「これが被害者だね」
「触ってもいいかな?」
「どうぞ」
近くにいた鑑識官が答えた。
被害者はブルージーンズに七分袖の薄いクリーム色のタートルネックのセーターを身に着けていた。
「警部。この真夏にタートルネックなんておかしくないですかね」と部下の
「川野。ここを見てごらん」
岡部警部は被害者のタートルネックをずらして川野に見せた。
「これは・・・・・・キスマークですね」
「これだけの美貌だ。このお嬢さんにぞっこんなボーイフレンドが、一人や二人いてもおかしくないだろうよ」
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「なるほど、あなたと女給メイドの
岡部刑事は被害者の弟、
「はい。姉の
斗真は悲しみをこらえるように口を長い指で覆った。
「それで思わずドアを開けて部屋に飛び込んだ。そしてお姉さんが倒れているのを発見したと・・・犯人の姿をご覧になりましたか」
「窓から逃げたのだとは思います。でもとっさの事だったので、なにも覚えていません」
「そうでしょうな。女給の篠宮さんも同じことを言っていましたよ。しかし残念ながら、窓にも庭にも犯人の指紋はおろか足跡らしきものも残っていませんでした」
「刑事さん。姉はなぜこんな目にあってしまったのでしょうか?」
「それをいま捜査中です。どうやら盗まれた物もないようなので、物盗りの犯行ではなさそうです」
そこへ女給の篠宮
「あ、ちょうどよかった、篠宮さん。ここの部屋の合鍵は誰が持っていましたか」
節子は斗真の顔を見た。
「ぼくが持っていましたが、それが何か」と斗真が節子をかばうように言った。
「いえとくに。それ一本だけですか」
「そうですが、犯行当時、部屋の鍵はかかっていませんでした。それがどうしたというのですか」
「いや失礼しました。大したことではありません。一応お伺いしただけです」
「篠宮さん。もう下がっていいよ」
そう斗真が言うと、節子は丁寧にお辞儀をして部屋から出ていった。
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「どうしました」川野が岡部の顔を覗き込む。
「いや・・・・・・なにか気にかかるんだ」
「遺産相続の件ですが、姉の美那子亡き後は斗真ひとりが相続人になるようです。しかも斗真はサラ金から借金をしていることがわかりました」
「どのぐらい」
「かなりの額です」
「ま、いいや。きみはそのまま斗真と被害者の男性関係、それから外部侵入者の線で捜査を進めてくれ」
岡部は手を振って出て行こうとする。
「警部はどちらに?」
「音楽スクール」
「楽器でも習いに行くんですか」
「そう。ちょっとヴァイオリンをね」
「警部がですか」
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「先生。ちょっと基礎から教えていただきたいのですが」
「どうぞ。岡部さんでしたっけ・・・・・・それにしても、どうしてそんな恰好を?」
岡部はジーンズの上に黒いタートルネックのセーターを着こんで立っていた。
「すみません。夏物がなかったもので、しょうがなく冬物を着てきました」
「まあ、それはどうでもいいですけど・・・・・・暑くありませんか?」
「だいじょうぶです。少々暑いですけど」
「ただ、言っておきますけど、普通ヴァイオリンを弾くときにそういうセーターは身につけませんよ」
「どうしてです?」
「ヴァイオリンを構えてみてください」
「こうですか?」
「そう、首に挟んで・・・・・・そして弓を激しく上下に動かしてごらんなさいな」
「こうして・・・・・・あれ」
「ほら、ヴァイオリンが滑ってしまうでしょう」
「本当だ」
「だからヴァイオリンを弾くときには首回りの開いている洋服でないといけません」
「練習でもですか」
「もちろんです」
岡部は周りの生徒を見回した。彼女たちの大半は、左アゴあたりに美那子と同じような
「そうだったのか。ありがとうございます。失礼します」
岡部は教室を駆け足で出て行った。
「あの岡部さん。レッスンは・・・・・・?」
岡部は川野に携帯電話をかけた。
「はい川野」
「川野か。あれはキスマークなんかじゃない。ヴァイオリニスト特有の痣だ」
「それじゃあ」
「彼女は犯行時ヴァイオリンを弾いていたんじゃない。その前に消音機つきのピストルで撃たれたんだ」
「でも斗真の証言だと、部屋の前で銃声がして演奏が止んだと」
「音楽データを部屋のオーディオにBluetoothで飛ばしたんだよ。そして銃声の音を再生と同時に音楽を止めたんだ」
「それじゃあ犯人は」
「女給の篠宮節子だ」
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後の調べでは、節子の幼い頃、上山田財閥の借金により両親が焼身自殺をした経緯があったとのことである。