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容疑者と豚丼

 ぼくにはふたつ年下の優未ゆみという恋人がいた。身体のつくりが小さくて、どことなくアンニュイな感じのする女の子だった。


 でも優未とつき合って行くうちに、どうやらぼく以外にも男の影を認めざるを得なくなってしまった。

 問い詰めてみると、優未はあっさりとそれを認めた。でも彼女の気持ちはすでにぼくにあるので、その男とはきっぱり縁を切ると言ってくれたのだった。


 それはちょうど一週間後のことだった。

 優未が男と連れ立って、マンション4階の自室に入っていくところを目撃してしまったのだ。ぼくは落胆した。男が立ち去った後、優未と会って話をつけるつもりでマンションの下でしばらく時間をつぶすことにした。


 ところが待てど暮らせど男の出てくる気配がない。そのうち、数名の警察官が部屋の前に現れた。優未になにかあったのだろうか。嫌な予感がして、ぼくは非常階段を駆け上がった。幅の狭い窮屈なコンクリートの階段だった。

「中から鍵がかかっているな。井上さんいらっしゃいますか。S署の者です。ここを開けてください」

「あの・・・・・・」ぼくは息をはずませながら警察官たちに声を掛けた。「合鍵ならぼく、持っていますけど」

 頭の上からつま先まで、警察官たちがなめ回すようにぼくを観察する。

「失礼ですがあなたは?」

「ここの住人の友達です」

「ずいぶん親しいのですね。合鍵まで持っていらっしゃるとは」少し皮肉に聞こえたが「ではお願いします」と警官たちは素直に道を開けてくれた。

 ぼくはいつものように鍵を開けて、ドアを押し開けた。

 一番年長の警察官がぼくの肩を掴んだ。

「危ないですからあなたは下がっていてください」

 警察官5人が部屋になだれ込んだ。ぼくもその後に続いた。

 優未はこちらに向かって部屋の奥のソファーにひとり座っていた。

 胸にナイフが突き刺さったままの恰好で。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「高宮。お前、おれにならしゃべるって言ったそうだな」

 結局ぼくは“重要参考人”という名の容疑者として身柄を確保されてしまった。理由は合鍵を持っていたことだけではない。凶器にぼくの指紋が検出されたこと。そしてなによりも、そこには誰の姿もなく、現場が密室状態だったからである。


 S署の取調室はまるで墨を水に溶かしたような、どんよりとした空気を漂わせていた。

 ぼくは疲れた顔で大柄な舎人とねり刑事を見上げた。スタンド式の白熱灯の光で、舞い立つほこりがスノー・ドームのようにキラキラと美しく舞うのが面白かった。

「おかげさまで、でかい山の現場から抜け出して来たというわけだ。あと少しでホシを確保できるって時によ。同僚は大喜びだ」刑事が身を乗り出してぼくを睨みつけた。「高宮、おまえの黙秘は終わりだ。さあ、話してもらおうか」

「その前に・・・・・・」ぼくは無機質な目をした舎人の顔を眺めて言った。「腹が減りました」

 壁掛け時計が夜の8時をさしていた。

「ちっ。図々しいやつだ。おい、『勝政』まだ営業しているか」

 舎人刑事は部屋の隅で、タイプを打っていた実直そうな警察官を顧みる。

「まだやってると思いますが」

「よし。かつ丼でいいか?」

「豚丼でお願いします」

「豚丼?」舎人はいぶかしげに呟いた。「珍しいもの食うじゃないか。豚丼ね、おいそれひとつ頼んでくれ」


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「刑事さん」ぼくは刑事に微笑みかけていた。「ぼくは犯人じゃありませんよ」

「ふん。容疑者はだいたいそう言うんだよ。あの部屋はマンションの4階で、鍵が掛けられていた。完全な密室状態だったんだよ。窓も内側から施錠されていた。そして合鍵を持っていたのは管理人とおまえの二人だけだ」

「警察官がなだれ込んだあの時、刑事さんもすぐあとからいらっしゃいましたよね」

「ああ、ちょうど近くを通りかかったんでな。近隣の住人から通報があったそうだ。それがどうかしたのか」

 そのとき刑事の背後の扉が開く。出前が届いたのだ。ぼくの前に重量感のあるどんぶりが置かれた。部屋の中に微かだが甘辛い豚丼の香りが漂う。

「舎人さん。あなた、帯広出身でしょ?」

 ぼくは刑事の前にどんぶりを置きなおした。

「?」

「実はぼくもなんですよ。イントネーションでなんとなくわかりました」

「それがどうした?どんぶりはおれのじゃない。さあ食べろよ。食べてすべて吐き出してしまえ」

「なんも(どういたしまして)。吐き出すのはぼくじゃない。あなたじゃないんですか、舎人刑事」

「なんだと!」

 刑事は目を剥いた。

「あの時ぼくは分かったんです。部屋に入った時のあなたの匂い。あれは優未の香りだった」

「何が言いたい・・・・・・」

 ぼくは刑事の前のどんぶりのふたを開けた。芳醇ほうじゅんな香りがあたりに漂い出す。その瞬間、舎人の記憶の奥底にあった、帯広の景色がパノラマ写真のように広がり出したのだった。

「明治の末期、十勝で働く者たちは疲弊していました。農林水産省のお役人はなんとか労働者たちに栄養をつけてもらおうと、うなぎを食べさせようとと思ったんです。でも当時うなぎは簡単に入手できなかった。だから帯広特産の豚ロースに、うなぎのたれをかけて食べさせた。それが豚丼のはじまりです」

 舎人の指が小刻みに震えだした。まるでモールス信号を打つみたいに。

「あなたは事件の後、部屋に入ってきたんじゃない。部屋のどこかに隠れていたんだ。それで、さも通りかかったかのようなそぶりで捜査に合流した。違いますか?」

「凶器にお前の指紋が残っていたのは?」

「それはぼくが彼女に料理を作ってあげていたからです。彼女は料理ができませんでしたから。それにぼくの職業は調べてあるんでしょう?香水の調香師ですよ。あの香りはぼくが彼女に作ったオリジナルの香水の香りだったのです。そしてあなたの身体には優未の移り香が残っていた」

「そ、そんなものは証拠でもなんでもない」

「いやもうひとつ。彼女には性癖があったんです。あなたの背中を見れば、彼女の爪跡がみつかるはずだ。そこに彼女のDNAもね。記録係さん、ちゃんとタイプしてもらえましたか。あと防犯カメラに刑事さんと優未が一緒に歩いている録画がどこかに残っているはずです」

「いずい(まずい)な・・・・・・もはやこれまでか」刑事は年老いた牛のように項垂うなだれた。「せっかく帯広の田舎から都会に出てきたってのにな」

 刑事の目がいつしか険しさを失い、目の前のどんぶりに注がれている。

「高宮・・・・・・この豚丼もらっていいのか?」

「どうぞ」

 ぼくはにっこりと笑ってうなずいた。

 唖然としてタイプの手を止めていた警察官に舎人が言った。

「おい、悪いが高宮の分も追加でたのんでやってくれないか?」

「あ、ぼくはかつ丼で。もう同じものを取りあうのはごめんですから」

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