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将棋対局殺人事件

 名人藤枝棋一が金を自陣に寄せ、挑戦者の関田八段が長考の末に封じ手をしたところで、対局は翌日に持ち越された。

 封じ手とは、二日間に渡って行われるタイトル戦において不公平がないように、翌日の最初の一手を紙に書いて封印することである。

 それまでの対戦成績は三勝三敗の五分で、AIの予想では名人がやや有利という展開になっていた。

 挑戦者の関田八段は“昆虫博士”の異名をとる、異例の将棋棋士である。彼が殺害されたのはそんな夜のことであった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 対局二日目の朝、朝食の場所に現れない関田を気遣った旅館の女将が部屋を訪れた際に、うつ伏せになって倒れている関田を発見したのである。

「発見したときにはすでに息がなかったということですね」

 三田警部は女将に状況を確認していた。

「はい。すぐに救急車を呼んだのですけれど」

 女将は憔悴しきった顔をしている。

 関田は背中を刃物で刺され、右手を伸ばした格好で亡くなっていた。彼の右手の中指は桂馬を押さえていた。印象的な死に様だった。彼は桂馬が好きだったのだろうか。

 そしてさらに彼の左手には、なぜか七星テントウ虫の標本が握られていたのだった。

「死後5時間から7時間といったところですね」

 鑑識官が三田に告げた。関田は夜中に殺されたのだ。

「それにしても・・・・・・」三田は周囲を見回した。「この標本はなんですか」

 関田は宿の部屋に昆虫の標本を持ち込んで、いたる所に飾っていたのだ。

「それは関田八段の精神安定剤ですよ」と、メガネを掛けた初老の男が声を掛けてきた。

「あなたは?」

「本局の立会人です」

「この旅館に寝泊まりしていたのは、対戦者と立会人と記録係、それに観戦記者の4名だと聞いていますが」

「わたしがその立会人の天童です」

 恰幅のいい和服の男が廊下から進み出てきた。

 天童隆といえば、将棋界の重鎮である。現在は現役を退いて永世名人に就いている。

「関田先生は昆虫博士でしてね。彼は対局にいつも標本を持ち歩いているんですよ。なあ、桂くん」

 天童の後ろには、背広を着た中年男と淡い藤色の着物を着た若い女性が控えていた。

「本局の観戦記者を務めている桂将馬かつらしょうまと、記録係の土田紗愛つちださな三段です」

「記録係というと、あの10秒・・・・・・といか言うひとですよね」

 紗愛がいくぶん青ざめた顔をして答えた。

「そうです。あとは封じ手の用意をするのもわたしの仕事です」

 色白で、大きな瞳が印象的な女性だ。

「封じ手というのは、翌日再開される最初の1手ですのことですか?」

「そうです」

「それはいまどちらに?」

「封じ手は2通作ります」天童が言う。「そのうちのひとつは立会人のわたしが持っています。もう1通は主催者が旅館の金庫に保管してくれているはずです」

「見せていただけますか?」

 天童と桂記者が目を合わせる。

「先生。こうなれば対局も継続できません。開示しても差し支えないかと・・・・・・」と、背広姿の桂記者が言う。

 桂将馬という名前からして、彼もきっと記者になる前はプロの棋士を目指していたのだろう。

「うむ」

 天童は懐から封印された封筒を取り出して、中から一枚の紙を取り出した。そこには“8六桂”と筆書きで示されていた。

「これは関田八段の書いた封じ手ですよね」

「はい、彼の封じ手です」

 いつの間にか銀縁メガネをかけた、痩身の男が三人の後ろに立っていた。名人の藤枝である。萌葱色の和服がよく似合っている。

「関田八段の8六桂馬は、ぼくの読みの中にもありました。この一手で、ぼくは関田さんに逆転を許していたかもしれません」

 正直な名人である。

「ひとつみなさんにお尋ねしたいのですが、関田八段の中指の下に桂馬が、それに左手にテントウ虫が握られていたのですが、なにか意味があると思いますか?」

「ダイニングメッセージということでしょうか」桂が背広から手帳を取り出した。

「桂さん。あなたも奨励会に入っておられたのですか?」

「ええ、まあ・・・・・・」桂は手帳のページをめくる手を止め、苦笑いを浮かべた。「昔の話です。25歳で四段に上がれなければプロにはなれんのですよ。まさか警部さん。ぼくが犯人だなんて言わないでしょうね」

「いえ、そういう訳ではありません。ただ桂馬の意味がちょっと気にはなって・・・。土田さん。桂馬とはどんな駒なのですか」

 三田は今度は紗愛に質問をした。

「チェスで言うと、ナイトのような動きをする駒です。前の駒を飛び越えて、斜め前に進むことができるんです。でもナイトとの違いは、桂馬は下から上にしか跳べないことです」

「なるほど・・・・・・失礼ですが、藤枝名人とあなたはどういうご関係で?」

「警部さん。ぼくらはただの棋士仲間です。おかしな詮索はやめていただけませんか」

 藤枝が紗愛をかばうように前に進み出た。

「そうですよ。何もそんな話題を記者の前で抜け抜けと出すなんて非常識にもほどがある」天童も割って入る。「週刊誌の読み過ぎですぞ」

「まあ、待ってください。スキャンダルは藤枝名人と土田三段の交際だけではないんじゃないですか?」

「・・・・・・といいますと」

 桂はまたもや興味津々という顔である。

「天童さんは土田さんに封じ手を教えて欲しいと頼まれませんでしたか」

「何を言っているんだ」

「もしかしたら、教えないまでも名人不利とだけは話したんじゃありませんか?」

「そんなことをする訳がない。確かに将棋連盟としては関田先生より藤枝名人にタイトル保持者になってもらいたい。それは将棋人気を支えることにもなります。でもそれは殺人を犯してまでの話ではない」

「それではなぜ土田さんが関田八段を殺害したのでしょう」

「なんだって?」

 藤枝名人がまさかという顔で紗愛を見つめる。

「きっと土田さんは藤枝名人のために、関田八段に負けてくれるようにお願いしたのではありませんか。そうですね」

 紗愛はただ俯いている。

「そしてその見返りとして関田八段はあなたの身体を要求してきた・・・・・・」

「警部さん。いくらなんでも、根拠もないのにどうしてそんなことが言えるんですか!」

 さすがの名人も頭に血が登ったらしく、顔を真っ赤にして怒りだした。

「そうですよ。名誉毀損になりかねない」と桂記者も三田を睨みつける。

「いいでしょう。関田八段のダイニングメッセージの意味をお教えしましょう」


 三田警部が4人を見回す。

「テントウ虫とは“テ”と“ト”を無視しろというメッセージとも受け止められます。“タチツテト”のテとトを消したらタチツになります。桂馬は下から上にしか動かせませんから、スタート地点はツになります。桂馬はふたつ上がって左右のどちらにでも動けます。さてどうなるでしょうか」

「タ行の両隣は“サシスセソ”と“ナニヌネノ”・・・・・・」名人が言う。

「そうです。タ行の両隣の文字・・・・・・それはサとナ」三田警部が紗愛に視線を向ける。「ツからはじまる桂馬の動きは・・・」

「ツ・チ・タ・サ・ナだ!」桂記者が叫んだ。

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