男の背はとても高かったので、まだ幼い子どもであるサリアは、いったいどんな表情をして自分を見下ろしているのか知ることができない。
まるで神話に出てくる顔のない怪物のようだと、少し怖くなった。
それでも、もうこの男しかいないのだ。自分を守ってくれるはずの存在は。
サリアは小さな手を伸ばし、喉の奥からやっとのことで声を出す。
『置いていかないで』
男はそのとき、一度でもサリアのほうを振り返っただろうか。それとも彼のことなど気にもかけず、さっさと行ってしまっただろうか。
よく憶えていないのだ。だってどちらにしても、男はサリアを置いて行ってしまったのだから。
男は立ち去る前、最後にこう言った。
『足手まといは、連れてかない』
人間さえも異臭を放ち、ゴミで溢れ返るこの
まだたった七歳だったサリアは、この街で一人で生き延びなければならなかった。
「サリア、ぼうっとするな。火に巻き込まれる」
突っ立ったままのサリアを覗き込むようにして、レイが顔をしかめて言った。
「あ、ああ」
いつも飄々としているサリアが、めずらしく放心して呆然とその場に立ち尽くしている。
あたりを見渡すと、ペルとメロウは爆発で火に巻かれた貴族の屋敷の鎮火作業を手伝っていた。
セイレーンの血を引くためか、水属性の術が得意なメロウがペルの補助で力を増幅させ、魔法で火を消しているのだ。
「あいつ……あいつは?」
あいつ、とサリアがいうのは、爆発を起こした張本人、自称革命家のテロリストのことだ。
「仮面をつけた男か。煙が収まったときには、すでにいなかった。どこかに逃げたようだ」
サリアの心情を知らないレイが、冷静に答える。握っていた剣を鞘に収め、砂ぼこりの付着した鎧を軽くはたいた。
「俺たちも消火にあたろう。怪我人も出ているようだ」
「ああ。……なあ、レイ」
「どうした?」
「俺は、足手まといか?」
「……急に、どうした? おまえらしくない」
「いいから教えてくれ」
「そんなふうに思ったことはない」
いつの間にか近くに来ていたメロウが、ふたりの会話に割って入った。
「そうだよねぇ……。世間知らずのレイだけじゃ、船にも乗れずにはじまりの街で迷子になってると思うよ。もしくは火山地帯に一人で突っ込んでるとかさぁ」
「メロウ、どういう意味だ」
「あはは、レイ迷子!」
「ペル、おまえまで……」
三人の間に入り込んできたペルが、レイを指差して笑った。それから、今度はサリアのほうを指差した。
「サリア、なんでも知ってる! それにレイほどじゃないけど、剣も強い! サリアすごい!」
「そうか……」
ほっとした顔で、サリアがため息を吐いた。
「なんだい、かまってちゃんみたいなこと言ってさぁ……。かまってほしいの?」
「メロウ、うるさい」
サリアはからかうメロウの長い髪を引っ張って、少し恥ずかしそうな表情をした。
そのやり取りを見ていたレイはやれやれと呆れた声を上げて、全員に向かって言った。
「メロウとペルのおかげで火もおさまったようだ。宿をとって、今日はもう休もう」
***
時刻は早朝。四人はそれぞれの寝床で眠っていた。
仲間ができてからレイは眠りが深くなったようだ。ペルもメロウと同じベッドで、安らかな顔をして寝息を立てている。
サリアだけが白いシーツの上に横になって頭の後ろで手を組み、一晩中何かを考えていた。
炎の中で笑う、仮面の怪人。右半分は、火傷の跡。左半分は、ぎらぎらとした見る者を抉るような緑色の瞳が、白い仮面の奥に覗いていた。
サリアと同じ、碧に少し黄の混じったペリドットの色。彼岸花を燃やしたような赤髪だけは自分と少し違っていて、そのことにサリアは安堵の息を漏らす。
『足手まといは、連れてかない』
低い声。突き放すような、冷たい声。
あれから十八年の月日が流れている。それでもなお、その声はサリアの頭の片隅にこびりついて離れない。
レイたち三人が起きてきて、身支度を始めた頃、宿にホープ城からの使いがやってきた。
その騎士は昨日城の受付で謁見を断った担当者より上の階級のようで、首飾り型をした緻密なデザインの十字章をはじめ、多数の勲章を身につけていた。
宿屋の待合部屋に勇者一行を呼びつけると、こう言った。
「勇者であるレイ様御一行に要請があります。特S級テロリストの『ダリス』からホープ王子を守っていただけないでしょうか。頼みというより、これは国命に近い」
「ハァ? 昨日謁見を断ったのはそっちじゃねえか」
サリアはいつもの調子で、挑発的な態度で騎士に言い返した。
「敵はおそらく魔導士です。しかも我々が見たこともないような、不可思議な魔法を使う。肉弾戦であれは我々の歩兵は負けはしないが、昨日の騒ぎで奴の魔法を見て、我らの手に負えないと確信したのです。レイ様に守ってほしいと、ホープ王子直々のご指名です」
「……あいつは魔法なんか、使えやしなかったはずだけどな」
「サリア、どういう意味だ?」
サリアの漏らした言葉にレイが聞き返したが、ふたりの会話は騎士によって遮られた。
「あなたは、断れないはずだ。勇者が王族を守るのは当然のことでしょう」
「なんだと?」
騎士の台詞に、サリアが噛みついた。
「勇者は国民のためじゃなくて、王族のために存在するってのか? 勇者は国王の犬か?」
「やめろ、サリア」
レイが片手で、騎士のほうへと身を乗り出したサリアを制した。
「サリア、昨日からへんだね」
「そうだねぇ、今日も朝から機嫌が悪いねぇ」
離れて座っていたペルとメロウが、小声でこそこそと話をする。
「わかった。とにかく今日、全員で城に出向く。今度こそ王子と謁見させていただこう」
レイがそう言って話を終わらせた。騎士はレイに頭を下げると、城へと帰っていった。
***
サリアが近道だと言うので、四人は
路上では多くの痩せ細った人々が寝そべっている。彼らはただそこで死を待っているだけのようにも見えた。
金銭や食べ物を要求して次々とまとわりついてくる子どもたちを前に、メロウは戸惑っていた。ペルは悲しそうな顔で彼らを見た。サリアは表情を変えなかった。
一番衝撃を受けていたのは、勇者であるレイだ。貴族出身の彼が、初めて見る
その悲惨さに、目を背けてしまいそうになった。
「サリア」
「んー?」
「おまえは出会った日、言っていたな。この国の、貧しい者たちの暮らしを見たことがあるのかと」
「確かに言ったけどよ、俺だってわかってるよ。あんたが勇者だろうが何だろうが、一人の力でどうにかできる問題じゃないってことくらいな」
真剣に考え込むレイに対して、サリアはまるで諦めているかのように軽い口調だ。
「だが、勇者である私がただ見ているだけなど」
「あんたの使命は魔王を倒して混沌から国を守ることだ。全部ひとりで抱え込もうとしなさんな。この現状を変えるために、俺はあいつと同じ革命家になりたくて……」
「革命家?」
「いや、何でもない。忘れてくれ。革命は、成功してからじゃねえと革命って呼べないんだ」
ペルが窓のない、半壊した建物を指差して叫んだ。
「あっ、教会だ!」
「先生!」と呼ぶ子どもたちの声と、算数を教える大人の男の声が建物の中から聞こえてくる。
レイとサリアが覗いてみると、何人もの子供の後ろ姿と、教師の着ている白衣が見えた。
「あれは教会じゃなくて、学校って呼ぶんだよ。もちろん正式な場所じゃないだろうけど……。貧しい子どもに勉強を教える、そんな人もいるんだね」
と、メロウがペルに説明している。
「ペルはね、シスターに言葉とか数字とか教えてもらったんだよ」
ペルの話をメロウは微笑みながら聞いている。
サリアはさっきの会話を終えると黙ってしまい、別のことを考えているようだった。
貴族屋敷とは対照的な、質素に造られたホープ城へと、レイたちはそれぞれの思いを胸に足を踏み入れた。