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指揮者の悲劇

「オーナー。春季コンサートの指揮を客員にさせるという話は本当ですか」

 ここは楽団のオーナー室である。常任指揮者の宇山剣一郎うやまけんいちろうはオーナーの杉﨑亮太すぎさきりょうたに詰め寄っていた。

「ああ、その通りだ。今回のコンサートでは三神健治みかみけんじ先生にお願いしようと思っている。少々値は張るがね。彼の女性人気は絶大なのだそうだ」

「それだけの理由で・・・・・・考え直していただけませんか」

「宇山君。これはもう決定事項なのだよ。公演のポスターもすでに発注済みなのだ」

「・・・・・・わかりました。失礼します」

 宇山はオーナー室を後にした。


 意外と知られていないかもしれないが、指揮者はオーケストラの一員ではないのである。宇山のように契約で常任指揮者を務めている者もいるが、今回の三神健治のようにフリーで有名オーケストラを渡り歩く人気指揮者もいる。もちろんたまに、常任も務めるが、自由に他のオーケストラも指揮できるよう有利に契約できる指揮者もいないこともない。


 宇山は義理の姉に電話を掛けた。

義姉ねえさん。ちょっと話があるんだ・・・・・・」


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「義姉さんは三神健治の心理カウンセラーもやっているって聞いたんだけど、本当?」

 宇山剣一郎は義姉の診察室にいた。

「やっているわよ。あなたみたいに神経擦り減らす指揮者って多いものね」

 宇山美津子みつこは一昨年兄が癌で亡くなったため、現在は未亡人である。すれ違いざまに大抵の男が振り向くぐらいの美人だ。

「可愛いい義弟を助けると思って、一生のお願いがあるんだ。三神健治を殺してほしいんだ」


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 コンサートの朝が来た。宇山は電話を掛ける。2コールで相手が出た。

「はい、三神です」

「コンサートの朝食には、オレンジジュースとパンケーキが最適な組み合わせだそうですよ」

「・・・・・・」電話が切れた。

 美津子が仕掛けた、マンションの窓から飛び降りろという暗示の言葉である。

 2時間後、オーナーから電話が入った。

「すまない。今日のコンサートなのだが、急きょ三神の代わりに振ってもらえないだろうか」


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 満場の拍手のあと、宇山剣一郎は指揮棒を持った。

「?!」

 動かない。指揮棒を持った手が、石のように固まってまったく動かないのである。団員たちが顔を見合わせ始めた。額から汗がこぼれ落ちる。

「いや、お待たせしました」

 そのとき舞台の袖から三神健治が颯爽とその姿を現した。どっと拍手が沸きあがる。

「!」

 続いてふたりの目つきの悪いスーツを着た男たちが現われて、宇山の腕を両側からかかえ耳元でささやいた。

「宇山剣一郎。殺人未遂の疑いで署までご同行願います」

 後から分かったのだが、義姉の美津子と三神はすっかりいい仲になっていたらしい。だから高所恐怖症だった三神の住んでいるのがマンションの1階だったことも熟知していた。そして、宇山が拍手の音を耳にすると、指揮棒が振れなくなるよう暗示を掛けられていたのだ。


 三神がマイクに向かう。

「プログラムを一部変更してお届け致します。まずは、オッフェンバックの『天国と地獄』から」

 そう言うと三神は、何事もなかったかのようにサッと指揮棒を振った。

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