げとポテトサラダ。それに加えてミニトマトが三つと、夏斗の好きなもののみにらしながらも栄養バランスの取れる完璧な中身だ。
今更だが、夏斗は月曜から金曜まで平日は毎日昼ご飯にえるのお弁当を食している。両親が共働きでいつも惣菜パンや食堂のご飯で済ませていた彼のことを気遣い、えるから提案したもの。夏斗は当然喜んでその申し出を受け入れ、今に至る。
「昨日寝ちゃって何も作れてなかったので、朝から大急ぎで揚げました!」
「え、朝に揚げたのか!? そんな、大変だったろ……」
「いえいえ。ナツ先輩の事を想って作ったら……あっという間でした」
「っあ!?」
自分の事を想い、丹精込めて作ってくれた。の事実だけで、夏斗は吐血しそうなほどに嬉しかった。それも朝からわざわざ早起きして、なんて。感謝の心で頭も上がらない。
「ふふふふ、今日のは自信作ですよっ。ささ、食べてみてください!」
「お、おう」
夏斗専用に用意されたお箸を取り出すため、ケースを手に取る。その動きはどこか慌ただしく、忙しない。
まるで何かに先を越されんとばかりに動き出す夏斗だったが、それよりも早く。隣からにゅっと出てきた細い腕が、その指先にある箸を使って唐揚げを一つ摘み上げた。
「はい、先輩。あ〜んっ」
「ぐっ……また先を越された」
「先輩にあ〜んをするためなら、私はこの世界の誰よりも素早くお箸を使って見せますよ♪」
毎日のお弁当。その一口目は、何故か必ずえるのあ〜んから始まる。本人曰く「一口目は私が食べさせてあげたい」と、訳のわからない理論で。
夏斗は満更でもないが、それでも毎度毎度それを防がんとする。その理由は明確で、あ〜んをする時も終えた後も、意識してしまうから。
だがもう唐揚げを先に取られてしまえば観念するしかない。小悪魔的な笑みを浮かべる彼女に従うように、夏斗は諦めて口を開けた。
「どう、ですか? 美味しいですか?」
「……美味い。何この唐揚げ、店出せるだろ」
「えへへ、嬉しいです。店名は唐揚げえるちゃんですかね?」
「毎日買いに行くわ」
「やったぁ!」
緊張と小っ恥ずかしさで赤面しながら、夏斗は小さな声で答える。やがて満足したのか自分のお弁当を開け始めたえるを見て、ようやく安堵で息を吐いた。
「じゃあ私も、いただきます」
安堵、したのだが。それは一時的なもので、横でお箸を口に運ぶえるの唇を見て、またドキドキがぶり返す。
当然だろう。その橋の先には、自分が口をつけたのだ。そんなお箸を使って横でご飯なんて食べられたら、意識せずにはいられないに決まっている。
(コイツ、気にならないのか……?)
(先輩と、今日も間接キス……へへっ)
えるが内心どれほど喜んでいるのかは、知る由もない。