「秋のヒマラヤをカメラに収めたいので、チベット行きのビザを発行していただきたいのですが・・・・・・」
ぼくはプロのカメラマンをしている。ある雑誌の企画で、理想郷の風景を掲載することになり、入国許可証を取得するために中国大使館に来ていたのだ。
「あいにくチベットは個人による自由旅行は禁止されています。チベット観光局の入国許可証をもっている旅行社にご依頼なさったらいかがですか」
「わかりました」
取りあえず馴染みの旅行社に連絡をすると、運良く許可証を持っているという。ぼくは現地では原則フリーで動き回りたいのだが、トラベルツアーの自由時間を使って取材するしかないようだった。
しかも、同伴するガイドはぼくのかつての親友である
なぜ過去形なのかというと、独身時代にぼくと彼はある女性を取り合いになった仲なのだ。抜け駆けをしたのはぼくの方だったが、彼女の喜ぶ姿を見て田辺が身を引いたのだった。
田辺は腹が煮えくり返っていたに違いない。ほどなくしてぼくは彼女と結婚した。でもぼくの浮気が元で、3年後に離婚している。あいつと結婚していれば、もしかしたら妻は幸せな結婚生活を今も送っていたかもしれない。
ぼくらのツアーは旅客機で中国に入り、
ぼくと目が合った田辺は、意外にも満面の笑みを浮かべてぼくに握手を求めてきた。
「やあ、健司じゃないか。久しぶりだなあ。元気だったか?」
10年の歳月と、異国の暮らしがぼくらの
「田辺。あのときはちゃんと謝罪することができなかった。ごめん」
「なに言ってるんだよ。
「それが・・・・・・」
「うまく行かなかったってことか」
「全部ぼくが悪いんだ」
「まあ、気にするなって」田辺がぼくの顔を見る。「あとで自由時間になったら一杯やろうぜ」
「ああ」
そう言うと、田辺はツアー客の中に消えていった。ぼくの胸に暖かいものがこみ上げて来るのがわかった。
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成都からラサまでは時間にして25時間、2000キロの長旅である。
青蔵鉄道は標高4000mを走る“天空列車”と呼ばれているのだ。ぼくは車窓から広がるその絶景をカメラに収めた。
「再会に乾杯!」
田辺はぼくにビールを勧めた。
「標高が高いところで飲む酒は旨いぞ」
ぼくらは食堂車で旧歓を暖め合った。
ぼくはビールをぐいっと煽った。「田辺。チベットはもう長いのかい」
「そうだなあ。旅行社に勤めてからだから・・・・・・かれこれ5年になるかな」
「結婚は?」
「いや。生涯独身を貫くつもりだ。それよりなぜ芽依さんと別れたんだよ」
「いろいろあってさ。今でも思うよ。田辺だったら幸せにしてやれたかもしれないなって。日本に帰ったらあいつに会ってみたらどうだい」
「馬鹿言うな。もうそんな気はないよ」
食堂車の車窓から、抜けるような紺碧の空と白い雲が見える。まるで動く絵画が飾ってあるようだ。
「ツアーのメンバーにお前の名前をみつけたときにはびっくりしたよ」
「うん。ぼくも田辺がガイドだって聞いて正直驚いた」
「今でも好きか?」
「なにを?」
「イカスミ黒胡麻パスタ」
「覚えているのか」
「ああ、健司の大好物だったからな」
「最近は食べてないな。日本を後にする前に食べてくりゃ良かった」
「そう言うと思って・・・・・・」
田辺が給仕に手を上げた。給仕が頷くと、キッチンから白ワインと一緒に黒々としたスパゲティの皿を持ってきてぼくの前に置いた。
「ええ。なんで!」
ぼくは目を丸くして田辺をみた。
「コックに頼んで用意しておいたのさ」田辺がいたずらっぽく笑う。「友情の証だよ」
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ほどなくして列車はラサに到着した。標高が高いので空気が薄い。ラサは“神の地”という意味なのだそうだ。ツアーの一行はポタラ宮という大きな寺院などを見学して回った。
「シャンバラはここから遠いのか?」
ぼくは伝説の楽園と言われている場所を田辺に訊いた。
「カイラス山の西南だ。車を手配してやるよ。一緒について行ってやりたいんだが・・・・・・」
「分かってるよ。ここからはぼくも自由に動きたいんだ」
「それじゃあ、ひとつ言っておくけど・・・・・・」田辺が優しい眼差しをぼくに向けた。「現地のあいさつの仕方なんだけど・・・・・・」
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その後ぼくは消息を絶った。
ぼくはいたるところで田辺に教えてもらったあいさつを欠かさなかったのだ。それがどういう意味なのか知りもせずに・・・・・・。
チベットではお互いにペロっと舌を出し合ってあいさつをする。それには「わたしは悪魔の生まれ変わりではありませんよ」という意味があるのだそうだ。
言い伝えによると、悪魔の生れ変わりは黒い舌を持っているという。