「わが刑務所では、受刑者にガムを噛ませることを推奨しています」
銀縁のメガネをかけ、白い口髭をはやし、どこかダルマのような体型をした所長が新聞記者の取材に答えていた。
「それはどういうことでしょうか?」
ロイドメガネに濃紺でピンストライプの入った細身のスーツに身を包んだ長身の新聞記者がメモを取っている。彼は長い足を組んでいたので、ピカピカに磨き抜かれたプレーンツゥの黒い革靴に所長の丸顔が今にも映り込みそうだった。
「まずだね、ガムを噛むと唾液が分泌される。唾液は殺菌作用があるから虫歯や口臭予防に効果があるのです」
「なるほど、受刑者が歯医者にかからなくて済みますね」
「それに加えて、噛むという行為は脳の血液の循環を良くしてくれます」
「頭が良くなるということですか」
「その通りです。年老いた受刑者のボケ防止にもなります。さらに唾液は消化を助けますから、胃の負担を和らげてくれる効果が期待できるのです」
「そうですか。ぼくなんかは胃が弱いから助かるな」記者の角張った顔が頷く。
「それによく噛むことは、顎あごの発達を促し歯並びを良くしてくれると言われているのです。あ、もっともこれは成長期に限ることかもしれませんがね」
「ぼくも子供の頃に、もっとガムを噛んでおけばよかったな」ロイドメガネがにっこりと笑って握手を求めた。「本日はお忙しい中、どうもありがとうございました。今日はいいお話が聴けました」
「こちらこそ。わが刑務所の印象が良くなるような記事を書いてくださいよ。期待しています」
ダルマのような所長は満面の笑みを浮かべて記者の手を握り返した。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「所長。また23号にチューインガムの差し入れです」
「ほう。あの記事のおかげで、ここのところガムの差し入れが多くなったな。23号に渡しておきなさい」
「かしこまりました」
看守は所長室を出た。
大昔、ガムはアメリカ先住民族の嗜好品だった。サポディラなどの樹液を噛んで、眠気を防いだり、集中力をあげるのに役立っていたと言われる。サポディラに含まれる“チクル”という成分に弾力性があったのだ。
「23号。差し入れだ」
「ありがとうございます」
23号と呼ばれた男は直立して、1ダースのガムが入った箱を両手で捧げるようにして受け取った。
「お前の知り合いは、ガムばかり送ってくるな」
「はい。少しでもわたしの頭が良くなるようにと言う配慮だと思います」
「まあ、しっかり労働に励むことだ。そうすれば早くここを出ることができるぞ」
「ありがとうございます」
看守が去って行った。受刑者23号は周りの受刑者に親指を立てて合図を送った。全員がガムを噛んでいた。
事件が起きたのはその夜だった。監視員室でモニターを見ていた看守のひとりが異変に気がついた。
「おい、モニターが変だ。なにも映らなくなってしまったぞ」
「どこのモニターだ」
「いや20台すべてが真っ暗になった」
「なんだって!」
「機械の故障かもしれない」
そのとき別の看守が飛び込んできた。
「監視カメラのレンズになにか貼りつけられているぞ!」
すぐに脚立を出して確認すると、レンズを覆うように噛んだガムがべったりと貼りつけられていた。所長が大声で叫んだ。
「くそう!誰の仕業だ。脱獄警報を鳴らせ。裏口や周辺の壁を固めるんだ」
その直後、表玄関で大爆音が轟いた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「おかえりなさい、ボス。よくすんなり出てこられましたね」
運転席にいたのはロイドメガネをかけたあの記者に扮した手下であった。
「ごくろう。ガムのおかげで頭が良くなったのさ。まさか表から脱獄されるとは誰も思わないだろうよ。こういう時に一番手薄になるのは正面玄関なのさ」
現在、ガムの原料にチクルはほとんど使われていない。“サク酸ビニール樹脂”すなわちプラスチックに味や香りをつけて売られているのである。
23号はその原料に似せて、プラスチック爆弾で偽装したガムを部下に差し入れさせていたのだ。
「受刑者の家を回ってくれ、手伝ってくれた報酬を彼らの家族に届ける約束をしたのでね」
その後、この刑務所ではガムを噛むことが禁止されたのだという。