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親指の指紋

 その殺人は、夜の8時過ぎに実行されたと考えられた。

「被害者は按摩マッサージ店経営の小田沼敬三おだぬまけいぞう54歳・・・・・・」

 西条刑事は手帳を見ながら、上司の梁瀬やなせ警部に状況を報告していた。殺害現場はマッサージ店舗の裏にある小さな公園であった。

「腹部を鋭利な刃物で刺されたことによる失血死とみられます。所持品はカードと小銭の入った財布だけです。携帯電話は見当たりません」

「物取りに札だけ抜かれたのか、それとも最初から小銭しか持っていなかったのか・・・・・・」梁瀬は当たりを見回した。

「最近はキャッシュレスの時代ですからなんとも言えませんね」

「凶器は?」

「さきほど鑑識が持ち帰りました。指紋が残っていればいいのですけど」

「とにかく、まずは被害者の家を当たろう」

「了解しました」


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 その夜、控室には雅子とあんの二人だけが残っていた。

 それほど大きくない按摩マッサージ店である。男のゴツイ指で体を触られたくないというお客のために、女性の指圧師だけを雇い入れているのが売りの店舗であった。

 オープン当初は順調に売上を伸ばしていたのだが、感染症が広がってからというもの、客足は途絶えがちだった。雅子と杏は近隣のビジネスホテルからマッサージの出張依頼が入るのを待っていたのだ。

 彼女たちはお互い歳が近かったせいで、勤め出してすぐに打ち解け、今では親友と言ってもいい仲だった。

「今日も暇ね」杏がぼやく。

「ほんと、困っちゃう。この仕事歩合制だから、コールが入らないとぜんぜん稼ぎにならないのよね」

 雅子がそう言いながらお茶を淹れる。

「そういえば雅子、みよちゃんの具合はどうなの?」

 みよちゃんとは、3歳になる雅子のひとり娘のことである。

「うん、やっと退院できたんだ。でも楽じゃないよ。薬代も通院費も馬鹿にならないし・・・・・・うちの宿六はたいして稼いでこないしさ。ところで杏、彼氏といつ結婚するのよ」

「自分の店を持ちたいからって、当分さきになりそう・・・・・・だから少しでも稼いでおきたいの」

 その時杏の携帯にメールが入った。とたんに杏の眉間にシワが寄る。

「またオダッチから?」

 彼女たちは陰でオーナーをオダッチと呼んでいた。

「ちょっと行ってくる」

 壁掛け時計は夜の8時を示そうとしていた。


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「え、まさか・・・・・・」

 小田沼の妻えつ子は、両手で口を押えたまま動かなくなってしまった。

「お気の毒ですが、何者かに襲われたようです。奥さん?」

 梁瀬はなるべく感傷的にならないよう、努めて事務的に話を進めようとしていた。

「あ、はい。どうぞ中へ」

 ようやく我に返ったえつ子は涙をこらえながら刑事を家に招き入れた。さすがに経営者の家だけあって、豪華なリビングルームだった。警部たちは革張りのソファーに座り、ガラステーブル越しに聴き取り捜査を始めた。

「小田沼さんは、仕事関係でトラブルがあったとか、私生活で誰かに恨まれているようなことはありませんでしたか」

「存じ上げません」震える指でお茶を配る。「うちのひと、あまり仕事のことは話したがりませんでしたから・・・・・・」

「恐縮ですが、女性関係はどうでしょう」西条が続けた。

 梁瀬は咳払いをしてたしなめたが、えつ子は気を悪くするような素振りは見せなかった。

「多少遊んでいたかもしれませんが、浮気はしていないと思います」

「そうですか。お子さんは」

「長男と二男がおります。ふたりとも今は独立してここにはおりません」

 その後もとくにえつ子から収穫になるような話を引き出すことはできなかった。


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 杏は公園に行ったものの、そこには小田沼の姿はなかった。

「もう、やめてほしいわ。今日という今日はハッキリ言ってやろうと思っていたのに」

 小田沼は、杏に気があるようで、なにかにつけて呼び出しては迫ってくるのである。杏はしばらく待ったが一向に小田沼が現れる気配がないので、店に戻ることにした。店に戻ってみると、雅子の姿がなかった。

「あら、雅子お客が着いたのかしら」

 しばらくすると、雅子が戻ってきた。息が弾んでいる。

「あら、施術じゃなかったの」

「う、うん。ちょっとね、コンビニに用事があって」

 その数分後、裏の公園にサイレンの音が近づいて来たのだった。


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 翌朝、刑事が店に現れた。

「昨夜オーナーの小田沼さんが、裏の公園で亡くなられたのはご存じですね」

「はい」雅子と杏は神妙に頷いた。

「昨夜、7時半から8時半の間、どちらにいらっしゃいました」

 二人は顔を見合わせた。

「この控室にいました」雅子が答えた。

「お二人とも途中どこにも出かけていない?」

「どこにも出かけていません。昨夜はホテルからも要請がありませんでしたから、わたしたち一歩も外を出ていません」

 杏が雅子の目を見ながらそう言った。

「ほんとうに?」

「はい、間違いありません」と雅子がきっぱりと言った。


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「それで、村田杏さん。あなたが小田沼敬三さんを殺害したと」

 その夜、杏が警察署に出頭した。

「はい、しつこく付きまとわれて、衝動的に刺してしまいました」

「なるほどねえ」

 西条は取調室の椅子に座りなおした。

「でもね、結城雅子さんもあなたと同じように自首しに来ているんですよね」

「はい?」

 杏は驚いて顔を上げた。

「今となりの部屋で梁瀬警部が対応していますよ」


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「なるほど、明日のお金に困って、オーナーに借入をお願いしたが、断られてカッとなり・・・・・・ですか」

「はい。すみません」

 雅子が俯いて答える。

「あなたたち、親友なんだってね。いい友達だよ。お互いにかばい合って。今となりにもお友達が自首しに来てますよ」

「なんですって?」

「いいですか。あなたも、杏さんも犯人ではない。なぜならば、凶器からは、親指の指紋がハッキリと検出されたんです。犯人は綺麗に拭き取ったつもりだったのでしょうがね」

「杏の指紋ではなかったの?」

「見ればすぐにわかりますよ。あなた達は指圧施術のせいで、親指の指紋がほとんどないじゃありませんか」

 その後の捜査で、事件は嫉妬に狂った妻えつ子の犯行と断定されたのであった。

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