「可愛いって……可愛いって言ってもらえた!」
狭い浴室でシャワーを浴びながら、ぷるぷると身体を震わせて今にも叫び出しそうな少女がいた。そう、えるである。
喜びの原因は当然、先の夏斗とのやり取り。慰める際に発せられた「可愛い」という言葉と、その後の頭なでなで。加えてそっと身を包んでくれた温かな手。
その全てが自分に向けられていたことが未だに信じられない。好きな人になでなでとかぎゅうとかさすさすとかしてもらえて、何度心臓が飛び出そうになったことか。
「先輩、好き。しゅき!!」
握り拳を作り、ほんのりと残っている細くも心強いあの手の感触を思い出しながら、人にはお見せできない身震いを見せるえる。しかもこれが真っ裸の浴室内で行われているのだから尚更だ。
だが抑えろと言うのも酷な話だろう。好きな異性にあそこまでの事をされて喜ばない女子もそうはいない。
「えへへ、思い出しただけで身体がぽっかぽかだよぉ。ナツ先輩っ。えへっ、えへへへっ」
ぽっかぽかなのはお湯を浴び続けているからである。四十二度のお湯により身体を熱されていることも忘れている彼女の姿は、まさに「恋は盲目」というやつだ。次は鼻歌混じりに髪をわしゃわしゃと洗い始めるが、時折夏斗への想いが漏れ出す。
ここだけ切り取ればただの純情な可愛い女の子なのだが……残念ながら長くは続かない。髪の泡を全部洗い流すと、ふと友人の言葉が頭をよぎった。
「この一年、あなたと想い人の関係の発展は難しいでしょう。また、想い人にはあなたとは別の恋人が出来てしまう可能性が高いでしょう。だって」
ズキンッ。心が痛む。先程の優しい表情や仕草が、自分以外にも向けられているのだとしたら。本当はこんな面倒くさい女、早くいなくなってしまえばいいのになんて思われてるとしたら。
「せ、先輩はそんな人じゃ、ない。でも……あんなにかっこいい人、いつ彼女さんができてもおかしくない、よね」
彼女の自己肯定感は、自分のことをそこら辺にいるダンゴムシと同等だと思うほどに低い。実際には影で彼女を思わんとするファンクラブ的なものができていたりするくらいには容姿のレベルが高いのだが。一切自覚のない彼女は、ありもしない被害妄想を広げて病んでいく。
面倒くさい女だ。自覚はある。けれど一度不安の種が芽吹くと、もう自分ではその成長を止められない。迷惑だと分かっていても、他の誰かに頼る事でしか心の平静を保てない。
「うぅ。だめ、泣いちゃだめだって。なんでいつも、すぐに泣いちゃうの。こんなんだから……こんなんだから!」
しゅん、と心を沈ませた彼女は、身体を洗い終え浴室を出る。
着替えのパンツの横には、百均のジュエリーでデコレーションされたカバーを付けた黒とピンクベースのスマホ。身体を拭こうとタオルに手を伸ばしたはずが、いてもたってもいられなくなって。びしょびしょの身体のまま、えるはスマホロックを解除してメッセージアプリを開く。
(先輩に、慰めてもらいたい。いつまでもこんなんじゃダメだって、分かってるけど……)
本日三回目の、夏斗へのメッセ。不安と早く楽になりたいという衝動から、えるは素早くメッセージを打ち込んでいく。
心の中で、謝罪を繰り返しながら。
◇◇◇◇
「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ!!!!」
少年は、ベッドの上で枕に顔を埋めていた。
シャワーを浴び、心頭滅却を繰り返したと言うのに。頭の中から離れないのは、えるの泣き顔と体温。そしてほんのりと甘い、女の子の匂い。
「なんなのあの生き物! 可愛すぎないか!? あれより可愛いのこの世にいる!? いや、いない!!」
ジタバタと暴れ回りながら謎の自己完結をする夏斗の脳内は、もうえるのことでいっぱいである。いや、今だけと言わず一日中だが。
朝、おはようのメッセから一日が始まり、少し気恥ずかしいながらも一緒に登校する。そして授業中や休み時間にこっそりやり取りをして、帰路に着く。帰りはバスケ部の活動があり遅くなってしまうことが多いためえるには先に帰ってもらっているが、まさか今日はまた会えるなんて。
何か悲しいことがあって泣き崩れていた彼女を前にして不謹慎だが、心の中ではガッツポーズをかましたほどだ。
「くっそ、何なんだアイツは。何もかもが可愛いじゃねえか。あ゛ぁ、好きだァァァ!!!!」
ちなみにここまで想いが強いのに告白しないのは、過去に一度大きな失恋をしているからである。
小学校で好きになった相手を六年間片想い。その後中学の修学旅行で告白して、見事に玉砕した。自分は両思いなのだろうと思っていた相手にいとも簡単にフラれたあの時の悔しさは、今でも忘れられない。
夏斗は日和っていた。告白することで……告白に失敗することで、おとなりさんのあの後輩との楽しい日々が終わってしまうのではないかと。
女は思わせぶりな生き物だ。こっちが「あれ、コイツ俺のこと好きなんじゃね?」と勘違いしてしまう行動を繰り返してくる生き物だ。
だから今回、この恋に両思いの確証が持てない。それこそこのヘタレが足踏みしている最大の理由である。
「は〜ぁ。そういえばえる、何で泣いてたんだろ。理由も聞かずに突発的に慰めて……俺、ちゃんとアイツの心の支えになってやれたのかな」
時計の針が動く音を聞きながら、ころんと寝転がって白い天井を見上げる。
不安だった。いっそまた泣き出してしまって、メッセージでも送ってきてくれれば……そんな不謹慎な事を考えた。
そして、そのタイミングで。
「!!? え、える!?」
ぽろんっ、とメッセージの受信を伝える音が鳴る。飛び上がるようにしてスマホにすぐ手を伸ばすと、そこには彼女からのメッセが表示された。
『さっきは取り乱してごめんなさい。迷惑、でしたよね』
少し病みを感じる、ネガティブな文章。餌をとりあげられた子犬のような表情でそれを打っている彼女の姿が、容易に想像できた。
『そんなことないよ。俺こそごめん、えるが泣いてるところみたらいてもたってもいられなくなって、いきなり抱きしめたりなんかして。怖かったよな』
『そ、そんな事ないです! そ、その……ナツ先輩になでなでしてもらったりして、本当に嬉しかったんです。でも、また迷惑をかけちゃったって。申し訳なくなって……』
きっと彼女は、自分のことを低く見積りすぎている。こういう少し面倒くさいところも可愛くて魅力的なのだという自覚がないんだ。
夏斗は、すぐに伝えてあげなければならないと思った。そもそも自分は彼女の行動を迷惑だなどと、一度も思ったことはないと。罪悪感を感じる必要なんて、一つもないのだと。
「ははっ、本当可愛いなコイツ。こういうところ……やっぱり、好きだ」
その後、二人のやり取りは深夜まで続いた。
自分を責めるえると、慰める夏斗。両片想いの二人にとってそれは、とても幸せな時間で。途中からは通話を繋いで、少しずつ明るくなっていくえるの声色に夏斗は高揚し、何度も何度も優しく接して言葉をかけてくれる夏斗に、えるはひび割れた心を癒していく。
『すぅ……すぅっ……』
「寝ちゃったか。元気になってくれて、本当によかった」
そして最後には、えるの寝落ちによって通話は幕を閉じて。後を追うようにまた、夏斗も眠りにつくのだった。