その朝、わたしは新聞に掲載されていた人材募集の広告を二度見してしまった。それがちょっと風変わりな内容だったからだ。
“雄の三毛猫を飼っている方限定。1日6時間の簡単な事務作業で日給1万円の報酬を受け取れます”
わたしは膝の上で朝寝を決め込んでいる、三毛猫のにゃん太郎の所作をあらためて眺めた。
わたしは長年勤めた会社を定年退職し、とくになにもやることもなくブラブラと毎日を送っていた。それだけでも家内にとっては甚はなはだうっとうしいようで、なにかアルバイトでも探してこいと再三言われていたのだ。
わたしはカップに残ったコーヒーをのどに流し込んだ。
「おい。これどうかな」
わたしは新聞の求人欄をテーブルの上に押し出した。出勤前の妻は身繕いをしながら記事を斜め読みする。
「あら。あなたにぴったりじゃない」
「三毛猫の雄って珍しいんだよな」
「もちろんよ。獣医さんも初めて診察したって喜んだくらいだもの」
「・・・だよな。だとすると応募者もかなり少ないってことだ」
「お給料もいいし、面接だけでも受けてみれば・・・・・・あなたで勤まるのなら」
「馬鹿にするな。だてに役所で30年も働いていたわけじゃないぞ」
新築の家のローンもまだ少し残っている。少しでも働いて繰り上げ返済にあてることができれば大助かりだ。
丸くなって寝ていた三毛猫のにゃん太郎が頭を起こしてニャンと鳴いた。「そうだそうだ」と言っているように聞こえた。
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わたしは猫バッグににゃん太郎を押し込んで、電車で三つめの駅を降りた。
会社はマンションの一室であった。面接はそこで行われた。会社というより、ここは何かの団体のようだった。学術的な非営利団体らしい。わたしのほかには猫を連れて面接に来ていた紳士が数名見受けられた。
「篠束さんどうぞ」
わたしは名前を呼ばれリビングに入った。
「お待たせしました」
部屋にはめがねを掛けた紳士がひとり待ち受けていた。
「お掛けになる前に、先に猫ちゃんを拝見させていただいてよろしいですか」
「はい」
わたしは紳士の前に猫バッグを置き、チャックを開けた。
「お名前は?」
「にゃん太郎と言います」
紳士はにゃん太郎を抱きかかえた。
「おお、にゃん太郎くん。きみはかわいいねえ」
そう言いながら紳士は猫をつぶさに観察し始めた。そしてにゃん太郎を猫バッグにゆっくりと戻した。
「間違いありません。雄の三毛猫です」紳士がにっこりと笑った。「実はさきほどから三毛猫を持参して面接に来られた方々のほとんどの猫が雌めすだったのです」
「そうだったのですか」
「ご存じかもしれませんが、三毛猫の雄が生まれる確率は0.3%しかないのです。世界的にもまれでしてね、数千万円で取引されることもあるのです」
「それはまた驚いたな」
「あなたは幸運に恵まれた方なのですよ」そう言って紳士はわたしの履歴書を読み始めた。
「・・・・・・いいでしょう。採用です。明日からここへ来ていただけますでしょうか」
「はい問題ありませんが、ここでどのような仕事をすればいいのですか」
「簡単です」
紳士は壁にぎっしり詰まった本棚の百科事典を指さして言った。
「百科事典から猫に関する記述をパソコンに打ち出していただく。それだけです」
「それはいったい・・・・・・そんなことで報酬をいただけるのですか」
「うちの財団は世界的に猫愛好家が運営する特殊法人なのです。だから雄の三毛猫を飼っているという幸運な人間に対しても敬意を払います。ですから豊富な資金の活用先としてこのような仕事を斡旋させていただいているのです」
紳士は百科事典をペラペラとめくりながら言った。
「仕事は朝9時半から夕方4時半まで、ノルマはありません。自由な時間に休憩を取っていただいて差し支えないのです。テレビや音楽を掛けながらでもOKです。もちろん監視カメラなどもありませんからご心配なさらなくても大丈夫ですよ」
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わたしは翌日から仕事を開始した。
朝9時半前に出勤すると、紳士の秘書を名乗る女性がマンションの鍵を掛けて出かけてしまう。この鍵は特殊で、秘書の持っている鍵以外は反応しない。夕方4時半に秘書が鍵を開けてくれるまで、内側からは開けることができないのである。言うなれば本物の缶詰状態なのだ。
その日も夕方4時30分に秘書が鍵を開け、わたしの打ち込んだパソコンの内容を確認し、封筒に入った現金をわたしに渡すのだった。
「あの、ほんとうにこんな仕事でお金を頂戴してよろしいのでしょうか」と、扉の外に出たわたしは振り向いて秘書に尋ねた。
「もちろんですわ。それでは明日もお願い致します」
ピンヒールを履いた秘書は表情も変えずにそう言うと、鍵を閉めてどこかに消えてしまうのだった。
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そんなある日、家に帰ると妻が慌てている。
「にゃん太郎がいないの」
「なんだって。どこかに隠れてるんじゃないのかい」
「探したのよ。餌も食べていないし、水も減っていない」
「ぼくらが不在のときに誰かが忍びこんだのかな」
「空巣ってこと?」
妻は預金通帳やら印鑑やらを確認しに行く。「だいじょうぶみたい」
「どうしようか」
「警察を呼ぶっていうのはどうかしら?」
「猫の失踪に警察はないんじゃないか」
「うちの猫は普通の猫じゃないのよ。あなたも言ってたじゃない。数千万円で取引されているって」
「なるほど。それだけの価値があれば盗むやつがいてもおかしくないということか」
「感心してないで早く!」
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警察官が数人やって来た。
「篠束さん。この家は新築ですよね」
「そうですが、何か」
「勝手口のドアにピッキングの跡があります」
「それじゃあ、やっぱり空巣なのでしょうか」と妻が言う。
「それも一回や二回じゃない。何度も開けられている形跡があります」
「何度も?そんなばかな・・・・・・」
そのときどこからか猫の鳴き声がした。
わたしたちは頼りなげなその声の発信場所を探すため、家中をくまなく捜索したがどこにもにゃん太郎の姿を見つけることができなかった。
「にゃん太郎・・・・・・」
妻が床に座り込んだとき、足の下から猫の鳴き声が聞こえてきた。
「このカーペットの下。床下よ!」
わたしはすぐに警察官たちを呼び寄せた。カーペットを剥がすと、床板に切り込みがあった。以前はこんなものはなかったはずだ。
「開けますよ」
警察官のひとりが力を込めて床板を外すと、同時にゃん太郎が飛び出してきた。
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「もぬけの殻とはこのことだな」
警察官を連れてマンションに行くと、そこはすでに何も残されてはいなかった。ガランとした空き部屋があるだけだったのだ。
わたしの家が建つ前、そこは空き地だった。強盗団の犯人グループは逮捕される直前、盗んだ金を慌ててそこに埋めたのだった。刑務所から出所していざ金を掘り起こそうとしたところ、そこにわが家が建っていたというわけだ。
にゃん太郎は犯人が知らない間に、掘り起こしている穴に入り込んでしまったのだ。たぶん犯人たちが掘り起こした金と一緒に自分も連れ去られてしまうことを察知して隠れたのだろう。
なにしろ何千万円もする猫なのだから。